健さん、男の夢をありがとう!
《高倉健 追悼特別寄稿 ―安永五郎》
京都の撮影所担当(日刊スポーツ文化部)、通称“撮回り”が原点だった。幸せなことに…。高校時代から大映“勝新・雷蔵”、次いで東映“鶴田・高倉”に熱くなった記者には、映画の現場(とりわけ京都)は“夢の工場”。取材の重圧に緊張はしたものの「目の前を映画が歩いている」思いだった。
数年間の撮影所担当で多くの俳優、監督、プロデューサーやスタッフ、時には撮影所長も取材したが、忘れられない大スターは大映・勝新太郎さんと東映・高倉健さんだ。スクリーンと素顔が異なるのはすでに常識だったが、この二人は、対照的な性格なのに差がないことが共通していた。つまり、映画の役柄そのままの人だった。
初めての“生・健さん”は新米記者の73年。東映京都撮影所『現代任侠史』(石井輝男監督)。60年代に一世を風びした東映任侠(やくざ)映画はその直前の72年、藤純子引退記念映画『関東緋桜一家』で幕を下ろし、時代は深作欣二監督『仁義なき戦い』を皮切りとする実録路線へと切り替わろうとしていた。『現代任侠史』は“実録風の任侠映画”の触れ込みで、健さんも最後は銃で撃たれて死ぬ。「それが珍しい」映画だった。
当時、現場取材は邪魔にならないよう「撮影の合間に片隅で立ち話(取材)」が原則。東映任侠映画『日本侠客伝』と『昭和残侠伝』などのシリーズをほぼ全作見ていた記者は、真正面で見る「どアップの花田秀次郎(昭和残侠伝)」に震える思いだったのを覚えている。
この時の話を記憶しているのは“花田秀次郎”だからか。映画の話はもちろん聞いたが、健さんが熱っぽく語ったのは当時、吉田拓郎のヒット曲「旅の宿」などで評判の作詞家・岡本おさみについてだった。取材で知り合ったとかで「素晴らしい人」と誉めるのに懸命だった。
健さんには数々の伝説が伝わるが「人との出会いを大切にする」「共感した人から学ぶ」姿勢がよく知られる。最初にその一端を見せてもらった、とずいぶん後になって分かった。
勝さんは対照的に、2~3度、撮影を覗いただけの新米記者も楽屋に入れてくれて直接話を聞けた。イメージ通り自由奔放、ざっくばらんな人だった。当時、当たり役『座頭市』はフジテレビ制作に移っていたが、その頃、アメリカで大ヒットしていた『ジョーズ』の話題に触れ「ハリウッドで“座頭市”を撮ったら、いい勝負出来るんじゃないか」と勝さんらしい壮大な夢を話していたものだ。
健さんでもうひとつ、有名なのが「俳優は私生活を見せてはいけない」という確固たる信念。だから、プライベートは秘中の秘だし、記者も伝聞でしか知らない。だが、物静かに“成りきる姿”を垣間見たことがある。“東映卒業後”、東宝で森谷司郎監督が撮った『八甲田山』(77年)の現地ロケのことだ。
雪深い八甲田山中の宿舎には俳優もスタッフも、当然エキストラ記者も同宿。周りに何も娯楽施設のない宿では、出演していた俳優・加山雄三がピアノ弾き語りでエキストラの面々と仲良く声を張り上げていた。脚本家の橋本忍氏も顔を出し、これがロケ撮影の持ち味と理解したが、そこに主役の姿はなかった。健さんはロケ隊の中でも、ひとり個室に籠って「決死の登山行」に挑む隊長という難役に集中していた。いかにも陽気な加山雄三らしい盛り上げ方だし、いかにも“孤高の健さん”だった。
健さんはその年、山田洋次監督『幸福の黄色いハンカチ』と『八甲田山』の2本に出演、日本アカデミー賞とブルーリボン主演男優賞をダブル受賞、俳優として広く日本映画界に漕ぎ出し、以後、文字通り大スターに上り詰めていく。
京都撮影所からは姿を消した健さんだが、その後も何度か名前を耳にした。本紙連載企画「日本映画の源流、マキノ組とその一党」の取材中、監督業に乗り出したマキノ(津川)雅彦から「(叔父)マキノ雅弘監督の誕生日(2月29日)に家を訪れるのは藤純子と高倉健だけ」と聞いた。任侠映画を卒業しても、大先輩から受けた恩は忘れない…礼儀正しく、けじめに厳しい、任侠映画のヒーローそのままだった。
撮影所担当と言えば駆け出し時代、ライバル紙に京都撮影所を押さえていたベテラン記者がいて、キャリアの差で歯が立たなかった。その“京都の主”が数年前に死去。葬儀が終わった後、そっと焼香する健さんの姿があったという。どこから聞いたのか、礼儀は欠かさないが目立つことはしない、健さんらしい、これも映画で見たような場面に感じた。
遺作となった205本目の映画『あなたへ』で、夜の海辺を見つめる健さんの後ろ姿がどうしようもなく胸に迫った。かつて熱い血をたぎらせたあの背中…。任侠映画では「背中(せな)で泣いてる唐獅子牡丹」とテーマ曲が流れ、命をかけて殴り込む。満員の場内に「健さん、あいつを叩き斬ってくれ」と掛け声がかかったのも忘れられない。
混乱の時代、悪者を一刀両断する健さんの背中はめっぽう強くて頼もしかった。だがそれは、たった一人の孤独なヒーロー像でもあった。70年安保で盛り上がった全共闘の学生たちも「止めてくれるなおっ母さん」と権力と闘う自分たちの気持ちをこの背中に託した。
『あなたへ』で共演したビートたけしは「健さんには嫌われたくない思いからみんな遠慮して話す。だから本人はどんどん孤独になっていくんだ」と監督らしく分析した。
任侠映画から、多くの人の共感を呼ぶ人間像へ…。動乱の時代を生き抜いて、崇高ささえ感じさせる俳優へと自らを高めていった健さん。ストイックな生きざまには、ただただ「ありがとう」の言葉しかない。
(安永五郎)