戦後70年、沖縄は問いかける『沖縄 うりずんの雨』ジャン・ユンカーマン監督インタビュー
(2015年7月15日(水) 大阪十三 シアターセブンにて)
・インターナショナルタイトル:The Afterburn
・2015年 日本 2時間28分
・監督:ジャン・ユンカーマン(『老人と海』『映画 日本国憲法』)
・シグロ30周年記念作品
・公式サイト⇒ http://okinawa-urizun.com/
・コピーライト:(C)2015 SIGLO
・公開情報:2015年6月20日(土)~東京・岩波ホール、沖縄・桜坂劇場、 8月8日(土)~第七藝劇場、近日~京都シネマ、神戸アートビレッジセンター ほか全国順次公開
【トークショーのお知らせ】
・日 時:2015年8月9日(日)15:30の回上映後
・ゲスト:ジャン・ユンカーマン監督
~戦後70年、沖縄は問いかける。
沖縄の歴史と現状を通して見えてくる、“平和憲法の国”日本の未来~
「うりずん」とは、「潤いはじめ」(うるおいぞめ)を語源とし、冬が終わって大地が潤い、草木が芽吹く3月頃から、沖縄が梅雨の入る5月くらいまでの時期を指す言葉だそうだ。丁度、太平洋戦争末期の熾烈を極めた沖縄戦の時期とも重なり、戦争経験者は元より戦後生まれの人でも、その頃になると体調を崩す人が多いと言われる。
毎年8月15日の終戦記念日が近づくと、新聞・テレビなどでも太平洋戦争にまつわる特集が組まれ、犠牲者への哀悼の意を示すと共に、悲劇を繰り返さぬ誓いを新たにしてきた。だが、果たして太平洋戦争と戦後の歩みについて、私たちは正確な情報を得てきたのだろうか。「真の平和を求め、不屈の戦いを続けている沖縄の人々の尊厳を描いた」映画『沖縄 うりずんの雨』で捉えられた沖縄の歴史と現状は、見る者の眼を開かせ、大いに刺激を与えてくれる。アメリカ・沖縄双方からの公平な視点、分かりやすい4部構成、説得力のある豊富な資料映像や証言など、今までにない強烈な発信力を持つドキュメンタリー映画に、ひたすら圧倒されてしまった。
アメリカ人のジャン・ユンカーマン監督は、1975年頃から沖縄に強い関心を持ち、武器を持たない文化の沖縄に憧れて「空手」を習い、沖縄文化を紹介する活動もしていたという。武器に頼る文化のアメリカとは対称的なところに魅力を感じて、いつかは沖縄の映画を撮りたいと。戦後60年の2005年には、世界の知識人12人へのインタビューを基に日本国憲法を検証した『映画 日本国憲法』の撮った際に、平和憲法に守られた本土と、米軍基地のある沖縄との矛盾を感じて、本作を撮ろうと思ったそうだ。
東京では6月20日から公開されて大反響を呼んでいる。大阪での8月8日の公開を前に来阪したジャン・ユンカーマン監督がインタビューに応えてくれた。「沖縄への想いが深いので、この映画の公開は緊張しています。一生に一回しか撮れない映画です。」という言葉通り、誠実な人柄は作品にも表れている。
【映画化の理由について】
――― この作品を撮ろうと思った一番の理由は?
沖縄以外にも日本各地に米軍基地はありますが、沖縄ほど広い土地を占領しているところはありません。主権国家では在り得ないことなのです。さらに、『映画 日本国憲法』(2005)を作った時、沖縄ほど日本国憲法9条が矛盾する所はないと思いました。本土は平和憲法に守られているが、沖縄はそうではなく軍事の国…その矛盾に気付いた時からこの映画を撮ろうと思っていたんです。《理由その1》
――― 平和という観点からの矛盾ですね?
その通りです。
――― 沖縄本土復帰間もない頃、米兵の相談に応じておられたそうですが、具体的には?
ベトナム戦争終結間もない頃、反戦の意志を持つ米兵が軍法会議にかけられた時の法律相談や、支援活動の手伝いです。
――― 沖縄のプラスの一面として文化・芸術に対する思いは?
その頃、米兵向けの新聞を作って沖縄の歴史や文化を紹介する活動をしていました。私は沖縄の文化に憧れていて、武器を捨てた民族性をとても尊敬していました。武器を持たない空っぽの手で戦う「空手」を習っていたこともあります。武器に頼る文化のアメリカと、武器を持たない文化の沖縄とは対称的ですが、そこに魅力を感じて沖縄の映画を作りたいと思ったのです。《理由その2》
――― 沖縄戦はアメリカの人々にとって特別な戦闘だったのでしょうか?
沖縄戦について書かれた本がベストセラーになったこともあります。太平洋上の他の島での戦闘より戦闘期間も長いし、アメリカ兵の負傷者も多く、PTSDになった兵士が何万人もいたのです。資料映像を見ていても、時間が経つにつれて米兵が絶望的な表情に変わっていくのがよく分かるんですよ。
――― それほど壮絶で悲惨な戦いだったんですね?
彼らはプロフェッショナルな兵士ではなく、普通の一般市民だったんです。そういう意味では沖縄の人々と同じ立場なんです。戦争に巻き込まれて悲惨な経験をし、70年経った今でも思い出すだけで涙ぐんでしまう。米兵も沖縄の人々も苦しみを抱えたまま生きているんです。戦争がもたらす悲劇は、戦争が終わった今でも続いています。そこに反戦の意味が込められています。《理由その3》
【4部構成について】
――― 最初から「沖縄戦」「占領」「凌辱」「明日へ」の4部構成にしようと思ったのですか?
最初から分けて撮ろうとは思ってなかったのですが、“沖縄戦”と“米軍による占領”と“その後”の3つの時代を描きたいとは考えていました。今の沖縄の現状を見ているとそれまでの経緯が見え辛いように思います。最初から丁寧に描くつもりで70年というスパンに取り掛かりました。70年はとても長いので、それまでに積み重ねられてきた中からエピソードをピックアップして強調しようと思っていました。去年の春ぐらいから編集し始めたのですが、4部構成にしようと決めたのは今年の2月ぐらいです。エピソードを並べただけでは語り口に違和感があったので、4つに分けて、それぞれに焦点を当てて編集するようにしました。特に3部の「凌辱」は全体のテーマにもなることなので、歴史の一部として取り扱うことはしませんでした。
――― 1年かけて編集したからこそ、分かりやすい作品になったのですね?
私はいつも編集が遅いので(笑)。全体的にナレーターが引っ張って行くのではなく、当事者の話でつなぐようにしました。インタビュー時間だけも80時間ありました。各人のインタビューの中から各部のテーマに即したものを抜粋していくのですが、その際、内容が重複するような文言を削ったり、同じようなケースでは問題意識が薄められないようにバッサリと切ったりして、効果的な編集をしたつもりです。4時間位に編集できた時に2作品に分けようかとも思ったのですが、より確実に伝えるためには短縮する方が効果的だと考えました。結果2時間28分の1本の作品に仕上がったのです。
――― 思いが強い程つい盛り込みがちですが、よく思い切れましたね?
そんなもんです、映画を作るということは。
――― 沖縄とアメリカの双方から公平に描かれていますが、資料映像はどこから?
資料映像はアメリカの公文書館にあったものを、沖縄県とNHKがコピーして持って帰ったもので、沖縄の公文書館にあります。100時間以上ありますが、誰でも見られるものです。
【インタビュー取材について】
――― アメリカ人の証言者は独自にリサーチされたのですか?
1995年に起きた12歳少女レイプ事件の犯人の一人、ロドリコ・ハープについては、6~7ヶ月位かけて調べて彼の弁護士を通じてオファーしました。中々承諾を得られませんでしたが、私がこの春まで勤めていた早稲田大学の教授という立場で手紙を書いたら、彼が信頼してくれてすぐに承諾してくれました。
――― ハープはどういう心境でインタビューに応じたのでしょうか?
インタビューに答えることは自分のためになると言っていました。カメラの前であの事件のことを語ることは、彼なりに過去へ決着を付けられると思ったのでしょう。
――― ハープにとってもあの事件は悪夢だったと言っていますが、主犯格の人はインタビューに応じていませんね?
同じように探したのですが、ダメでした。彼の母親とは連絡がついたのですが、「自分のことはどこで何をしているのか話さないでほしい」と言っていたそうです。
――― 沖縄戦の二人の元米軍兵士へは退役軍人協会を通じてオファーしたのですか?
いえ、アメリカのリサーチャーが直接連絡をとってお願いしました。レナード・ラザリック氏もドナルド・デンカー氏も、ストリート・ジャーナルのドキュメンタリー番組に出演されていたんです。いろんなドキュメンタリーを見た中で、この二人が一番良心的な話し方をしていたし、また話し慣れていたのも大きな理由です。ラザリック氏は小学校などで沖縄戦のことを語り継いでいて、デンカー氏は沖縄戦の本も出版されています。二人とも沖縄戦についてとても詳しい上に、自分の気持ちを整理して語れる人達なのです。
――― 元日本兵の近藤一さんの証言について?
シグロ作品で『ガイサンシーとその姉妹たち』(2007)というドキュメンタリー映画の中で、彼は中国の慰安所について証言していました。その時「日本兵は沖縄の人々を中国と同じ第3世界の人々として見下していた」という事を聞いていたので、それを思い出して今回も証言してもらいました。
――― 沖縄の人々は、日本兵からも米兵からも見下されていたんですね。それが「凌辱」という言葉につながっていく訳ですね?
そこが重要なポイントなんです。沖縄の人々がそのことを主張しても、“被害者意識”がそう言わせていると思われがちですが、元日本兵の近藤さんが言うと真実として受け止めてもらえるんです。
――― 中国で多くの慰安所ができた経緯は知っていますが、それが沖縄にもあったとは意外でした。
沖縄本島をはじめ小さな島にもあり、全部で146ヶ所もあったそうです。
【沖縄の現状と平和を希求する心】
――― 今後の沖縄基地問題について、アメリカでの関心度は?
沖縄に対する関心が少しずつではありますが高まってきています。大学の先生や活動家が辺野古への基地移設に反対する呼びかけが強くなってきています。元兵士による団体も声明を出しています。帰還兵の中には沖縄のことを大事に思っている人が多いのです。米軍は沖縄を戦利品のように扱っているかもしれませんが、一人一人の兵士はそうは思っていません。沖縄戦の元兵士たちがツアーを組んで沖縄にやって来た時、先ず驚いたことは、「まだこんなに基地があるのか?」ということでした。
――― 沖縄の基地はアジアでも一番大きいのですか?
アジアでは韓国と日本に常態的に米軍基地がありますが、空軍基地としては沖縄の基地が一番大きいです。兵士と軍属合せて年間約5万人のアメリカ人が沖縄に駐留しています。戦後70年の間には350万人ですよ。
――― 沖縄の人々は反戦への強い意識を持って生きておられるように感じたのですが?
日本で唯一、地上戦が集中して行われた所ですからね。沖縄戦の終戦記念日の6月23日には、摩文仁に代表されるような大きな慰霊祭だけではなく、集団自決のあったチビチリガマのような集落や沢山の人々が犠牲になった町など至る所で慰霊祭が行われています。それほど沖縄では多くの犠牲者が出て、戦場となったことを意味しているのです。そして、若い世代に確実に語り継がれているので、皆が反戦への強い意識を持って生きていると思います。
――― 戦争中の日本と今の日本とを比較して思うことは?
根本的に比較にはならないと思います。今の日本は軍国主義を強要しても誰も言う事を聞かないでしょう。一般住民が集団自決したチリチリガマのような狂った愛国心につながる事態にはならないと思います。ただ、過去の戦争で起こした事件を認めず、無かったことにしようとする姿勢は問題です。沖縄の人々は慰霊祭の度に、過去の戦争を思い出し、語り継ごうとしています。だからこそ平和を希求する想いが強く、戦争に反発する気持ちがより一層強いのです。
――― 英題「The Afterburn」の意味は?
沖縄では、慰霊祭の時でも絶えず戦闘機が飛び交っています。常に戦争を身近に感じながら生活しているので、戦争を忘れたくても忘れられないのです。「The Afterburn」とは、トラウマが解消しない限り傷はどんどん深くなっていく、という意味なんです。米軍基地という問題がある限り、沖縄の人々が心から平和を享受することは不可能なんです。
――― それが沖縄の現実なんですね?
その通りです。
(河田 真喜子)