レポートインタビュー、記者会見、舞台挨拶、キャンペーンのレポートをお届けします。

2015年7月アーカイブ

kunisora-di-550.jpg『この国の空』荒井晴彦監督インタビュー

・(2015年 日本 2時間10分)
・原作:高井有一(「この国の空」新潮文庫刊)
・脚本・監督:荒井晴彦(脚本:『ヴァイブレーター』『共喰い』『さよなら歌舞伎町』など)
・出演:二階堂ふみ、長谷川博己、工藤夕貴、富田靖子、石橋蓮司、奥田瑛二
・公開:2015年8月8日(土)~テアトル新宿、丸の内TOEI、テアトル梅田、イオンシネマ京都桂川、シネ・リーブル神戸、ほか順次公開
・公式サイト⇒ http://kuni-sora.com/ 
・コピーライト: (C)2015「この国の空」製作委員会

 


  

~戦争が終わればこの恋も終わる…里子の切なすぎる初恋~

 

kunisora-550.jpg日本映画を代表する脚本家・荒井晴彦氏が、近く公開される『この国の空』で『身も心も』以来17年ぶりにメガホンを取った。芥川賞作家・高井有一の同名小説を出版当時に読み、「映画にしたい」と考え長年温めてきた。“戦後70年”で日の目を見ることになり、プロデューサーから「自分で監督すれば」と言われて監督したという。

戦時下、空襲激しい東京、母(工藤夕貴)と暮らす19歳の娘・里子(二階堂ふみ)と、隣に住む妻子を疎開させている男・市毛(長谷川博己)との“垣根越しの恋”を描く、荒井氏らしい情念の映画。

戦争末期、男たちは戦場へ駆り出され、里子は激しくなる空襲を複雑な思いで眺めていた。「いつ死ぬか分からないのだから、仲良く暮らそう」と、里子は、食糧不足であえぐ中転がり込んできた叔母と母親がいさかいを繰り返す度に諭していた。誰もがある覚悟を持って生きていた時代。若い身空で恋も知らずに死ぬことは堪らなく不安なことだろう。そんな里子が、隣家に住む妻子持ちだがバイオリンを弾く素敵な男性に惹かれたのは自然なこと。「普段だったら、妻子ある男性の家に娘一人を行かせはしませんよ。だけど、今は娘をお願いします、という気持ちもある。」という、母親の言葉は重い。

「戦争が終わるのを望まない女もいた、そのこと自体が戦争がもたらす不幸だ」と語る荒井晴彦監督の、反戦の意が込められた作品でもある。


 ――― 脚本家・荒井晴彦はすでに確立している存在だが、映画化の決め手になったのは?
荒井晴彦氏:原作の出版当時(83年)に読んで、ヒロイン里子が神社で男に抱きつくところの画が浮かんだんです。原作者の高井さんに会って“原作を下さい”ってお願いしたら快諾してもらいました。


――― 17年ぶりに自分で監督したのは?
kunisora-di-2.jpg荒井晴彦氏:7年前に脚本書いて、根岸(吉太郎)監督に脚本を見せた時は「いい脚本だけど、誰が見るの?」って言われました。だから、プロデューサーに監督について相談したら「自分でやれば」と言われて。

――― 根岸監督にはどう答えたのか?
荒井晴彦氏:いい脚本なら撮りたいと思わないのかと。興行のこと言うくせに当てたことないじゃないかと思ったけど、言いませんでした。撮影所育ちの監督は自分から企画を出さない人が多いですね。

――― 荒井さんは撮影所に所属したことがない?
荒井晴彦氏:ありません。日活出身と思われていますけどね。

――― 脚本家・荒井晴彦氏と映画監督は時に対立する?
荒井晴彦氏:監督はシナリオは自分のために書かれるべきだと思っているようです。脚本家は映画に向かって書いているんですけどね。映画に奉仕するけど監督には奉仕しない。監督と脚本家は対等だと思っています。日本は監督主義だから困ることがありますが…。

――― この映画の現場ではどうだったか?
荒井晴彦氏:どうしても“監督”と呼んでしまうようだけど「絶対、監督と呼ぶな」とスタッフみんなに言ったんです。「脚本を担当した」と言うけど、「監督を担当した」とは言わない。よく見かける「監督・脚本」誰それというクレジット、監督が脚本も書きました、みたいな。この映画のクレジットは「脚本・監督」になっています。アメリカでは“Written and Directed by”(脚本、監督)です。私は雑誌をやっているけど、「監督・脚本」とあるのは「脚本・監督」に直します。

――― 監督が荒井脚本を手直しして揉めることはある?
荒井晴彦氏:三度ありました。脚本を手直ししたらいけないと言っている訳ではありません。でも、手直しする時は脚本家に直させたらいいと思います。脚本家に無断で直すなと言っているんです。

――― その点では、溝口健二監督が脚本家の依田義賢に何十回も書き直させたのは正しい監督と脚本家のあり方?
荒井晴彦氏:そうなりますね。何十回はいやですけど。

――― 17年ぶりの監督となると、忘れていることもあったのでは?
荒井晴彦氏:確かに、なかなか(監督としての)勘が戻らなかったですね。監督はいろんなことを決めなきゃいけないし、どこかで妥協しなきゃいけないですからね。

――― 終戦直前の苦しい時代のホームドラマということだが?
kunisora-2.jpg荒井晴彦氏:戦争が終わって嬉しくないと思った女の子を撮りたかったんです。2年前の『戦争と一人の女』でもありましたが、人間は自分に向かって爆弾を落とすB29でも、美しいと思ってしまう。爆弾でいつ死ぬか分からない中での里子のロストバージンの話です。彼女には“終戦から始まる戦いがある”ということです。

――― あの時代にしては、けっこう食べるシーンが多かったようだが?
荒井晴彦氏:原作にはもっといろいろなシーンがありますが、食べるシーンが多くなりましたね。東京は焼け野原になったと思われているけど、焼けなかった所もあったんですよ。大空襲の映画はこれまでたくさんあって、被害があったことばかりが描かれてきました。空襲被害の映画は、工藤夕貴が出た今井正監督の『戦争と青春』(91年)でも十分描かれています。

――― 昨年の『さよなら歌舞伎町』(荒井晴彦氏脚本、廣木隆一監督)で、荒井晴彦氏健在を実感したが、この映画はちょっとテイストが違うように思った。
荒井晴彦氏:「幅広なんだけどね」と言いたくなることもあります。『さよなら歌舞伎町』はオリジナルと言われているけど、“グランドホテル”ですよ。三谷幸喜の『有頂天ホテル』も“グランドホテル”って言っていたようだけど。今や、三谷幸喜と張り合っているかも(笑)。

――― キネマ旬報脚本賞を5回受賞して、最多受賞の大脚本家・橋本忍氏に並んだ。荒井さんの監督作品は当然、注目の的だが?
荒井晴彦氏:川瀬陽太という役者にメールで、「『幻の湖』(橋本忍初監督=失敗作の評価)にならないように」と突っ込まれました。

――― これから映画にしたいシナリオは?
荒井晴彦氏:たくさんあります。数本? いやあシナリオ出来ているだけで7 ~ 8本はありますね。最近は若い脚本家が出てこないしね。

――― 集団的自衛権で随分きな臭い時代となってきたが、『この国の空』で警告を?
荒井晴彦氏:いやあ、映画は無力です。反戦映画はいっぱい作られてきたけど、戦争は無くならない。それにしても、60年安保の時は30万人は集まった学生・市民・労働者たちが、今は当時の10分の1程度。今の若者たちはどこで何やってるんでしょうねえ。


 (安永 五郎)

okinawa-di-550.jpg戦後70年、沖縄は問いかける『沖縄 うりずんの雨』ジャン・ユンカーマン監督インタビュー

(2015年7月15日(水) 大阪十三 シアターセブンにて)

・インターナショナルタイトル:The Afterburn
・2015年 日本 2時間28分
・監督:ジャン・ユンカーマン(『老人と海』『映画 日本国憲法』)
・シグロ30周年記念作品

公式サイト⇒ http://okinawa-urizun.com/ 
・コピーライト:(C)2015 SIGLO

・公開情報:2015年6月20日(土)~東京・岩波ホール、沖縄・桜坂劇場、 8月8日(土)~第七藝劇場、近日~京都シネマ、神戸アートビレッジセンター ほか全国順次公開


 【トークショーのお知らせ】
・日 時:2015年8月9日(日)15:30の回上映後

・ゲスト:ジャン・ユンカーマン監督


  

~戦後70年、沖縄は問いかける。
沖縄の歴史と現状を通して見えてくる、“平和憲法の国”日本の未来~

 

「うりずん」とは、「潤いはじめ」(うるおいぞめ)を語源とし、冬が終わって大地が潤い、草木が芽吹く3月頃から、沖縄が梅雨の入る5月くらいまでの時期を指す言葉だそうだ。丁度、太平洋戦争末期の熾烈を極めた沖縄戦の時期とも重なり、戦争経験者は元より戦後生まれの人でも、その頃になると体調を崩す人が多いと言われる。

 
okinawa-500-1.jpg毎年8月15日の終戦記念日が近づくと、新聞・テレビなどでも太平洋戦争にまつわる特集が組まれ、犠牲者への哀悼の意を示すと共に、悲劇を繰り返さぬ誓いを新たにしてきた。だが、果たして太平洋戦争と戦後の歩みについて、私たちは正確な情報を得てきたのだろうか。「真の平和を求め、不屈の戦いを続けている沖縄の人々の尊厳を描いた」映画『沖縄 うりずんの雨』で捉えられた沖縄の歴史と現状は、見る者の眼を開かせ、大いに刺激を与えてくれる。アメリカ・沖縄双方からの公平な視点、分かりやすい4部構成、説得力のある豊富な資料映像や証言など、今までにない強烈な発信力を持つドキュメンタリー映画に、ひたすら圧倒されてしまった。


アメリカ人のジャン・ユンカーマン監督は、1975年頃から沖縄に強い関心を持ち、武器を持たない文化の沖縄に憧れて「空手」を習い、沖縄文化を紹介する活動もしていたという。武器に頼る文化のアメリカとは対称的なところに魅力を感じて、いつかは沖縄の映画を撮りたいと。戦後60年の2005年には、世界の知識人12人へのインタビューを基に日本国憲法を検証した『映画 日本国憲法』の撮った際に、平和憲法に守られた本土と、米軍基地のある沖縄との矛盾を感じて、本作を撮ろうと思ったそうだ。


東京では6月20日から公開されて大反響を呼んでいる。大阪での8月8日の公開を前に来阪したジャン・ユンカーマン監督がインタビューに応えてくれた。「沖縄への想いが深いので、この映画の公開は緊張しています。一生に一回しか撮れない映画です。」という言葉通り、誠実な人柄は作品にも表れている。

 


  

 【映画化の理由について】

okinawa-di-2.jpg――― この作品を撮ろうと思った一番の理由は?
沖縄以外にも日本各地に米軍基地はありますが、沖縄ほど広い土地を占領しているところはありません。主権国家では在り得ないことなのです。さらに、『映画 日本国憲法』(2005)を作った時、沖縄ほど日本国憲法9条が矛盾する所はないと思いました。本土は平和憲法に守られているが、沖縄はそうではなく軍事の国…その矛盾に気付いた時からこの映画を撮ろうと思っていたんです。《理由その1》

――― 平和という観点からの矛盾ですね?
その通りです。

――― 沖縄本土復帰間もない頃、米兵の相談に応じておられたそうですが、具体的には?
ベトナム戦争終結間もない頃、反戦の意志を持つ米兵が軍法会議にかけられた時の法律相談や、支援活動の手伝いです。

――― 沖縄のプラスの一面として文化・芸術に対する思いは?
その頃、米兵向けの新聞を作って沖縄の歴史や文化を紹介する活動をしていました。私は沖縄の文化に憧れていて、武器を捨てた民族性をとても尊敬していました。武器を持たない空っぽの手で戦う「空手」を習っていたこともあります。武器に頼る文化のアメリカと、武器を持たない文化の沖縄とは対称的ですが、そこに魅力を感じて沖縄の映画を作りたいと思ったのです。《理由その2》

――― 沖縄戦はアメリカの人々にとって特別な戦闘だったのでしょうか?
沖縄戦について書かれた本がベストセラーになったこともあります。太平洋上の他の島での戦闘より戦闘期間も長いし、アメリカ兵の負傷者も多く、PTSDになった兵士が何万人もいたのです。資料映像を見ていても、時間が経つにつれて米兵が絶望的な表情に変わっていくのがよく分かるんですよ。

――― それほど壮絶で悲惨な戦いだったんですね?
okinawa-2.jpg彼らはプロフェッショナルな兵士ではなく、普通の一般市民だったんです。そういう意味では沖縄の人々と同じ立場なんです。戦争に巻き込まれて悲惨な経験をし、70年経った今でも思い出すだけで涙ぐんでしまう。米兵も沖縄の人々も苦しみを抱えたまま生きているんです。戦争がもたらす悲劇は、戦争が終わった今でも続いています。そこに反戦の意味が込められています。《理由その3》

 


 

 【4部構成について】

――― 最初から「沖縄戦」「占領」「凌辱」「明日へ」の4部構成にしようと思ったのですか?
okinawa-di-4.jpg最初から分けて撮ろうとは思ってなかったのですが、“沖縄戦”と“米軍による占領”と“その後”の3つの時代を描きたいとは考えていました。今の沖縄の現状を見ているとそれまでの経緯が見え辛いように思います。最初から丁寧に描くつもりで70年というスパンに取り掛かりました。70年はとても長いので、それまでに積み重ねられてきた中からエピソードをピックアップして強調しようと思っていました。去年の春ぐらいから編集し始めたのですが、4部構成にしようと決めたのは今年の2月ぐらいです。エピソードを並べただけでは語り口に違和感があったので、4つに分けて、それぞれに焦点を当てて編集するようにしました。特に3部の「凌辱」は全体のテーマにもなることなので、歴史の一部として取り扱うことはしませんでした。

――― 1年かけて編集したからこそ、分かりやすい作品になったのですね?
私はいつも編集が遅いので(笑)。全体的にナレーターが引っ張って行くのではなく、当事者の話でつなぐようにしました。インタビュー時間だけも80時間ありました。各人のインタビューの中から各部のテーマに即したものを抜粋していくのですが、その際、内容が重複するような文言を削ったり、同じようなケースでは問題意識が薄められないようにバッサリと切ったりして、効果的な編集をしたつもりです。4時間位に編集できた時に2作品に分けようかとも思ったのですが、より確実に伝えるためには短縮する方が効果的だと考えました。結果2時間28分の1本の作品に仕上がったのです。

――― 思いが強い程つい盛り込みがちですが、よく思い切れましたね?
そんなもんです、映画を作るということは。

――― 沖縄とアメリカの双方から公平に描かれていますが、資料映像はどこから?
資料映像はアメリカの公文書館にあったものを、沖縄県とNHKがコピーして持って帰ったもので、沖縄の公文書館にあります。100時間以上ありますが、誰でも見られるものです。

 


  

【インタビュー取材について】

――― アメリカ人の証言者は独自にリサーチされたのですか?
1995年に起きた12歳少女レイプ事件の犯人の一人、ロドリコ・ハープについては、6~7ヶ月位かけて調べて彼の弁護士を通じてオファーしました。中々承諾を得られませんでしたが、私がこの春まで勤めていた早稲田大学の教授という立場で手紙を書いたら、彼が信頼してくれてすぐに承諾してくれました。

――― ハープはどういう心境でインタビューに応じたのでしょうか?
インタビューに答えることは自分のためになると言っていました。カメラの前であの事件のことを語ることは、彼なりに過去へ決着を付けられると思ったのでしょう。

――― ハープにとってもあの事件は悪夢だったと言っていますが、主犯格の人はインタビューに応じていませんね?
同じように探したのですが、ダメでした。彼の母親とは連絡がついたのですが、「自分のことはどこで何をしているのか話さないでほしい」と言っていたそうです。

――― 沖縄戦の二人の元米軍兵士へは退役軍人協会を通じてオファーしたのですか?
okinawa-di-3.jpgいえ、アメリカのリサーチャーが直接連絡をとってお願いしました。レナード・ラザリック氏もドナルド・デンカー氏も、ストリート・ジャーナルのドキュメンタリー番組に出演されていたんです。いろんなドキュメンタリーを見た中で、この二人が一番良心的な話し方をしていたし、また話し慣れていたのも大きな理由です。ラザリック氏は小学校などで沖縄戦のことを語り継いでいて、デンカー氏は沖縄戦の本も出版されています。二人とも沖縄戦についてとても詳しい上に、自分の気持ちを整理して語れる人達なのです。

――― 元日本兵の近藤一さんの証言について?
シグロ作品で『ガイサンシーとその姉妹たち』(2007)というドキュメンタリー映画の中で、彼は中国の慰安所について証言していました。その時「日本兵は沖縄の人々を中国と同じ第3世界の人々として見下していた」という事を聞いていたので、それを思い出して今回も証言してもらいました。

――― 沖縄の人々は、日本兵からも米兵からも見下されていたんですね。それが「凌辱」という言葉につながっていく訳ですね?
そこが重要なポイントなんです。沖縄の人々がそのことを主張しても、“被害者意識”がそう言わせていると思われがちですが、元日本兵の近藤さんが言うと真実として受け止めてもらえるんです。

――― 中国で多くの慰安所ができた経緯は知っていますが、それが沖縄にもあったとは意外でした。
沖縄本島をはじめ小さな島にもあり、全部で146ヶ所もあったそうです。

 


 

【沖縄の現状と平和を希求する心】

――― 今後の沖縄基地問題について、アメリカでの関心度は?
okinawa-500-4.jpg沖縄に対する関心が少しずつではありますが高まってきています。大学の先生や活動家が辺野古への基地移設に反対する呼びかけが強くなってきています。元兵士による団体も声明を出しています。帰還兵の中には沖縄のことを大事に思っている人が多いのです。米軍は沖縄を戦利品のように扱っているかもしれませんが、一人一人の兵士はそうは思っていません。沖縄戦の元兵士たちがツアーを組んで沖縄にやって来た時、先ず驚いたことは、「まだこんなに基地があるのか?」ということでした。

――― 沖縄の基地はアジアでも一番大きいのですか?
アジアでは韓国と日本に常態的に米軍基地がありますが、空軍基地としては沖縄の基地が一番大きいです。兵士と軍属合せて年間約5万人のアメリカ人が沖縄に駐留しています。戦後70年の間には350万人ですよ。

――― 沖縄の人々は反戦への強い意識を持って生きておられるように感じたのですが?
okinawa-550.jpg日本で唯一、地上戦が集中して行われた所ですからね。沖縄戦の終戦記念日の6月23日には、摩文仁に代表されるような大きな慰霊祭だけではなく、集団自決のあったチビチリガマのような集落や沢山の人々が犠牲になった町など至る所で慰霊祭が行われています。それほど沖縄では多くの犠牲者が出て、戦場となったことを意味しているのです。そして、若い世代に確実に語り継がれているので、皆が反戦への強い意識を持って生きていると思います。

――― 戦争中の日本と今の日本とを比較して思うことは?
okinawa-3.jpg根本的に比較にはならないと思います。今の日本は軍国主義を強要しても誰も言う事を聞かないでしょう。一般住民が集団自決したチリチリガマのような狂った愛国心につながる事態にはならないと思います。ただ、過去の戦争で起こした事件を認めず、無かったことにしようとする姿勢は問題です。沖縄の人々は慰霊祭の度に、過去の戦争を思い出し、語り継ごうとしています。だからこそ平和を希求する想いが強く、戦争に反発する気持ちがより一層強いのです。

――― 英題「The Afterburn」の意味は?
沖縄では、慰霊祭の時でも絶えず戦闘機が飛び交っています。常に戦争を身近に感じながら生活しているので、戦争を忘れたくても忘れられないのです。「The Afterburn」とは、トラウマが解消しない限り傷はどんどん深くなっていく、という意味なんです。米軍基地という問題がある限り、沖縄の人々が心から平和を享受することは不可能なんです。

――― それが沖縄の現実なんですね?
その通りです。


 (河田 真喜子)

nobi-di-550.jpg若い人の宝になる映画を!『野火』塚本晋也監督インタビュー

(2014年 日本 1時間27分)
・原作:大岡昇平
・製作・脚本・撮影・監督・編集:塚本晋也
・出演:塚本晋也、リリー・フランキー、中村達也、森 優作、中村優子
・2015年7月25日(土)~渋谷ユーロスペース、8月1日(土)~シネ・リーブル梅田、京都シネマ、シネ・リーブル神戸 ほか全国順次公開
・公式サイト⇒ http://nobi-movie.com/
・コピーライト:(C)SHINYA TSUKAMOTO / KAIJYU THEATER


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~雄大で美しい風景と無残で小さい人間、このコントラストを撮りたかった~

 

大岡昇平が第2次大戦中、フィリピン戦線での日本軍の苦闘を描いた問題作。1951年に「展望」に発表した戦争文学の代表作。第3回(昭和26年度)読売文学賞・小説賞受賞。59年に市川崑監督が大映で映画化している。


【物語】
nobi-550.jpg第2次大戦末期のフィリピン・レイテ島。敗色濃厚で日本兵たちが飢えに苦しむ中、田村一等兵(塚本晋也)は結核を患い、部隊を追い出されて野戦病院行きを命じられるが、病院も負傷兵で入れず、田村は追い出される。戻った部隊からも入隊を拒否され、原野をさまよい歩く。空腹と孤独、容赦なく照りつける太陽の熱と戦いながら、田村は地獄のありさまを目の当たりにする。殺人、人肉食への欲求、同胞すら狩ってまでも生き延びようとする戦友たち。何とか生き延びた田村にも、いつしか狂気がしのび寄る…。  

死体が行く手にゴロゴロ転がる、凄惨な画面には絶句するしかない。人間はどこまで残酷になれるのか? 限界を試すようなフィリピンの無残極まりない描写は、今転がって行きつつある“いつか来た道”への警告に違いない。


 塚本晋也監督が構想20年をかけた悲願の作品『野火』(大岡昇平原作)が完成し9日、大阪・シネ・リーブル梅田で先行上映された。舞台あいさつのため来阪した塚本監督に、映画に込めた思いを聞いた。


―――『野火』の映画化はいつ頃から考えていたのか?
塚本晋也監督:原作を高校時代に読んで、鮮烈に頭に残った。悪いトラウマではなく、いいトラウマになった。映画少年だったんで、いつか映画化したい、とその時から思っていた。あれから40年。凄惨な戦場の映画ですが、雄大で美しい風景と無残で小さい人間、このコントラストだけは描きたいと考え、30代でも40代でもそこは変わらなかった。

nobi-di-2.jpg――― 脚本執筆はいつ頃? 
塚本監督:30代にはシノプシスを書いた。輪郭は変わっていない。原作に近づいて、追体験していく旅、みたいな感じですね。

――― 市川崑監督の『野火』(59年)は見たか?
塚本監督: 銀座・並木座で見た。強い印象を受けた。崑さんを大尊敬している。心に残りました。崑さんの人間性にも…。自分が撮っていたモノクロの8㍉映画に影響を受けた。その後、崑さんの映画をずいぶん見た。

――― 市川崑監督フリークだった?
塚本監督:日本映画が好きで崑監督も好きだが、黒澤明監督、岡本喜八監督も好きでした。一番好きなのは神代辰巳監督ですけど。全盛期の日活ロマンポルノは中学生なので見られなかった。東宝時代の『青春の蹉跌』や『アフリカの光』などを見てます。日活時代の映画は今後の楽しみにしています。

――― 監督としては最初が『鉄男』(89年)になる?
塚本監督: 『野火』にはまだまだ手が届かなかった。30歳過ぎて映画にしようとしたが、規模が大きく現実的にはならなかった。10年ぐらい前に、戦場に行った方々が80歳を超えられた頃、インタビューを始めた。レイテ島の戦友会のリーダーの紹介で10人ぐらいの方々に聞いた。実際、人間がいかに簡単に物体に変化するものか、聞いた。写真も見せてもらった。

――― カニバリズム(人肉食)については?
塚本監督:自分が、とは誰も言わないが、現地では普通に行われていたようです。理性が働いてる状況じゃない。食べたか食べなかったか、良い悪いを問う映画ではない。

nobi-di-3.jpg――― 原作は文学的表現になっているが?
塚本監督:市川崑作品では食べていない。人肉を食べて歯がボロボロになって食べられなかったということになる。今作では、食べただろうなという程度。サルの肉とされているが、バラバラ死体はサルではなく人間に見える。

―――『鉄男』をはじめ、海外や日本でも“塚本フリーク”は多いが『野火』はアレっと思う作品では?
塚本監督:そうかな?  ある種のファンタジーとして見せる映画が多かったが、根っこのところでは共通している、と思う。

――― 丁度戦後70年の節目の公開になるが?
塚本監督:そこを目指した訳じゃないが、偶然のようで、実は必然だった。10年前には取れなかった原作(の映画化権)も取れたし、周りのスタッフも頑張って、1着買った軍服を50着にしてくれた。奇跡みたいにして出来た映画です。

――― 自ら主演も。はじめから自分でやるつもりだった?
塚本監督:いやいや、もっとほかの人でオファーもありましたが、やっぱり自分で、ということに。普通の人っていう目線を意識した。田村(主人公)とお客さんが一緒です、と。

―――『野火』の前に(マーティン・)スコセッシ監督の『沈黙』に3か月、中心になる「茂吉」役で出演しているが?
塚本監督:遠藤周作原作で、これもスコセッシ監督が20年ぐらい温めていた作品。『野火』、スコセッシ監督作品と、宿願の作品にかかわれた、意義ある1年。この1年は“ビフォーアフター”みたいですね。 

――― 昨年9月にベネチア国際映画祭コンペ部門に出しているが、反響は?
塚本監督:お客さんのスタンディング・オベーションはものすごく長かった。マスコミは賛否両論。暴力シーンではっきり別れました。

――― 若い人に見てもらいたい映画?
塚本監督:本当にそう。私たちが子供時代に“はだしのゲン”を見て心から感動したように、若い人には宝になる映画です。

(安永 五郎)

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『チャップリンからの贈りもの』グザヴィエ・ボーヴォワ監督インタビュー&トークショー@フランス映画祭2015
 

~「神を信じていないけれど、チャップリンは信じています。」

グザヴィエ・ボーヴォワ監督×ミシェル・ルグランが綴る

チャップリン遺体誘拐の顛末とほろりとする結末~

 
伝説の喜劇王、チャーリー・チャップリンは、いつも社会の底辺で生きる人たちに目を向け、その苦しみや歓びをユーモアと皮肉を絶妙なさじ加減で取り入れながら描き続けてきた。そんな偉大なチャップリンを思わぬ形で取り上げ、現在に”甦らせた“のが、実在のチャップリン遺体誘拐事件を題材にした、グザヴィエ・ボーヴォワ監督最新作の『チャップリンからの贈りもの』だ。
 
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<ストーリー>
1978年、スイスのレマン湖畔に住む、移民のオスマン(ロシュディ・ゼム)は、刑務所から出所したばかりの親友エディ(ブノワ・ポールヴールド)を離れのバラックに住まわせながら、娘サミラと共にギリギリの生活を送っていた。ある日、エディとテレビを見ていると、チャールズ・チャップリン逝去のニュースを目にする。妻の入院費が払えず窮地に陥ったオスマンのためにエディは、前代未聞のチャップリンの遺骨を誘拐し、身代金を奪う計画を立てるのだったが・・・。
 
チャップリンの遺族が本作へ全面的に協力し、作品中でもチャップリンの妻役やサーカス座長役で出演している他、なんといっても感動的なのは『シェルブールの雨傘』をはじめ、数々の素晴らしい映画音楽を手がけたミシェル・ルグランが、本作で久しぶりに音楽を担当していること。往年の名画を観ているような壮大な音楽に胸が熱くなる。
 
遺体誘拐事件の犯人側にスポットを当て、彼らが当時置かれていた状況や、誘拐事件を起こさねばならなかった理由、そして映画ならではの結末に希望が見える、グザヴィエ・ボーヴォワ監督流ファンタジー。ファンタジー要素をより高めたのが主役のブノワ・ポールヴールド演じるエディがサーカス座で職を得、二人組のパントマイムを演じるシーンだ。チャップリンの姿がかさなるようなエディの姿やラストシーンは、記憶に残ることだろう。
 
グザヴィエ・ボーヴォワ監督へのインタビューでは、チャップリンへの思いやサーカスシーンの裏話をお聞かせいただいた。
 

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―――チャップリンの存在の偉大さや、グザヴィエ・ボーヴォア監督が学ぶべきものを引き継いでいる偉大さを感じましたが、監督にとってチャップリンはどのような存在ですか?
私は神を信じていないけれど、チャップリンは信じています。チャップリンが語る言葉は、私の前作『神々と男たち』の修道僧に語らせても、ぴったりくるような台詞がありました。『チャップリンの独裁者』でのスピーチも修道僧に語らせても非常にしっくりくるもので、そういう意味でもチャップリンは偉大な存在だったと思います。
 
 
―――犯人が移民であることも、この事件や本作の脚本を書く上で大きな要素となっていたと思いますが、当時の社会的背景や移民たちの置かれていた状況について教えてください。
事件はスイスで起こっていますが、フランスとスイスで実は状況は違っていました。スイスは移民を街の中に溶け込ませ、住まわせていましたが、フランスの場合は移民を郊外に追いやり、ゲットーのようなところで住まわせていたのです。スイスは最初から移民に滞在許可を与えていましたが、フランスはなかなか滞在許可を与えませんでした。しかも当時フランスは労働力確保のために移民を来させておきながら、滞在許可や労働許可を与えなかったのです。これがそもそもフランスの間違いだったと思います。労働力として入国させたなら、スイスのように街の中に住まわせ、労働許可を出すべきでした。それが今フランスで起きている様々な事件の根源になっていると思います。
 
 

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―――サーカスのシーンで、ブノワ・ポールヴールド演じるエディの二人組の出し物(パントマイム)が素晴らしかったですが、このシーンはどのように作り上げていったのですか?
本当のサーカスの出し物を見て、それが素晴らしかったので映画に採用しました。ブノワは、最初は道化師の役は絶対にやらないと言い張っていました。赤い鼻をつけた、いわゆる道化師ではないと話をしても、DVDを見せようとしても断固拒絶されたのです。最終的には、一緒にサーカスを見に行って、生のサーカスのパントマイムを見て、ようやく「これだったら、やってみる」と快諾してくれました。
実際のサーカスでのパントマイムは、本番一回だけですが、映画の撮影時は20回、30回と同じことをやらなければならなかったので、翌日ブノワは「筋肉痛だ!」と大騒ぎしていました。
 
 
―――墓を掘り起こすシーンと、埋め戻すシーンの曲は少し楽しそうな雰囲気がありましたが、監督からはどのような指示を出したのですか?
お墓を掘り起こす奇妙で奇天烈な人がいたということで、ファニーな音楽を起用しました。刑事ものであれば暗い感じの音楽になりますが、そういうものは作りたくなかったのです。
 
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―――『ライムライト』をアレンジした音楽が使われていましたが、その意図は?
『ライムライト』をアレンジしたのは、ミシェル・ルグランです。この曲を使ったのは、お墓を掘り起こしたときに、チャップリンの魂がもう一度表舞台に現れたという感じを出したかったのです。そこで、『ライムライト』の曲で登場させたのです。執事が「こんな事件でももう一度表舞台に(チャップリンが)出てきたので、私はもう一度ここにいなくてはいけない」と最後に言いますが、そこでも掘り起こされたことにより、生き返りはしませんが、やはり“チャップリンは出てきた”のです。
(江口由美)
 

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フランス映画祭2015上映後に行われたトークショーでは、東京を気に入ってくださった監督の熱のこもった挨拶に続き、音楽について話が及んだときは、担当したミシェル・ルグランになんと生電話という、うれしいサプライズも。きっとチャップリンも微笑みながら見守ってくれていたであろう、最後まで盛り上がったトークショーの様子をご紹介したい。
 
ゲスト:グザヴィエ・ボーヴォワ監督
(2015年6月29日(日)@有楽町朝日ホール)
 

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――― 最初のご挨拶。
皆様こんにちは~。この場を借りてこの作品を公開して下さった関係者の方々にお礼を申し上げます。
私は、私の作品を紹介してくれるいろんな国へ行って「この国に来られて嬉しい」といつも言っていますが、それはウソで、心の中では「本当は家に居たかった」と思うことが多いです。ですが、今回は本当に本心から日本に来ることができて嬉しく思っております。私の友達の多くは日本が好きです。日本映画は勿論、家並みやファッション、和食や文化、特に注目したのは自分以外をリスペクトする姿勢です。東京はこんな大都会なのに、物音があまりしません。車も静かで、あまりに静かなのでびっくりしたくらいです。今回は皆様とお会いできて大変嬉しく思っております。
黒澤明監督は、「映画について語ることは余計なことだ」と仰ってたと思いますが、「見ればわかる」ということでが、私は私の映画についてひと言説明させて頂ければと思います。
 
 
――― この映画は実際に起きたチャップリン遺体誘拐事件を基に作られていますが、今なぜこれを題材にして作ったのですか?
家で妻と『ライムライト』を見ていて、その事件のことを思い出して妻に話したんです。すると、「冗談でしょ!?」と信じなかったんです。そこで、インターネットで調べて説明していたら、「チャップリンの遺体を盗むなんて、こんな奇妙奇天烈なことは映画にすべきだ!」と思って作ったのです。
 
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――― 音楽を巨匠ミシェル・ルグランが手掛けておられるのに、先ずびっくり! さらに、滑稽で間抜けなシーンにそれが使われていたのにまたびっくり!彼を起用した理由は?
映画は魂を持った人間のようだと思っています。映画を作るということは、魂に導かれるように創り上げていくことだと。先ず、その作品は音楽が必要かどうかを考え、必要だったら魂からの呼びかけがあると思っています。
ミシェル・ルグランの音楽は大好きで、『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』などずっと彼の音楽を聴いて育った人間ですので、「是非担当して欲しい!」とオファーしたら、OKして下さったのです。しかも、フランスにあるお城のようなご自宅に3週間泊めて頂いて、一緒に生活するという幸運に恵まれたのです。スタジオはハリウッドにあったのですが、フランス人女優の奥様がフランスに居たいと仰って、そうなったのです。
編集を担当していた私の妻は、編集機をルグランさんのピアノの横に置いて、ルグランさんはシーンを見ながら作曲するという共同作業ができたのです。彼は83歳ですが、若々しくてとても熱意のある方です。オーケストラのイメージも同時に出来上っていて、作曲も演奏もすべてやって頂きました。今思い出しても涙ぐんでしまうほど感謝しております。
 
(ここで突然携帯電話を取り出して、電話を掛けるボーヴォワ監督……相手はなんと、ミシェル・ルグラン!! 会場の大喝采を送ると、「日本の皆さんにカンパイ!」とミシェル・ルグランの元気な声でお返事が!―― 思わぬプレゼントに会場は大盛り上がり。)
 
 
――― 『ライムライト』を思わせるラストシーンが特に印象的でしたが、最初からそうするつもりでしたか?
社会の陰の部分で生きている人も光の方へ行ってほしい。人は立ち上がることができる。スイスで撮影したのですが、可能な限りの光を集めて撮影しました。刑務所から出所する時に「もう道化師は辞めろよ」と言われるのですが、結局サーカスで道化師をやることでエディは立ち直っていくのです。そこがとても重要なことだったのです。私の子供時代もとても大変なことがあり不幸でした。ですが、映画の力で光の方へ行けたのです。同じように立ち直ってほしいという願いを込めて撮りました。
 
 
――― 雨のシーンが多かったようですが、何か理由があるのですか?
チャップリンが亡くなったのはクリスマスで、必然的に冬のシーンが多くなって雨が多かったのです。自然の雨のシーンは好きで、よく撮ります。思い通りの気候を人工的に設定して撮影したい監督もいますが、私は自然に任せて撮る方です。
 
 

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――― 『神々と男たち』でも素晴らしい映像で魅了させてくれたキャメラマンのカロリーヌ・シャンプティエとの仕事について?
彼女とは5作品一緒に仕事をしています。彼女なしでは撮影は考えられない程です。言葉に出さなくても私の意図を素早く理解してくれます。私たちがよく考えていることはあまり美しくなり過ぎないようにすることです。俳優とのやりとりもよく理解してくれています。彼女は、半分はアーティストで、半分は「サムライ」だと思っています。芸術家としてのセンスも素晴らしく、モーターのような原動力があり、さらに確固たる意志を持った人なんです。体は小さいのですが、「サムライ」のような人だと思っています。
 
 
――― とてもユーモアのある作品でしたが、チャップリンの秘書の方や娘さんなどの身内の方はどう捉えていたのでしょう?
弁護士と検事のやり取りは実際の裁判記録から引用しています。結構、楽しんでいたのでは?と思われます。チャップリンの奥様は、最初「チャップリンは心の中で生きている」という理由で身代金は払わないと言っていたそうです。ですが、子供たちに危険が及ぶような脅迫をされ、それぞれにガードマンを付けたようなこともあったらしいです。ご家族にしてみれば不愉快な事件ですが、最後は粋な計らいで締めくくられましたので、今回の映画化にもとても協力して頂けたのです。チャップリンの偉大さは、亡くなってからもマスコミで大きく報道されて世界が注目し、死してなお二回目の生を生きた人なんだと思いました。
(河田真喜子)
 

<作品情報>
『チャップリンからの贈りもの』
原題:La rancon de la gloire  英題:THE PRICE OF FAME
・2014年 フランス 1時間55分
・監督:グザヴィエ・ボーヴォワ
・脚本:グザヴィエ・ボーヴォワ/エチエンヌ・コマール
・出演:ブノワ・ポールヴールド、ロシュディ・ゼム、キアラ・マストロヤンニ、ピーター・コヨーテ他
2015年7月18日(土)~YEBISU GARDEN CINEMA、シネスイッチ銀座、シネ・リーブル梅田、京都シネマ、シネ・リーブル神戸ほか、全国順次公開
公式サイト⇒ http://chaplin.gaga.ne.jp/
©Marie-Julie Maille / Why Not Productions
 

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『ボヴァリー夫人とパン屋』アンヌ・フォンティーヌ監督インタビュー
 

~小説『ボヴァリー夫人』に美しき隣人を重ねて・・・文学好きパン屋の危険な妄想~

 
フランスを代表する小説家ギュスターヴ・フローベールの傑作『ボヴァリー夫人』をモチーフに、小説好きの主人公が、美しく奔放な人妻に『ボヴァリー夫人』の悲劇のヒロイン、エマを重ねることで起こる物語を描いた『ボヴァリー夫人とパン屋』。
 
文学好きのパン屋、マルタンを演じるのは、『屋根裏部屋のマリアたち』『危険なプロット』の名優、ファブリス・ルキーニ。隣人の英国人人妻、ジェマを演じるのは『アンコール!!』のジェマ・アータートン。はまり役と言わんばかりの2人の演技が、物語にリアリティーを添える。『ココ・ヴァン・シャネル』『美しき絵の崩壊』のアンヌ・フォンティーヌ監督が、美しいフランス西部ノルマンディーの小さな村を舞台に、官能的かつ、ユーモアを交えて描き出した覗き見の恋物語は、ファンタジックであり、探偵もののような趣もあり、プラトニックラブもあり、妄想物語でもある。まさに味わい深いジャンルレスな作品だ。
 
女優業をされていたこともあってか、インタビュー後の写真撮影では「私は笑わないの」と、キリリとした表情でこちらを見つめてくださったアンヌ・フォンティーヌ監督。キャスティングの経緯や、本作で描いた「欲望」についてお話を伺った。
 
『ボヴァリー夫人とパン屋』アンヌ・フォンティーヌ監督トークショー@フランス映画祭2015 はコチラ
 
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  <ストーリー>
マルタンは出版社務めの後に、ノルマンディー美しい村でパン屋を営む文学好きな男。ある日、向かいに引っ越してきた英国人のチャーリーとジェマ・ボヴァリーを見て、愛読している『ボヴァリー夫人』の悲劇のヒロイン、エマを重ねるようになる。毎日パンを買いに来るジェマと少しずつ世間話をするような仲になるマルタンだったが、ある日、ジェマが年下の男のもとに向かう現場を目撃。小説のエマのように服毒自殺を図るのではと妄想が膨らんでいったマルタンは、ある行動に出るのだったが・・・
 

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―――本作の原作と出会ったきっかけや、本作を映画化するに至った経緯は? 
アンヌ・フォンティーヌ監督(以下監督):私がよく仕事をしているプロデューサーの机の上に偶然ポージー・シモンズさんの本が置いてありました。本のタイトル(『Madam Bovery』)や、表紙の絵がミステリアスで興味を惹かれました。本を借りて読んでみるとファンタジーに満ちており、とても面白い方法でフランス文学における伝説的人物である『ボヴァリー夫人』をモチーフとして扱っていました。ポージーが持つ描き方のトーンに惹かれ、ぜひ映画にしたいと思ったのです。 
 
―――パン屋という設定は原作でもあったのですか? 
監督:主人公がパン屋であること、ノルマンディーという舞台や、隣に引っ越してきたのが英国人夫婦なのは原作どおりです。他に映画の中で私が書き足したシーンもあります。 
 
―――具体的に、どんなシーンを書き足して物語を膨らませたのですか? 
監督:例えば、ファブリス・ルキーニ演じるパン屋のマルタンが、ジェマにパンをこねることを教える少しエロチックなシーンは、映画のために書きました。またラストも映画のために書いたシーンです。原作コミックの精神を踏襲し、書き加えていきました。 
 
―――主人公マルタンを演じたファブリス・ルキーニは、彼なくして本作はありえなかったというぐらい、まさにはまり役でしたが、キャスティングの経緯は?
監督:ファブリス・ルキーニとは旧知の仲で、映画を一緒に作ったこともありますし、演劇でもご一緒しているので、原作本を読んだときに、知的な文学狂のパン屋を演じられるのは彼しかいないと思いました。彼個人がフローベールの大ファンで、普段からもボヴァリー夫人のことを話していますから。彼はとても面白い人なので、即興などももちろん取り入れて演じてくれました。(トークショーでは、ルキーニが自分の娘をボヴァリー夫人の名前、エマと名付けたことや、初めて一緒に食事をしたときからボヴァリー夫人について熱く語っていたエピソードを披露) 
 
―――冒頭はファブリス・ルキニ演じる主人公のモノローグが挿入されていますが、その狙いは? 
監督:冒頭、ファブリス・ルキーニが観客に向かって語りかけるのは、彼がまるであの作品の映画作家であるような印象を与えたかったのです。映画において、あのようにカメラに語りかけるのは珍しいのですが、一つのスタイルとして選択しました。 
 

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―――ヒロインのジェマを演じたジェマ・アータートンさんも、艶やかで、とても魅力的ですが、起用理由は? 
監督:ジェマ・アータートンは、ポージー・シモンズさん原作の作品に出演経歴があるので、あえて起用は避け、他の英国人女優をオーディションしていたのですが、あまりしっくりきませんでした。ジェマは偶然ヒロインと名前も同じですし、役に合っていることは分かっていたので、最終的にはジェマと会いました。彼女が部屋に入ってきた一瞬にして、すごく官能的で、親しみやすく、モダンでありながらもクラシックな感じを抱いたのです。この役はエマ(『ボヴァリー夫人』のヒロイン)とジェマを両方演じられるようなモダンかつクラシックな素養が必要ですが、ジェマ・アンダーソンはまさにそれを体現している人物でした。 
 
―――わさびは芸者のように日本に関係あるものが登場しますが、監督は日本文化に関心があるのでしょうか?また影響を受けた映画監督は? 
監督:日本料理や日本文化も好きですし、ユーモアの一環で、今回(わさびや芸者を)使ってみました。今まで日本に関する作品を撮ったことはありませんが、東京は映画作家にとってインスピレーションを与える街だと思います。おすすめの日本を題材としたテーマがあれば教えてください。また影響を受けたのは、小津安二郎監督です。 
 
bovary-500-1.jpg―――本作はフランスですでに大ヒットしていますが、フランスの観客の心を掴んだ理由をどう分析していますか? 
監督:そうですね。コメディーですが、洗練されていることや、笑いの質としては残酷であったり、ブラックなところもあり、アングロサクソン的な笑いが評価されたのかもしれません。いずれにせよ、いい映画と思っていただいているからヒットしたのでしょう。 
 
 
―――『美しい絵の崩壊』も本作も「秘めたる欲望」を堂々と描いている印象がありますが、その意図は?
監督:欲望という点でいえば、本作はファブリス・ルキーニ演じるマルタンの欲望、投影による愛を描いています。ジェマはマルタンの妄想の人物でありながら、同時に現実に存在している人物です。現実とフィクションの間で心理学でいうトランスファー(転移)の状態にあるわけですが、その投影の愛はプラトニックで、それがマルタンの愛の構造です。 
 
『美しい絵の崩壊』はドラマツルギーで前代未聞の親友の息子に恋してしまうという、ありえない状況の愛や欲望の実現を取り上げています。両方の共通点をあげるなら、普段描かれない影の部分、人間のコントロールから外れ、難しい道に入ってしまう人々を描いているところにあると思います。 
 
―――次回作について、教えてください。 
監督:撮影が終わり、現在編集中の作品があります。1945年終戦前のポーランドの修道院が舞台で、32人の女優が修道女を演じています。赤十字で働く主人公にはルー・ドゥ・ラージュを起用し、彼女が修道院の女性たちと関わっていく物語です。他はポーランドの女優を起用していますが、『イーダ』で叔母役を演じたアガタ・クレシャも出演しています。 
(江口由美)

 
<作品情報>
『ボヴァリー夫人とパン屋』“Gemma Bovery”
(2014年 フランス 1時間39分)
監督:アンヌ・フォンテーヌ
出演:ファブリス・ルキーニ、ジェマ・アータートン、ジェイソン・フレミング、ニールス・シュナイダー
配給:コムストック・グループ 
公式サイト ⇒ http://www.boverytopanya.com/
7月11日(土)~シネスイッチ銀座、8月1日(土)~テアトル梅田、T・ジョイ京都、今夏、シネ・リーブル神戸ほか全国ロードショー
© 2014 – Albertine Productions – Ciné-@ - Gaumont – Cinéfrance 1888 – France 2 Cinéma – British Film Institute
 

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