『台湾人生』『台湾アイデンティティー』と台湾の日本統治下に生きてきた日本語世代に取材を重ねてきた酒井充子監督。最新作『ふたつの祖国、ひとつの愛 イ・ジュンソプの妻』は、韓国では知らない者はいないという名画家ジュンソプとその妻、方子(まさこ)との愛を丹念に映し出したドキュメンタリーだ。
第二次世界大戦のさなか、日本の美術学校でジュンソプと財閥令嬢の山本方子は出会い恋に落ちる。方子は戦争が激しさを増した45年に命がけで韓国に渡り、ジュンソプと結婚するが、その後の朝鮮戦争の戦火と貧困が二人を引き裂き、ジュンソプは二度と方子たちに会うこともなく若くしてこの世を去ってしまう。日本と韓国、引き裂かれた二人を結んだのは200通にも及ぶ手紙で、真っ直ぐな愛が記された文面や、隅っこに書かれたイラストからジュンソプの人柄や深い愛が偲ばれる。
撮影当時92歳だった方子さんは、ジュンソプとの間にできた息子・泰成さんと暮らし、泰成さんが用意した朝食をたっぷり食べ、美容院でパーマを当て、苦労を重ねてきたであろう人生を今は穏やかに生きている。そんな方子さんがにこりと笑って話した一言「再婚もしないで、あなた一筋」を聞いて、こんなに深い愛の言葉があるだろうかと胸が熱くなった。
来阪した酒井充子監督に、本作のことだけでなく、台湾でドキュメンタリーを撮ろうと思ったきっかけや、台湾と韓国の日本統治下で生きた世代を取材した反応の違いなど、今までの創作活動にも触れるお話を伺った。
■台湾で日本語をしゃべるおじいさんとの出会いから、デビュー作『台湾人生』ができるまで。
―――監督が台湾に興味を持つようになったきっかけは?
はじめて台湾と出会ったのは98年でした。ツァイ・ミンリャン監督の『愛情萬歳』が私の生涯ベストワンなのですが、この映画の舞台になっている台北に行ってみたいという、本当にミーハーな一映画ファンの気持ちで台湾旅行をしました。『愛情萬歳』のロケ地や、今や一大観光地となっている『非情城市』のロケ地、九份にも行きました。夕方台北に戻ろうとバスを待っていたら、あるおじいさんがわざわざ近くの自宅からバス停まで出て、「日本の方ですか?」と日本語で話しかけてこられたのです。そのおじいさんは、子どもの頃日本人の先生にとても可愛がってもらったという話をしてくださり、戦争が終わってから53年経っていたのですが、「戦争が終わって日本に引き揚げてから連絡がとれなくなってしまったけれど、もしまだ先生がお元気なら僕は会いたい」とおっしゃったんです。バスが来て別れた後、そんな風に今でも日本人の先生のことを思っている人が台湾にいるということが、じわじわと私に衝撃を与えたのです。
―――そのおじいさんとの出会いは監督にどんな衝撃を与えたのですか?
昔の台湾と日本の歴史について、私は本当に何の知識もなく、教科書で一行で書かれていたことぐらいでした。でも日本統治下の台湾で生きていた人が、その時代の想い出を大事にしたまま98年の台湾で生きていることを直接知ったのです。そこから台湾と日本のことを知りたいと思い、台湾から戻って色々な本を読んだりしながら、勉強を始めました。あまりにも台湾のことを知らないことが驚きでもあり、知らなかったことに怒りすら湧いてきました。自分に対する怒りであったり、何も教えてくれなかった日本という国に対する怒りなど、色々な怒りですね。そこから、台湾のことを伝える仕事をしようと思いました。
―――デビュー作『台湾人生』は、完成まで足かけ7年もかかったそうですね。
08年に完成し、09年に映画館で上映していただきました。途中辞めようかと心が折れそうになったこともありましたが、彼らが「日本人に話したい」という気持ちが取材を通してヒシヒシ伝わってきたので踏みとどまった感じです。台湾では87年にようやく戒厳令が解除され、私が本格的に取材を始めた02年でも「今こんなことをお話して、後で家族にどんな迷惑がかかるか分からないから・・・」とおっしゃる方もいたぐらい、やっと口を開いてくださるようになった時期が、私が取材し始めた時期と重なったのです。せっかく私に話してくれたことを届けないで終わっていいのかという思いもありましたし、彼らに対する責任感が、映画を完成させることができた原動力だったと思います。
■韓国の国民的画家、イ・ジュンソプさんとその妻方子さんの「愛」を撮る。
―――台湾を題材にその後2作品制作したあと、今回は韓国の国民的画家、イ・ジュンソプさんとその妻方子(まさこ)さんを取り上げていますが、このお二人の作品を作ろうと思ったきっかけは?
今回は『台湾アイデンティティー』を作ったチームの方からお話をいただきました。台湾を取材していると、同時期に日本の植民地だった場所である韓国は切っても切り離せません。『台湾人生』の上映後のQ&Aでは「台湾の人はこのように捉えているけれど、韓国の人は違う反応の気がする。なぜだと思いますか?」と必ず聞かれましたから。今回はイ・ジュンソプの劇映画を日韓合作でという話があった中、奥様の方子さんがお元気なうちに撮影しておきたいということでした。韓国で取材ができるというのはいい機会をいただいたなと思いましたね。ただ『台湾人生』などのアプローチとは違い、今回は完全に夫婦の愛に焦点を絞ろうと思っていました。方子さんの人生を追っていけばおのずと植民地時代のことも感じ取っていただけるだろうと、淡々と撮っていきました。
―――「再婚もしないで、あなた一筋」という方子さんの言葉は本当に重みがありました。
あまり多くお話される方ではないので、あの言葉を言ってくださるまで、本当に時間がかかりました。おととしの5月から昨年の1月まで撮影しましたが、1回お話を聞きに行っても、1時間たつとお疲れになってしまうので、本当に時間との闘いでした。東京にいらっしゃるので、カメラを回さなくても会いに行くことを続けて、「再婚もしないで、あなた一筋」という言葉を聞けたのは、本当に最後のインタビューのときだったのです。「よし!」と思いました。
―――方子さんは90歳を超えているとは思えないぐらい、お元気でオシャレな女性ですね。
週に一度は美容院に通っていらっしゃいますし、やはりたくさん食べることが長生きの秘訣ですね。朝ご飯のシーンも挿入されていますが、朝からあれだけの量を召し上がる訳ですから、本当に健啖家ですよね。毎朝息子さんがあの量の朝食を作っていらっしゃるわけですから。やめてオーラがすごくて、カメラマンは「いつやめて!と言われるかとドキドキしながらカメラを回していた」そうです。本当によく頑張ってくださったと思います。
―――イ・ジュンソプさんの絵力と、封筒の宛名一つとってもとても味があり、手紙の文面も妻に対する愛がストレートに綴られていて印象的でした。ジュンソプさんの人生を語るにあたって、これらの作品や残された絵をどのように入れていこうと思ったのですか?
方子さんに最初に取材したとき、手紙を拝見し、この熱烈なラブレターをもらっていた女性はどういう人なのだろうかという興味がありました。私自身は手紙をフューチャーしたい気持ちはありました。ただ、最初にプロデューサーからは「(ジュンソプさんが遺した)手紙に頼るのは絶対ダメだ」と釘を刺され、結果的にはそれでよかったと思います。手紙に頼らずに手紙の魅力を伝えるという部分で、編集は苦労しました。でも、あの文字や、手紙の端に描かれているイラストをご覧いただくだけで、ジュンソプさんの愛が伝わりますよね。
―――日本と韓国で離れ離れになってしまったままという家族や夫婦は他でもあったのだろうなと痛切に感じました。
方子さんと最後の時を過ごした日本での1週間が経った後、私だったら首に縄をつけてでも、ジュンソプさんを韓国に返さずに日本に留めおくと思います。本作が完成した後に在日二世の方から聞いた話なのですが、ご両親のお父様が亡くなったとき、国交がないが故に実家に帰ることすらできなかったそうです。だから、そう簡単に留めおくなどできず、実の親子なのに、会うことすら難しい時代が確実にあったのです。切ないですね。
―――方子さんが帰国前に避難されていた済州島の住まいも、ジュンソプさんの絵が掲げられ、保存されていました。ジュンソプさんが韓国でどれだけ大きな評価を受けているかが伺えます。
西帰浦市が当時と同じものを復元していて、当時大家だったおばあさんは、あの場所に今でもお住まいです。彼らが住んでいた狭いスペースは観光名所になっていたので方子さんは色々なことを思い出されたはずですが、絶対に愚痴っぽいことをおっしゃらないのです。東京のインタビューでも「東京の空襲で自分の家が焼けないので残っていたのがどれだけ幸運だったか。だから戻ってくることができた」とおっしゃっています。焼けた東京もご覧になっているでしょうし、大変なのは自分たちだけではないという、あの時代の人だから言えるのでしょう。方子さんが特別な人というよりは、こういう人がたくさんいた時代があったということでしょうね。
―――方子さんは車いすで韓国に行かれ、美術館でジュンソプさんの絵と対面を果たしましたが、どんな様子でしたか?
ソウルの美術館では、牛の絵を初めて見たそうで、ずっと真剣な眼差しでご覧になっていました。その絵を見たときの目や表情は、いつもとは何か違った気がします。本当に凄かったのは、韓国の美術館で、どれだけ他の取材が来ても絶対に撮影させないという絵を今回撮らせていただいたことです。「イ・ジュンソプさんの奥様の映画だったら協力します」ということでした。他にも同じような理由で協力いただいたことが多々あり、イ・ジュンソプさんの存在の大きさは私たちでは計り知れないという印象を受けましたね。
―――それだけ韓国で絶大な影響を与えているイ・ジュンソプさんに、離れ離れになってしまった日本人の妻や子どもがいたことを、韓国の皆さんはご存知なのでしょうか?
おそらく妻が日本人ということは知られていますが、これまでの方子さんに対する韓国での見方は「押しかけ女房」。すごくわがままで一方的な悪い女という言われ方をずっとしてきたそうです。この映画を韓国で上映していただくと、そうではないことは一目瞭然で、方子さんが生きていらっしゃる間に、韓国の方の誤解が解かれればいいなと思います。
■台湾、韓国の日本語世代取材を通じて感じた、それぞれの今とこれから。
―――台湾、韓国共に日本統治時代を生きてきた世代にインタビューをされた訳ですが、その中で国による違いを感じることはありましたか?
決定的な違いは、日本に対する評価ですね。一つの要素として、台湾と韓国は全く歩んできた歴史が違います。韓国は14世紀かずっと李王朝が統治していたところ、日本の統治下に置かれることになった訳ですが、台湾は清の領土ではありましたが原住民は原住民族の言葉を話し、漢民族系の人は中国語を話したりと言語がバラバラな中、日本統治下に置かれることとなり、日本語が初めて台湾で共通語の役割を果たしました。また、台湾は日本が引き揚げた後、国民党の大変な時代がありましたが、韓国はまた自分たち朝鮮人の国を持つことができた訳です。
台湾は戦後国民党時代との比較で「日本統治時代の方がよかった」と、比較論の評価があり、それが親日と言われることにも繋がっています。韓国では、日本をプラスに評価しなければならない要素は何もないのです。単純に日本統治時代をどう評価するかという際の土台が台湾と韓国では違いますね。台湾では、日本語を話すことは「おじいちゃん、日本語を話せるの?すごい!」という反応が相対的にありますが、韓国はそうではありません。
―――確かに、本作では日本語を話す韓国の方はほとんど登場しませんね。
あるおばあさんに話を聞いたとき、彼女は日本統治下で大阪の女学校に2年間在学していたそうです。戦後日本人と話す機会はなかったそうで、約70年ぶりに私たちが通訳を伴って訪ねて行ったときは、簡単な単語を日本語で話すぐらいでした。でも別の機会にカメラを回しながら取材をすると、私の日本語の質問にいきなり日本語で答えてくださり、通訳がいらないぐらいでした。
そのインタビューをした夜に、彼女の娘さんから電話が入り、「今日母が日本語を話したそうですが、日帝(大日本帝国)協力者と疑われては困るので、韓国語で全部撮り直してください」という依頼があったのです。今だにそういうことを言わなければいけない空気のあることがとても残念で、「日本人に会って、日本語が自然に出てきたのが彼女の人生の証なのだから、そこに蓋をすることは私にはできません」と伝え、結局映画には使いませんでした。韓国語でインタビューを再度撮ることもできましたが、それをすることは何か違うと思ったのです。日本語を話す行為一つとっても、台湾での捉えられ方と韓国での捉えられ方はこんなにも違うのかと、驚きました。普通に取材をしている段階では、台湾と韓国で全く違いはなく、皆さん協力的ですし、反日的なところを感じることはありませんが、少し踏み越えたところに、そういう感情がありますね。
―――台湾、韓国と両国でドキュメンタリーのための取材を重ねている酒井監督だからこそ、感じられる体験です。
今回はとにかく「愛」に徹しようと思っていたので、逆に背筋が伸びるような経験でした。今は大変な時期とは言われていますが、それは日本政府や大マスコミが過剰に反応しているだけだと思っていますから。そういうことがあることをきちんと踏まえた上で、昔のジュンソプさんと方子さんのように、私たちも韓国の人たちと付き合っていけばいいなという思いを強くしました。
―――人の交流を絶やしてはいけませんね。
やはり、韓国は近いですから、日本人はどんどん行くべきですよ。映画を撮ることもそうですが、人が往来し、直接やりとりをすることがとても大事だと感じたので、そういうすごくシンプルなことをお伝えしていければいいなと思っています。この映画を観て、済州島に行きたいと思っていただけたらうれしいですね。 (江口由美)
<作品情報>
『ふたつの祖国、ひとつの愛 ~イ・ジュンソプの妻~』
(2014年 日本 1時間20分)
監督:酒井充子
出演:山本方子、山本泰成、キム・インホ、ペク・ヨンス、チョン・ウンザ他
2015年2月7日(土)~第七藝術劇場、近日公開~京都シネマ、元町映画館
(C) 2013 天空/アジア映画社/太秦