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日本一の斬られ役・福本清三初主演映画『太秦ライムライト』インタビュー

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 日本一のられ役・福本清三初主演映画『太秦ライムライト』インタビュー

(2014年 日本 1時間44分)
 監督:落合賢  脚本:大野裕之
出演:福本清三、山本千尋、本田博太郎、合田雅吏、峰蘭太郎、栗塚旭、萬田久子、小林稔侍、松方弘樹

2014年6月14日(土)~MOVIX京都、T・ジョイ京都、TOHOシネマズ二条、梅田ブルク7、なんばパークスシネマ、神戸国際松竹、関西先行公開 (7月12日(土)~新宿バルト9 ほか全国ロードショー)

公式サイト⇒ http://uzumasa-movie.com/

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uzumasa-3.jpg【物語】 
  かつて日本のハリウッドと呼ばれた京都・太秦。斬られ役一筋の大部屋俳優・香美山清一(福本)は、半世紀近く続いたテレビ時代劇が突然打ち切られ、後続番組の若者向け時代劇にベテランの職人は不要と言われる。時代劇の大御所・尾上清十郎(松方弘樹)も「またいつか斬らせてくれ」香美山に声をかけ、去っていく。

 

uzumasa-2.jpg  映画村の立ち回りショーの仕事だけになった香美山の前に駆け出し女優・伊賀さつき(山本千尋)が現れ「立ち回りを教えてください」と頼む。「女優に立ち回りは要らない」と一度は断った香美山だが往年の“太秦城のお姫様”を思わせるさつきの熱意に殺陣の稽古を始める。指導のかいあってさつきはテレビ出演のチャンスをつかみ、京都を去る。香美山も年齢には勝てず、引退の時を迎える。

  売れっ子になったさつきは京都で時代劇大作出演のが決まり、胸躍らせて帰って来るが、撮影所には香美山の姿はどこにもなかった…。

  福本清三はハリウッド大作『ラストサムライ』(03年)で主人公・トム・クルーズについて回るが、セリフは一言も発しない“サイレント・サムライ”として存在を世界に知らしめた。出演作品は数え切れないが、斬られ役専門でセリフのない役ばかりだったが、近年、その存在感が注目され、京都で撮られる時代劇には必ずと言っていいほど出演している。『最後の忠臣蔵』では吉良役に“出世”している。


uzumasa-fuku-2.jpg  ◆【福本清三略歴】
  1943年(昭和18)2月3日、兵庫県生まれ。59年(昭和34)、15歳で東映京都撮影所に専属演技者として入所。以来55年間、映画、テレビで時代劇を中心に、活動し続けた“斬られ役”俳優。殺陣技術集団「東映劍会」所属。半生を綴った著書に「どこかで誰かが見ていてくれる」「おちおち死んでられまへん」がある。NHK特番などでも特集番組が放送されお茶の間では名を知られている。04年日本アカデミー賞特別賞、11年第6回おおさかシネマフェスティバル特別賞受賞。

 ◆【山本千尋略歴】
  1996年8月29日兵庫県生まれ。12年9月、マカオで開かれた第4回世界ジュニア武術選手権大会で金メダル1枚、銀メダル1枚を獲得。武術の経験から本作のヒロインに抜てきされた。


 

~長い間一生懸命やってれば褒美がある~
 

 斬られ役一筋の名物俳優・福本清三さんがデビュー55年目で初めて主演を務めた映画『太秦ライムライト』が完成、6月14日から関西で先行公開される(全国公開は7月12日)。ギネス級の快記録となる映画は京都撮影所を舞台に、時代劇の斬られ役として一筋にワザを極めた福本さんの半生を描いたようなドラマ。そこにはかつて全盛を誇った時代劇映画の中でひたすら殺陣(たて)の追究に生きてきた“5万回斬られた男”の壮絶な生きざまがあった。

―― 撮影所の有名人の福本清三さんだが、主演映画は55年目で初めて。率直なご感想は?
福本「いやあ、ホンマにこんなことがあってええのか、あり得ないこと、考えられないことが起こった、と。エラいこってすわ」。

―― 最初にこの話を聞いた時は?
uzumasa-4.jpg福本「京都で劇団を主宰している方(大野裕之氏)が、立ち回りを通じて東映撮影所に出入りするようになって、チャップリンの死に方を見て感動したということで、名作映画『ライムライト』をもとに大野さんが“老いた斬られ役”といった話を書いてくれました。私が主役やなんてアホなこと言わんといて、言うたんですが、せっかくこんな話を書いてもらって申し訳ないけれども、お金も集まらないやろし、実現する訳ない、と思ってました。脚本も真剣には読まなかった」。

―― だけど実現しました。撮影はいつごろ?
福本「去年の9月に20日間で撮りました。気を遣うことが多くて全然集中出来ませんでした。夜は寝られへんし、普段は飲まない睡眠薬の世話になりました。撮影中、朝は7時から、夜は午前1時か2時ごろまで。松方弘樹さんや栗塚旭さん、中島貞夫監督さん、萬田久子さんら出て下さった方たちに周りを締めてもらったんで助かりました」。

uzumasa-fuku-1.jpg―― 福本清三さんのドキュメンタリーか、というようなお話ですが。
福本「映画の撮影中にNHKのドキュメンタリーも入ってたんで、こちらはハプニング狙いだし、いよいよ区別出来ないぐらいになりました。こんなこと経験ないし、目が落ち込んでしまいましたわ。ただ映画では、映画やテレビの仕事がなくなって、映画村のショーに出るという風になってましたが、これはホンマは逆ですね。ショーの仕事は大
変です」。

―― ただ、実際にテレビ時代劇は次々に打ちきりになってるし、時代劇映画もなくなり、斬られ役の仕事も減っている。
福本「時代劇は金がかかるし(映画は)お客さんが入らないと次が出来ない。それは事実ですね」。

―― ハリウッド映画『ラストサムライ』が大ヒットして、福本さんの存在を世界に知らせた。
福本「いやあ、私はともかく、あの映画は大ヒットして確かにメリットはありました。いろいろなところで取り上げられました。私がちょうど60歳の時。『ラストサムライ』撮影中に誕生日を迎え、撮影していたニュージーランドでトム・クルーズが祝ってくれました。東映では定年になりましたが」。

―― 最初に東映入社のころの話を。きっかけは?
福本「生まれは兵庫県城崎の先の香住で、親戚の米屋に住み込みで半年働いた。精米して配達する仕事ですが“まいどおおきに”と大きな声で言わないとあかんのやけど、これが言えんでね。それをこぼしてたら、店に出入りしていた不動産屋さんが『東映行くか』と言ってくれた。こちらは映画なんて洋画の『白鯨』を学校から見に行っただけで、東映って何? という状態でしたなあ」。

―― 東映ではすぐ契約した。
福本「あの頃(昭和34)は大部屋でも社員にしてくれた。当時は日本映画の絶頂期で、僕が入った当時は第二東映もあって、週替わり2本立てですからね。こちらが30本、あちらは70本というような時代だった。演技者(大部屋俳優)も400人ぐらいいました。昭和35~36年ぐらいは仕事が多すぎた。それが…一気に本数が減って、みんな食えなくなってやめていった。私はほかにやれることもないし、姉がいたんで食わしてもらってた。日活はポルノやるし東映でもポルノや空手映画になったこともありました。ほかに当てがなかったんで仕事続けてきたというところですね」。

―― 東映では「劍会」所属になっているが、これは最初から?
福本「いやいや、劍会は相当格上の人ばかり。私は最後の入会です。劍会は今も健在で会員は16人います。劍会に入ると、ギャラが上がった時代もありましたね。私は現場で立ち回りをやらせてもらえたんで、殺陣師の人に直接教えてもらえました」。

―― そんな長い俳優人生の総決算とも言える映画をスクリーンで見たら?
福本「いやいや、自分が情けないですわ。セリフもろくにしゃべれないしこんなもんが主役になるんかどうか、いやお恥ずかしい。周りの人に目をかけてもらって何とか…」。

uzumasa-5.jpg―― 新米女優(山本千尋)に殺陣を教える物語だが、こんな経験はあった?
福本「いや、それはありませんね。教えるなら殺陣師でしょう」。

―― 山本さんは映画初出演。
福本「あの人に助けられましたね。重要な役だけれど、武術のチャンピオンですからね。そりゃあ立派なもんです」。

―― これまでは「代表作なし」でしたが、これで出来たのでは?
福本「いやいや、ありませんがな。ただひとつだけ言えるとすれば、長いこと一生懸命やってきたらごほうびとして主役が出来ることもある、ということでしょうか。これが大ヒットする、なんて世の中そんな甘いもんやないですわな。小さなシネコンの片隅でこそっとやるのかと思ってたら、こんなに大きな話になって…。しかし、なるようにしかならんですな」。

―― ここまでやって来れた秘訣は身体能力?
福本「いやいや、まあ田舎のことでチャンバラごっこもしたし、走り回って足腰丈夫やった。新聞配達も4年間やりました。これから先のことは分からないけど、この映画みたいに、若い人につなげていってもらえたらよろしいな」。

 (聞き手・安永 五郎)

 

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