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【雷蔵祭 初恋】トークショー

raizou-550.png【雷蔵祭 初恋】トークショー

ゲスト:蔭山俊夫(映画プロデューサー)
★テアトル梅田のスケジュール⇒ 
http://www.cinemakadokawa.jp/raizohatsukoi/schedule_umeda.html

伝説の“大映スター”市川雷蔵の映画デビュー60周年記念の特集上映が10月27日(土)、【雷蔵祭 初恋】と題して大阪・テアトル梅田で始まり、劇場には往年のファンが詰めかけた。初日は『忠臣蔵』などを手掛けた元大映プロデューサー、蔭山俊夫さんがトークイベントを行い、没後50年経つ今も愛され続ける雷蔵の魅力について語った。


raizou-t-550.jpg ――蔭山さんは雷蔵さんより1年早い入社。当時はどんな様子でしたか?
蔭山プロデューサー:「それが…そんなに強い印象はないんです。スターのオーラはまったくといっていい程なかった。普段の雷蔵さんは商家の若旦那か、メガネかけてたんで役所の戸籍係といった感じで、本当に普通っぽかった。同時にデビューした勝(新太郎)さんの方がスターという感じがありましたね。雷蔵さんは若い連中と遊びに行くということもありませんでしたし、地味と言えば地味な人だった」。


――芸術論を戦わせたことがあったとか?
蔭山P:「頭いい人でね。亡くなる前には自分で芝居をやろうとしていました。プロデューサーになりたかったんでしょうね。そういう志向は早くからありました。自分が成長していくのに役立つような人と親しくしていたように思う。いい意味で、自分を鍛えてくれる人を大事にしていたんでしょう。プロデューサー志向があった。結婚したのも永田(雅一)社長の娘(養女・太田雅子)さんでした。

助監督とも親しく話し、彼らが独り立ちした映画には出演するといった面もありました。一度、雷蔵さんが文芸もので気に入ったものがあった時に、撮影中の映画の途中で東京へ飛んでいき、永田社長に“次はこれをやりたい”と直談判に行ったこともありました。それで、現場の監督が“主演俳優がこんなことしていいのか”と怒ったこともあった。やりたいことがあったらもう止まらなかった」。
 

――大作『忠臣蔵』(58年)をプロデュースされた時は?
蔭山P:「確かに、プロデューサーでしたが、当時の大映ではプロデューサーは永田社長ただ一人。私たちはみんなボロデューサーでした(笑)。『忠臣蔵』は大映のオールスター総出演だから、脚本から関わって大変苦労しました。なにしろ、長谷川一夫さん、山本富士子さんら主演スターばかりだから、皆さんそれぞれの見せ場を作らないといけなくて、まず設計図=脚本でしたね。大石内蔵助の長谷川一夫さん、遥泉院の山本富士子さん、雷蔵さんは浅野内匠頭、勝さんは赤垣源蔵…。監督は早撮りで知られる渡辺邦男さん。2時間を超える大作でも1カ月半であがりました」。
 

――37歳とは、あまりに早く亡くなったんですが、今でもこうして特集上映される人気は不思議なほど、その秘密は?
蔭山P:「生きていれば83ですからね。早く亡くなって、雷蔵さんの凛々しいイメージがずっと残っているのでは。 生きていたら? 長谷川一夫さんと同じように舞台の方に行っていたでしょうね。目の前にいい手本がありましたから」。


――出演作品が15年間で159本、時代劇も現代劇あってどちらも出来る俳優さんでした。
蔭山P:「普通っぽくてスターらしくない、と言いましたが、扮装してヅラつけたらガラッとイメージが変わった。スターのオーラもビンビン発していた。こんなに変わる人はいない。そこが凄かった。その落差が最大の魅力だったんではないでしょうか」。


――改めて市川雷蔵というスターを表現すると…?
蔭山P:「雷蔵さんが亡くなったのが1969年7月。翌70年は大阪万博で、翌71年に大映が倒産する。雷蔵さんが入社20年。大映が創立30年。映画会社・大映を看取ったスターと言えるでしょう」。


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終了直前、客席から年配の女性ファンが飛び入り、蔭山プロデューサーに「今回、先ほど話に出た『忠臣蔵』が入っていない。あれをぜひ見たいんで、何とかしてください」と直談判するハプニングも飛びだす、熱気あふれるトークショーだった。

【雷蔵祭】は、11月7日まで(10月11日~17日休映)。俳優人生15年で159本に出演した中から、デビュー作『花の白虎隊』(1954年)、ヒットシリーズ『眠狂四郎』シリーズ、『陸軍中野学校』シリーズや、傑作の誉れ高い『ひとり狼』、『ある殺し屋』、亡くなった年の『手討』(63年)まで、46作品を一挙上映する。

(安永 五郎)

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