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『長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ』大宮浩一監督インタビュー

nagamine-500.jpg『長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ』大宮浩一監督インタビュー
(2013年 日本 1時間25分)
監督:大宮浩一
出演:長嶺ヤス子他
2013年5月4日(土)~第七藝術劇場、6月1日(土)~神戸アートビレッジセンター他順次公開
公式サイト⇒
http://www.hadashinoflamenco.com/
※第七藝術劇場5/4(土・祝)11:55回上映後、長嶺ヤス子さん 舞台挨拶予定

~ “長嶺ヤス子”という生き方から、「フラメンコ」を感じる~

nagamine-s1.jpg 「日本人のフラメンコはいやらしい。」長嶺ヤス子が語ったこの言葉を聞いたとき、私はドキリとした。というのも私自身が、一番の趣味として長年フラメンコを習っているからだ。でも言葉の意図はすごく分かる。「フラメンコ」とは長嶺ヤス子の人生そのもので、単に着飾ってスペイン人のように踊ることではないのだから。

 日本のフラメンコダンサーの草分け的存在である長嶺ヤス子。『無常素描』、『ただいま それぞれの居場所』の大宮浩一監督が、彼女の喜寿を目前とした日々や、犬や猫たちと命を共にする生活、画家としての顔を映し出しながら、「長嶺ヤス子のフラメンコ」をあぶりだす稀有なドキュメンタリーを撮り上げた。直腸ガンを患い、退院からわずか1か月後に復帰した尺八や鼓を従えての舞台や、喜寿を祝う記念コンサートなど、他の追随を許さないオリジナリティーのあるフラメンコとその気迫に魅了される。一方、100匹以上の犬や猫たちと猪苗代で暮らす生活や、偶然の出会いからその家に住みついてまで介護している寝たきりの犬、ハチを介護する姿など、永遠の少女のような表情を見せながら、か弱き命に寄り添りそう長嶺ヤス子の生き方に、フラメンコに通じる「いのち」を感じずにはいられない。

 2011年4月から約1年にかけて長嶺ヤス子を撮り続け、「震災後被災地で撮影できずにいたとき、大きく背中を押してもらった」という大宮監督に、長嶺さんから感じ取った「フラメンコ」や、編集のポイントについてお話を伺った。


━━━どういう経緯で長嶺さんのドキュメンタリーを撮ることになったのですか?
僕の世代であれば、誰でも長嶺さんのお名前やフラメンコダンサーであることは知っていますが、実際にお会いしたこともありませんでした。震災直後、僕はカメラを持って被災地に入ったものの、何も撮れずに帰ってきました。そのとき長嶺さんが入院されたことを聞き、ちょっと会ってきてみようかという気持ちになって、お見舞いに行きました。

━━━お見舞いが初対面とは、勇気がありますね。
 nagamine-2.jpg映画を撮るきっかけなんて、そんなものですよ。お見舞いの言葉を述べたあと、自己紹介を兼ねて映画を撮っている人間だとお話すると、「あらまあ、大変ね。ご苦労様。ありがとう」と早速色々なことをお話ししてくれそうな勢いだったんです。そこで初対面にもかかわらず、「映画を撮らせてもらえますか」と切り出してみたところ、「いいわよ」とあっさりお返事を下さいました。翌日(病室に)お邪魔したときの映像が、映画の冒頭部分のシーンです。

━━━監督が再び被災地に行き、『無常素描』を撮りあげることができたのは、長嶺さんの撮影を始めた影響が大きいのでしょうか?
長嶺さんの撮影で、落ち着きをもらいました。「しっかりしろ」と励ましてもらったように感じましたね。東日本大震災にも動ぜず、ご自身のことを語り続けておられましたから。4月に長嶺さんと撮影を始められたことで、その後『無常素描』という被災地に改めて向かえたのだと思います。

━━━フラメンコの踊りのシーンと、動物たちと暮らす日常のシーン、そして絵に自分を投影させるシーンと3つの柱がありますが、作品としてこれらのバランスをどう構成していったのですか。
長嶺ヤス子の踊る姿を、踊る以外から想像してもらえるような映画を観念的には目指したかったです。ぼくの力量では残念ながらできませんでしたが、なるべく踊るところは、象徴的にみせるぐらいで、減らしたいと最初から思っていました。

━━━前作『ただいま それぞれの居場所』は介護の話でしたが、本作でも犬のハチを介護する様子を映し出し、前作とつながるテーマを持っているようにも感じました。偶然そうなったのでしょうか。それとも意図的に介護の部分を取り入れたのでしょうか。
撮影を始めた後の6月ぐらいから、長嶺さんハチ君のが面倒を見はじめたので、そういう意味では偶然ですね。長嶺さんは、東京にいる間は常にハチ君と一緒にいるんです。僕らが撮影を想定していた約1年間で、長嶺さんの日常の場がハチ君と一緒にいる場だということは、紛れもない事実でした。何かを仕込むことはしたくないので、長嶺さんがそこにいるのなら、そこでカメラを廻すしかない。構成をある程度考えながらも、1年という撮影で撮れたものの中から、長嶺さんという人間をどう表すのかと考えました。結果的にですが、死生感を含めた長嶺さんが言うところの「いのち」が表現されているのではないでしょうか。

━━━大宮監督は、人生で初めてご覧になったフラメンコが、長嶺さん手術1ヶ月後のライブだそうですね。どんな感想を持たれましたか?
 nagamine-4.jpg凄かったですよ。フラメンコというカテゴリーから外れているというより、パフォーマーとしての長嶺さんにカルチャーショックを受けました。大腸ガンの手術から1ヶ月、しかも76歳で大丈夫だろうかという思いがありましたが、それを勝って(踊りに)圧倒されました。一番最初に長嶺さんの動きを見たのはリハーサルで、その次の本番が初めてのフラメンコですが、僕もカメラマンもびっくりしたんです。僕らも一緒に驚きながら撮影したいので、ありとあらゆることが初めてでした。

━━━フラメンコに限らず、長嶺さんの生活に密着する中で、初めて体験することが多かったのではないでしょうか?
すごく観念的な話になりますが、長嶺さんと僕は最終的には感覚が近づいたと思っています。例えばハチ君とのコミュニケーションが、長嶺さんのフラメンコなのです。フラメンコというきらびやかな衣装を着た世界のイメージは、分かりやすいですよね。でも長嶺さんは生きざまがフラメンコなのです。フラメンコを習っている方が、(長嶺さんのセリフで)「日本人はフラメンコを辞めた方がいいわよ」といわれるのは驚かれるでしょう。

━━━私もフラメンコを習っているので、その言葉にはドキッとしました。でも長嶺さんが意図していることは分かる気がします。きっとジプシーたちが表現するような「土臭さ」がないということでしょう。また、日本のフラメンコダンサーはフラメンコ教室を運営している方が多いですが、長嶺さんは生徒を集めて教えるような活動はされていませんね。
そういうアナーキーさのイメージは、会う前から感じていました。そこが長嶺さんのところに向かった一つの要因ではありますね。皆が足並みを揃えてしまう世の中で、ちょっと撮りたいなと思えたのは、震災直後ぜんぜん動じていないということにも繋がっています。普通は震災後みんな怯えて、だんだんと忘れていくのですが、長嶺さんは一貫しています。

━━━弱きものに対する愛情は溢れんばかりにある代わりに、人間社会で起こっていることには無頓着を通していらっしゃいますね。
 nagamine-3.jpg長嶺さんのコメントは使う位置を間違えると、すごく嫌みになります。フラメンコに対するコメントから、踊りではなくて生きざまとして長嶺さんはフラメンコを捉えていると解釈できます。日本のフラメンコは表層的なものにしか見えないという意味で使っているのだと思います。そういう意味では「日本人はフラメンコを辞めた方がいいわよ」という一言を理解してもらうことが、一つの編集指針となりました。すごく乱暴な言葉ですが、「フラメンコ」という言葉を普遍的な何に変えても、当てはまると思うんですよ。日本人は、右といえば皆右に走って行ってしまう。「もう生きるのもやめたらいいのよ、日本人は」、そういうことなんですよね。長嶺さんは、「あなたの主体はどこなの?」というスタンスは一貫しておっしゃっていらっしゃいます。

━━━編集で一番苦労されたところは?
僕たちは漠然とした長嶺さんのイメージができたのですが、それを具体的に、どういう風なコメントと映像によって少しずつ理解してもらえるか。少し長嶺さんに気持ちを寄せてもらってから、喜寿の舞を見てもらえるようにすると、あの踊りでハチ君や猫たちがきちんと感じらるのではないかと思いました。見るたびに同じシーンでも印象が違うんです。同じ踊りでも前回見たときと印象が違ったりして、今回編集に時間がかかりましたね。

━━━長嶺さんは「死が永遠につながる」といった表現をされていましたが、死を恐れてはいないということでしょうか。
そうです。「私は死んじゃいけないの」と断言していらっしゃいます。死も物理的、肉体的な死はありますが、「それすら受け止めた次にくる、もう一度くるかもしれない生」というのは、仏教の倫理的な感覚にすごく近いのではないでしょうか。長嶺さんがそういう考えなので、最後に「ハチ君が子守してくれたのかもね]」という言葉が出たのでしょうね。

━━━長嶺さんは「自分の踊りを通して、踊りを見ている人の人生を見てほしい」とおっしゃっていました。踊り手なら、自分の踊りを観てもらいたいのではと思いますが。
長嶺さんはサービス精神がすごくおありで、「私を鏡にして」みたいなことをおっしゃいます。「私であなた自身を感じて」ということですよね。時々観念的なことをさらりと言われるので、その瞬間は聞き逃してしまうのですが、編集していると言葉の重みに気付かされます。深い言葉なので、聞かせたい言葉の後は、しっかり間をとらなければならなかったり、そういう(編集での)ディテールが難しかったです。長嶺さんの人柄を出すために、言葉を理解してもらうための余白や余韻の組み合わせにちょっと苦労しましたね。 

━━━映画の中で一番好きなシーンは? 
冒頭と最後で使っている散歩のシーンなのですが、あれはちょっとメルヘンチックで、すごくシュールなんです。衣装や帽子、ワンちゃんもしっかり仕込んだ劇映画のようで、あのカットがすごく好きですね。
一つ一つのシーンや、言葉など、映画ってそれぐらいしか他人の人生に入っていけない。でもどこか引っかかってほしいんですね。すっと流れちゃって、泣いて終わるだけでは、(映画を観た後に)何も残らないです。本作を観て、何か(心に)引っかかるところを見つけていただければうれしいです。

━━━「裸足のフラメンコ」という言葉をタイトルに入れた理由は?
長嶺さんがスペイン留学時代に、「あなたはスペイン人の真似をしている。靴を脱いでやってごらん」と言われたそうです。靴を脱いで踊ったら、「それだよ!」と言われ、それ以来長嶺さんは、靴を脱いでスペインで踊っていたという話を伺いました。ステージでも、靴を脱いで踊る演目があるそうです。そういう意味と、長嶺ヤス子の着飾らない、「ヌードのフラメンコ」のような生きざまを、僕たちが撮影を通じて感じさせてもらった。そういう二重の意味でタイトルにつけました。(江口 由美)

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