“自分自身の一番奥の神様とともに歩く”窪塚洋介『沈黙―サイレンスー』について語る
(2017年2月4日(土) TOHOシネマズ梅田にて)
登壇者:窪塚洋介
現在公開中の『沈黙-サイレンス-』は、巨匠マーティン・スコセッシ監督(『タクシードライバー』)が、遠藤周作の小説「沈黙」を、28年の歳月をかけて映画化にこぎつけた大作。17世紀、キリスト教が禁じられた日本で棄教したとされる師フェレイラを探し出すためにやってきた宣教師のロドリゴとガルペの案内役となる隠れキリシタンの一人、キチジローを演じた窪塚洋介さんが、2月4日、TOHOシネマズ梅田での上映後、舞台挨拶に立ちました。
観客と一緒に客席で、シークレットで映画を鑑賞していた窪塚さんは、あたたかい拍手の中、舞台に向かい、映画への思いを熱く滔々と語ってくれました。観客からの質問にも答え、上映後とあって、映画のテーマに踏み込んだ質問も出ました。その概要をご紹介します。
【本作を観て感じたこと】
(今、一緒に映画を観ていて)タイトルどおり終わった後は、皆さん沈黙されているなあというのを身にしみて感じました。
僕がこの映画を観るのは3回目です。1回目は試写室で、ストーリーと関係ないところ、一緒に撮影した仲間の演技やスコセッシ監督の思いにほだされて涙が止まりませんでした。2回目は、ロサンゼルスで、字幕がなく、空気感や雰囲気を感じた回でした。蝉の音で始まり、最後も雨や雷の音で終わり、ここまで劇中で音楽のない映画はあまり観たことがなく、監督のただならぬ、得体のしれない懐の深さに気付いて驚愕しました。と同時に、自分なりにもっとエモーショナルに、うまく芝居できたテイクもあったのですが、完成した映画に使われているのは、それとは違う、リハーサル段階のものもあって、初め観た時は残念な気持ちも正直ありました。でも、すぐに、監督から与えられたキチジローの役は、こういう役だったのだなあと、作品を通して監督とキャッチボールできたような気持ちになり、自分の中で納得がいくものがありました。
【スコセッシ監督について】
監督は、裏社会や暴力を描いた映画が多いという印象があるかもしれませんが、信仰や神についても描き込んできた人です。NYのリトル・イタリーで生まれ、小さい頃ぜんそくを患い、あまり外に出られず、夢に描いた職業は牧師とマフィアという、そんな人だからこそ、遠藤周作の小説と出会って感銘を受け、この作品を届けられる人なんだなあとあらためて思います。仏教の話もキリスト教の話も出てきますが、本当に平等に描いていて、最後、ロドリゴがロザリオを持っているカットは、原作にはなく、監督のアイデアです。このカットを入れたことによってこの映画の真意は変わっておらず、僕は、とんでもない作品をつくりあげたんじゃないかと勝手に解釈しています。この映画で監督が開けようとしている風穴は実はとんでもなく大きい。キリスト教に疑問を投げかけて、かつ、神はいない、というところにまで言及して、結局、自分の神を信じようというところまで、沈黙の中でみんなを導こうとしていると思います。
世界で一番読まれているベストセラーである聖書をくつがえすような作品を世に送り出してしまった監督と、こういう作品を一緒にできて、しかも大きな意味のある役をもらえて、本当に嬉しく、光栄です。ここから先、大きい扉の鍵が開いたような印象がありますが、大きい扉ですから重いですし、簡単に開くようには思っていませんが、その扉をぐっと押しに行きたいと思っています。
【出演のきっかけ】
オーディションです。僕はちょうど35歳ぐらいでしたが、超メジャーも含めて、25歳から45歳の間の日本中の役者が受けに来た役です。僕は1回目にガムを噛んで入ってしまってその場で落とされるということもあったのですが、そこは控室と言われて入ったところだったので、今から思えば、はめられたのかなとも思うのですが、紆余曲折を経て、役をつかむことができてよかったです。
【撮影など】
1カット撮るのに10テイク位は回す監督で、ロドリゴとガルペが抱き合ってお互い死ぬなよと言って海で別れるところでは、100回位撮っていて、一番多く撮ったのは多分このカットだと思います。手前みそな話になってしまいますが、僕に絡んだカットは、すごく信頼してくれていて、早く終わりました。
実は、この映画は、公開になる前にバチカンで上映され、ローマ法王はじめイエズス会の方に大盛況だったそうです。ローマ法王は、長崎の奉行所にロドリゴが移された後の新しい牢屋に、キチジローがコンフェッション(告解)させてくれと戻ってきたところで大笑いをしていたそうです(会場笑)。
【キチジローについて】
客席からの質問①:多くの人がキチジローをだめな奴、弱い人ととらえている中で、窪塚さんは強い人ととらえているそうですが、映画の中でキチジローを表現するにあたって、意識したことがあれば教えてください。
窪塚:使われてないカットがたくさんあると言いましたが、監督の懐の深さ、得体の知れなさはそこにあって、監督は、基本的に役者をほめる人で、「グレート」「エクセレント」と言いながら、10回も20回もテイクを重ねるスタイルの人です。僕は、監督が自分の思い描いているままに演出をしてくれればいいと思っていたのですが、監督は、役者に自由に伸び伸びとやらせておいて、(編集の時)シーンをつまんで、自分の理想のキチジローを作り出しています。だから、僕が思い描いていたキチジローと、監督が編集して完成した映画の中のキチジローとはちょっと違うかもしれません。
俺が思うキチジローは、一番わがままで、シンプルで馬鹿だと思います。キリスト教を理解していません。フェレイラとロドリゴが、この国の人は俺たちの神を理解していないと語る、その象徴のような人物です。踏み絵も何回も踏んでいて、僕は、撮影現場で「踏み絵マスター」と呼ばれるくらいでした(会場笑)。この映画では、誰かに教えられたままにするのではなく、自分の心のままに素直に、自分の中の神様とともに歩んでいくことが大事だと語られていますが、キチジローは生まれながらにして、そういうものを持とうとしている役なのかなと思います。
客席からの質問②:キチジローは踏み絵を踏みながらも、聖画を懐に持っていて、最後に捕らえられ連れて行かれるシーンがありますが、いつ頃から、なぜ持っていたのだと思いますか?
窪塚:キチジローは思慮深くないので、都合が悪い時には踏むし、(信仰も)捨てるけれども、基本的には神様と一緒にいたいと思っています。キリスト教という枠の中で、もっと大きな神様という言い方をすると問題があるかもしれませんが、もっと深いところの「神」とか「真理」と呼ばれる、キリスト教でも仏教でもイスラム教でも何の神様でもいいのですが、自分自身の一番奥の神様と一緒に歩いているのに、彼にはそれがわからない。まだめぐり会っていないし、気が付いてもいない。だからああいう物を持ち歩いているのではないでしょうか。
【最後に】
ただならぬ映画なので、皆さんの今の沈黙の中で、よりいい明日がどんどんできあがっていっていることを祈って、今日はマイクを置きたいと思います。
(伊藤 久美子)
『沈黙 −サイレンス−』
【ストーリー】
17世紀、江戸初期。幕府による厳しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕えられ棄教したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルべは日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと侵入する。想像を絶する光景に驚愕しながらも、弾圧を逃れた隠れキリシタンと呼ばれる日本人に出会った二人は、隠れて布教を進めるが、キチジローの裏切りでロドリゴは囚われ、長崎奉行井上筑後守に棄教を迫られる。犠牲となる人々のため信仰を捨てるか、大いなる信念を守るか。拷問に耐えながらも、自分の弱さに気付かされ、追い詰められたロドリゴの決断は…。
監督:マーティン・スコセッシ
原作:遠藤周作『沈黙』新潮文庫
出演:アンドリュー・ガーフィールド リーアム・ニーソン アダム・ドライバー
窪塚洋介 浅野忠信 イッセー尾形 塚本晋也
公式サイト⇒ http://chinmoku.jp/
2017年1月21日(土)~TOHOシネマズ 梅田他全国絶賛上映中!