『旅立ちの島唄 ~十五の春~』吉田康弘監督インタビュー
(2013年 日本 1時間54分)
監督・脚本:吉田康弘
出演:三吉彩花、大竹しのぶ、小林薫
2013年5月25日(土)~梅田ガーデンシネマ、神戸国際松竹、6月22日(土)~京都シネマ
公式サイト⇒ http://www.bitters.co.jp/shimauta/
(C)2012「旅立ちの島唄~十五の春~」製作委員会
~親が子を思い、子が親を思う気持ちが凝縮~
沖縄本島から東へ360キロ、那覇から飛行機で約1時間、船で13時間かかる南大東島。人口約1300人の島には高校がない。15の春を迎えた子ども達は、皆、家族と離れ、旅立たなければならない。“ボロジノ娘”は、島に実在する少女民謡グループ。毎年3月4日にボロジノコンサートが行われるが、中学を卒業する娘たちは、島の人達を前に「アバヨーイ(八丈島の方言で“さようなら”の意。卒業の春に父母へ贈る感謝の島唄)」という別れの唄を歌いきって、島を出ていく。主人公仲里優奈はボロジノ娘のメンバーの一人。島でさとうきび畑を営む父、優奈の姉や兄の高校進学とともに那覇に行ったまま島に帰ってこない母。15の春を迎えるまで1年間の優奈の成長を、父と娘の関係を軸に、家族の姿とともに描いていく珠玉の人間ドラマ。公開を前にキャンペーンで来阪した吉田監督からお話をうかがった。
◆映画づくりのきっかけ
Q:南大東島を舞台にした映画をつくることになったきっかけは?
A:プロデューサーから、南大東島のドキュメンタリー番組を観てほしいと言われ、観てみると、とても興味深く、番組の最後のコンサートで、女の子が島唄「アバヨーイ」を歌い、両親や島の人達がじっと聴いている場面があり、これは映画にできる題材だと思いました。言葉で説明しなくても伝わる、いいシーンがみえてきて、映画になるなと思い、自分で脚本を書きました。
◆主演の三吉彩花さんについて
Q:主人公の仲里優奈に三吉さんをキャスティングしたのは?
A:島の女の子ということで、繊細でナイーブな子、いまどきの子というよりは奥ゆかしく、内に秘めたタイプにしたいと思っていました。三吉さんは自分の内なる世界をきちんと持っていて、たたずまいといい、ぴったりでした。彼女が15歳の春になる瞬間の、今しかできない芝居を映したいと思い、撮影時期も、実際に彼女が中学を卒業したばかりの2012年GWになりました。
Q:ラストで島唄「アバヨーイ」を歌っている三吉さんの美しさは輝くようでした。いろんな経験を重ね、1年でどんどん美しくなっていきますが、その魅力はどうやって引き出されたのですか?
A:三吉さん自身が初めて主役をやるというプレッシャーを乗り越えていく過程と、主人公の優奈が成長していく過程がリンクしたと思います。「アバヨーイ」という唄に向き合うことがそのまま彼女にとっては役に向き合うことだったので、歌いきった時には、ひとつ壁を乗り越えたと思います。本人は、このシーンにすごくプレッシャーを感じていたようで、途中で悔し泣きをした時もあり、僕達も最後まで歌えるかなと思ったこともありましたが、十五歳なりに女優魂を発揮して、頑張ってくれました。三線(さんしん。沖縄の撥弦楽器。三味線。)も演奏して、あの独特な節回しの島唄もしっかり最後まで歌ってくれて、たいしたものだと思いました。
Q:「アバヨーイ」は一曲分丸ごと映像を使っていますね。
A:撮影の時は、1曲全部使うかどうか決めていませんでした。でも編集の時に、これは途中で切れないなと、島唄は歌詞が非常に意味深くて、一部だけを選択することはできず、全部使いました。
◆ベテラン俳優の小林薫さん、大竹しのぶさんについて
Q:優奈の両親を演じた小林さんと大竹さんのキャスティングは?
A:小林さん、大竹さんとも、シナリオを書く前から想定していました。二人に出演を断られたら、企画自体を潔く諦めるくらいの覚悟で、シナリオがラブレターになればいいなと思って書きました。大竹さんとは前作の『キトキト!』(07年)に主演してもらいましたし、シナリオさえよければきっと出演してくれるというプロデューサーの言葉を信じて、シナリオを持って行って、感想を聞かせてくださいとお願いに行きました。
今回、僕達は、できるだけドキュメンタリーに近い、人間が匂い立つような、日々の暮らしを見つめる映画にしたいと考えていました。オーバーな表現のセリフは削除していこうという方針でやっていたのですが、役者さん向けについ見せ場を用意してしまっていて、そういうところをもっとそぎ落とせるんじゃないかと小林さんから指摘していただいたりして、僕達が目指すものをさらに背中を押してくれるような前向きなご意見をいただき、一緒に父親像をつくっていった感じです。
◆映画のテーマ「家族」について
Q:監督の前作『キトキト!』では母と息子、今回は父と娘です。監督にとって、家族は大きなテーマなのですか?
A:自分の手に届く範囲の題材として、家族というのは身近です。背伸びしたものをつくるよりは、自分が表現できるものということで、家族をテーマにした映画がたまたま続きました。今回、父と娘にしたのは、母と娘なら、母は娘に触れることができます。たとえば髪の毛を触ったり、言葉も交わしやすい。でも15歳という年頃の娘を持った父親は、娘とも距離ができ、気安く触ることもできません。そういう“言葉ではないもの”を切り取りたいと考え、父と娘の話になりました。
Q:父が娘を黙って見ているシーンが多く、心に迫ってきました。
A:言葉をできるだけ少なくして、目線とか表情で伝えることを、小林さんと一緒に模索していきました。作劇におちいらないよう、そこに父親が存在しているということを、表現できるよう徹しました。
Q:小林さんが、この映画について、父と娘、現代場小津安二郎を観ている気持ちになったとパンフレットでコメントされていますね。
A:全く意識していたわけではありません。でも、離島で生きている家族の姿は、家族の原点というか、今、忘れかけている家族の何かを感じさせることが多いとわかってきました。離島には、“別れ”という通過儀礼があるからこそ、相手への思いやりが極まる瞬間があります。今回、そういう家族の絆の純粋性、親と子が互いを思いやるということを題材に、描くことができました。それがたまたま、かつて日本の家族を撮った当時の映画の匂いに近かったのではないかと思います。家族への思いは、何かきっかけがないとなかなか芽生えません。今の日本でテーマにしづらいのは、今の家族にそういう場面がなくなってきているからかもしれません。
Q:大竹しのぶさんは出番が少なかったですが、母親として存在感がありました。
A:島を出たまま帰ってこれなくなった人達もいて、そういう島のネガティブな側面、「島の宿命」もきちんと描きたかったので、大竹さん演じる母親に体現してもらいました。映画の中では直接描かれてはいませんが、母親がこれまでに背負ってきた時間の流れというものも踏まえて演技していただき、難しい芝居で、大竹さんしかできる人はいないと思いました。
◆映画のもう一つのテーマ「距離感」について
Q:「距離」というのは?
A:高校生の子ども達がいる沖縄本島と、両親が暮らす島とは360キロ離れています。離島はまわりが海なので、さらに距離を感じると思います。でも、子どもが島を出て行ったことによって、逆に、親子の心理的な距離は近づいたと感じる家族もいます。毎朝、子どもにモーニングコールをしたり、なんでもない時に電話をかけて声を聞いたりしているのです。かたや、家の中にいて毎日顔をあわせても、なんだか距離のある親子、家族もあります。物理的な距離と、気持ちの上での距離とは、必ずしもイコールにはならないと思い直しました。この映画がそういう家族のあり方を見つめ直すきっかけになればいいと思います。
Q:優奈と初恋の少年とが少し距離を置いて向き合って挨拶する姿を、引いた画でとらえたショットが印象的でした。
A:あの距離感ですね。シネスコサイズの画面の端と端に人を立たせて、最初に出会った時の二人にはこんな距離感があるということを表現する意味で、そういう構図にしました。この構図のショットは、他にも何度も入れていて、姉が帰ってしまい、父と娘が台所に立っている時も、二人を画面の両端に立たせています。この映画のもう一つのテーマは“距離”です。だから、そういう構図は、意識的に使うようにしました。
◆島の風景について
Q:日本の昔の田舎の風景を観ているような感じがしました。
A:南大東島のパノラマ観をスクリーンで表現するために、できるだけ引きの絵、広い絵を見せていこうと思い、劇場で観た時に、わっと広がる感じを出したくて、シネスコサイズにしています。画面の半分は空、半分はさとうきび畑みたいなパノラマ観をできるだけ出したいと思いました。
Q:海をバックに優奈が三線を弾いている場面は、いろいろなことが煮詰まってきて初めて、優奈と海が一緒に映っているという感じがしました。
A:南大東島は地形がすり鉢状になっているので、島のまん中にいると海が見えません。どこまでも大地が続いているような錯覚がして、北海道にいるように見えます。でも、海側にいくと、北大東島は見えますが、それ以外は360度、海ばかりです。本土の沖縄と遠く離れていることを実感します。優奈が海に向かって一人で三線を弾きながら歌うシーンは、彼女がこの島を出て行くことを、卒業コンサートの直前になって、あらためて強く意識し出した頃と考えて、撮った場面です。
Q:本土の緑とは色が違うと思いましたが、島の風景は、実際にその季節に撮ったのですか?
A:南大東島は二毛作をやっているので、さとうきびの生長の違いで、一年を表現することができました。さとうきびが生い茂って高くなっている畑と、植えたばかりの丈が低い畑と、使い分けています。農家の方にお願いして、畑の一角を刈りとらずに、映画撮影のGWまで待ってもらいました。収穫時期は1月から3月初旬頃までで、早朝とともに仕事を始め日暮れた後まで、集中的に一気に刈ります。雨が降らない日はすごく忙しいです。
◆島の人達の協力について~島全体が“撮影所”~
Q:2週間で撮影されたというわりに、一年間がとても丁寧に描かれていて、驚きました。
A:南大東島に渡ってから、ロケ自体は2週間、那覇でもロケは5日間ほどやっています。大事なのは準備です。撮影が始まるまで、島の人達と何度もコミュニケーションを重ね、お酒も飲み交わし、一緒に映画をつくってくださいとお願いして、撮影にのぞみました。島の人達には、相当の負担をかけたと思います。
僕だけでなくプロデューサーや製作の人達も、撮影が始まる1か月前から島に住み始め、下準備をしました。僕も何度も取材を兼ねて、島にはできるだけ通わせてもらいましたが、やはり東京から来た人間ということで、最初は警戒されて、打ち解けるまでに時間がかかりました。でも、いざ味方になってくれたら、本当に心強い人達で、島の人達がいなかったら映画なんてつくれないと思いました。島全体が“ひとつの撮影所”みたいな感じでした。エキストラが急に要るとか、急に雨が降ったから家の中に入ると、その家の人も協力してくれたり、急に晴れたから屋外のシーンを撮ることになったら、エキストラの方々をもう一度電話で呼び集めてくれたり、村営放送で、予定を変更して何時から何番のシーンを撮影しますと流して、皆を集めてくれたりもしました(笑)。
Q:島を出て行く子ども達の乗った船を見送るシーンとか、島の人達に臨場感がありました。
A:毎年、島の人達が経験している場面ですから、皆よくやってくれました。島の婦人会や青年会といった人達にはできるだけシナリオをお渡しして、エキストラという扱いではなく、出演者、スタッフという考え方で接しました。島のエキストラの方々にしても、ただ座っているだけでなく、絶対何かやってくれます。というのも、映画で描いていることは、島の人達自身が経験したことのある場面ばかりだからです。実際に子ども達を見送ったことがある親御さん達は、子ども達が乗った船を見送るシーンでは本当に涙を流していました。今どういう場面を撮っているか、できるだけ説明して、ただ意味もなく座っている人は一人もいないよう、皆、主人公の仲里優奈の15年間を知っている島の人という設定ですから、島の人たちも自ら乗って演じてもらえるよう、できるだけ細かくシーンの説明をしました。撮影現場では気付けませんでしたが、編集の時になって、島の人達のいい表情にたくさん気付かされ、「このおばあ、こんな顔してたんだ」とか、「このおじい、こんなしみじみしたいい顔してくれてるな」というのがいっぱいあって、島で撮った甲斐があったと感じ入りました。
Q:島の方言そのままだと、観客にはわかりにくいですが、あえて字幕はつけなかったんですね。
A:島の方言をどこまでやるのか、字幕をつけるかつけないか、という問題は、最初にありましたが、わからなくても大丈夫、伝わるはずという自信過剰なところがあって(笑)僕は、字幕は要らないという考えです。
南大東島は、東京の八丈島からきた人達が開拓した島です。だから八丈の言葉が残っていて、それは、沖縄の人達もわかりません。島で普段しゃべっている言葉は沖縄の言葉ですが、南大東島ならではの単語が少し残っていて、そういう言葉は島唄に取り込まれて残っています。
◆「十九の春」について
Q:優奈が失恋に近いかたちで島に帰ってきたところに「十九の春」という歌が流れますね。
A:映画の副題は『十五の春』なので、「十九の春」という歌とも何かリンクするものがあり、観客の皆さんもきっとこの歌を思い浮かべるかなと思い、それならいっそこの歌を使おうということになりました。歌詞もわりと場面にリンクしていて、シナリオ段階から入れていました。「十九の春」は、元々女性と男性のデュエットの返し歌で、映画では、女性が歌う部分の歌詞しか使っていません。
Q:優奈が失恋して家に帰ってきて、お風呂に入るというのは監督の思いつきですか?
A:お風呂に入って、手の傷が水にしみて、「あぁ終わったんだな。もううまくいかないんだ、私達」と、優奈があらためて思う場面をつくりたかったんです。沖縄では、お風呂に湯をはって湯船に浸かることは滅多になく、ほとんどシャワーという家庭が多いです。沖縄の映画スタッフには、20数年間湯船に入ったことがないという人もいました。だから、浴槽に湯をはるということが、父親のさりげない優しさを伝える表現になればいいかなと思い、このシーンをつくりました。
Q:順撮りですか?
A:完全な順撮りではありませんが、たとえば、正月の初詣の帰りに、父と娘が二人並んでさとうきび畑を歩いてくるワンカットは、父親と娘の距離感を伝える大事なシーンなので、二人の間に距離感が生まれていないと撮れません。だから撮影の後半で撮りました。そういうなにげないけれど大事な場面こそ、雰囲気が出てしまうので、極力、撮影を後半に持っていきました。
Q:先行上映がされた沖縄本土の人達の印象はどうでしたか?
A:南大東島のことは、知っていても、行ったことがない人がほとんどで、沖縄でもどこか忘れられているような存在でした。他の島と比べて、地理的にも全然違う場所にぽつんとあるので、行きづらいようです。全く島のことを知らず、この映画を観て初めて知ったという意見も多かったです。
Q:最後に観客の皆さんにメッセージを一言、お願いします。
A:この映画では、沖縄の南大東島の離島で生きる小さな家族の生活を丁寧に描きました。離島で生きている人々の苦しみや喜びや葛藤を描くことによって、家族の絆を見つめた映画になっています。この映画をとおして、観客の皆さんご自身の家族のありかたを少し考えていただけるきっかけになればいいなと思います。
娘は、島に一人で残す父のことを思い、父は、旅立っていく娘のことを思う。その思いが最後の島唄「アバヨーイ」で交錯し、凝縮する。近年、親子の関係をここまで率直にまっすぐ見つめ直した作品も、なかなかないと思う。なかでも小林薫がいい。思春期の娘を持ち、言葉をかけたくてもかけにくい。一定の距離を保ちながら、静かに娘を見守る父の深い愛情が、寡黙なありようからにじみ出る。優奈の淡い初恋、島を出た母を慕う気持ちと裏返しの嫌悪感、優奈を慕う男の子の不器用な恋、母が娘を大切に思う気持ち、いろんな人のいろんな感情が島の美しい自然の中で奏でられていく。
親のない子はいない。親への感謝の気持ちは、誰もが抱く共通のもの。最後の「アバヨーイ」をぜひ劇場で聴いてください。吉田監督の脚本、演出の腕は見事で、今年公開予定の『江の島プリズム』も楽しみだ。
(伊藤 久美子)