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『先生を流産させる会』内藤瑛亮監督インタビュー

sensei-s2.jpg (2011年 日本 1時間2分)
監督:内藤瑛亮  
出演:宮田亜紀、小林香織、大沼百合子、高良弥夢他
2012年8月25日(土)~第七藝術劇場、9月8日(土)~京都みなみ会館、9月22日(土)~神戸アートビレッジセンター他全国順次公開
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(C)2011 内藤組

センセーショナルなタイトルを聞いただけで胸がざわめく衝撃作『先生を流産させる会』がいよいよ関西で公開される。脚本も手掛けた内藤瑛亮監督が、実在の衝撃的な事件をモチーフに、性に嫌悪感を抱く思春期女子や、毅然とした態度で生徒と闘う先生の姿をエッジを効かせた構成で鮮やかに描いている。キャンペーンで来阪した内藤瑛亮監督に、映画化のきっかけや作品を通じて描きたかったこと、撮影秘話についてお話を伺った。


━━━本作の元となる事件を知った経緯をお聞かせください。
2009年3月ぐらいに報道されたのですが、最初はネットで見て、この言葉にギョッとしたんです。ネットの反響も実名を挙げろとか、死刑にすればいいという過激な処罰を求めていました。最近はインターネットやツイッターで意見を言えるようになり、それはいいのですが、意見の出され方が善意や常識、正義を後ろ盾にして間違った者をボコボコに叩きまくる傾向にあって、バッシング祭りをむしろ楽しんでいる。それは社会として不健康だと思いながら、まだ映画としては考えていませんでした。 

sensei-1.jpg━━━実際に映画化しようと思ったきっかけは何ですか。 
自主映画の短編『牛乳王子』(2008)を撮りました。自主映画は映画祭やコンペに応募して通ればようやく人に見てもらえる訳ですが、『牛乳王子』はあまり評判が良くなかったんです。そこでほめられている映画というのは夢を追いかける若者の青春映画や恋愛映画で、自分の作品は未熟なところがたくさんあるけれど、こんな映画に負けるつもりはないと思う反面、そういう作品が評価されて、観る人がたくさんいるという現実は受け止め、そういう人たちにも届く映画を作らなければいけない。俺はホラー映画が好きだという趣味の部分で作っても、観てもらえなければ意味ないなと思っていたんです。社会的事件を題材にすれば、そういう人たちにも観てもらえるし、自分も興味が持て、実際にホラー映画は実在の事件を取り上げることを伝統的にやってきているので、図書館に行って新聞記事を調べはじめました。そのとき流産をさせる会事件に再会したんです。ぱっと冒頭の田園のシーンで女の子が歩いているのが思い浮かんで、「俺が求めているのはこれだ!」って思いました。そこから映画にしていった形ですね。

━━━この事件を脚本に仕上げていく際に変更した点や膨らませた点はどんな部分でしょうか。
一番衝撃を受けたのは「先生を流産させる会」という名称でした。劇中でも描いていますが、胎児は人ではないから流産させる行為は殺人罪にはなりません。でも、「先生を殺す会」より「先生を流産させる会」の方がはるかにまがまがしい。映画美学校の先生である井土紀州さんが、「物語は常に逆説的であるべきだ。」と語られていて、これだけこの言葉に拒絶感を感じる、この拒絶感って何なんだろうと考えていけば、逆に我々が大切にしたいものが見えてくる気がしました。

そのときに、男子生徒を主役にしてしまうと、この言葉の怖さに近づけないと思ったんです。妊娠していることにもっと嫌悪感を感じるキャラクターでないと、この言葉に対する違和感に近づけない。女の子は妊娠できる体に徐々に変化していて、否応なしに受け入れなければならない。当然イヤな人もいるはずだ。そうしたら、この言葉のおぞましさに近づいていけるなと思いました。

━━━主人公を男子生徒から女子生徒に変えたのは、一番大きなポイントですね。
男性の監督がこういうことを描くことに「えっ」と思われることが多いですが、女性だから女性のことを描けるとか、男性だから男性を描けるということは決してなくて、むしろ異性だから距離感を保てている部分もあるんです。男性として、あれは何だろうと10代の頃から抱えていた疑問というのをこうやって描けた感じです。

事実を変える部分に関しても問題はないと思っています。描きたいテーマに対して、最も伝わりやすい方法を選ぶべきで、事実を事実のまま描いたら真実に近づけるかといえばそうではないのです。真実を描くためには、もっと自分なりに工夫しなければいけない。犯罪実話ものを見ても、事実はこうだろうけど、結局何が言いたいのかよく分からないと感じることがあります。事実と違ってもテーマが描けていれば、そちらのほうが正しいと思います。

sensei-2.jpg━━━モンスターペアレンツやそれに対応する先生、悪いことと知りながら群れて突き進む生徒たちと、学校現場の生々しい様子が描かれていましが、リサーチをされたのでしょうか。
学校で働いている先生に取材したり、教育関係の文献も色々読みました。女の先生の描写に関していえば、最初から怒っているような先生なのですが、担任が発表されて先生に会う第一印象で子どもたちは先生をなめてもいいかどうかを決めてしまうそうです。最初厳しくいくことが大切で、この女の先生はある程度学校で経験してきているから、ああいう厳しい表情になってしまう。だから完璧な先生としては描いていなくて、ちょっといきすぎたところはあるけれど、そういう形でしか向き合うことができない現状だと描きたかったです。

保護者の描写に関しては、一時期モンスターペアレンツが流行っていて、テレビでもある種面白おかしく報道されていましたが、モンスターという名前で片付けてしまうと、その親に向き合おうとしなくて済むところがあって、それでは良くないんじゃないかという思いがありました。謝らない親が存在しているこの世界で、どうやって向き合っていくのか。親としてもその立場で自分の正義をもって、自分の正しさを求めて行動していると思うんです。それは先生の立場もそうだし、生徒の立場もそうで、流産させようとしているその子どもたちも自分たちの正義にそって闘っているし、先生も自分の先生という仕事にプライドをもって闘っている。それぞれの正義がぶつかり合う場所を物語という世界である程度整理して、お客さんに考えてもらうことが必要かなと思いました。

━━━生徒たちのざわっとした会話の中で、「キモイよね」という言葉だけが効果的に浮かび上がっていましたね。
90年代からナチュラルな芝居がすごく流行って、しゃべり言葉のように物語に奉仕しない会話があって、映画もどんどん長くなっていくし、セリフも多い。僕はそれがすごく嫌で、まわり道しないで話の中心に行くつもりで、どんどん削っていきましたし、できるだけセリフは書かないで必要なものだけにしました。62分という長さも、もう少し長くするつもりでしたが、どんどん削ったほうがやりたいテーマがとがった形で見えるなと思いました。

━━━逆に、数少ないサワコ先生とみづきとの会話に純粋さからくる憎悪の感情が見えました。
サワコ先生とみづきが向き合ったシーンで先生が「なんで流産させたいの。」「気持ち悪いから。」「気持ち悪いの。」「知らん。」というセリフは、エスキロールという精神医学者が、義理の母をすごく憎んでいて殺したいという殺人衝動にとりつかれ七歳半の女の子を診察したときの会話を元にしています。本人も分かっていないけど感覚的に嫌だというのが10代にある、その会話のそっけない感じは参考にしました。

sensei-s1.jpg━━━みずきに対して最後まで先生としての立場を全うする描き方をしたのはなぜですか。
この物語をどう着地させるのか、すごく悩みました。サワコ先生がみずきを殴り殺すという展開も一度書きましたが、結局そういう子どもをこの社会が拒絶する話になってしまうんですよね。暗い衝動を抱える子どももこの世の中にはいるし、生きていかなきゃいけないのに、拒絶する話でいいのか、絶対殺してはいけないということで共同脚本の2人(松久育紀、渡辺あい)と再考し、流産は描くとして、その上で大人がどう対応していくのか見せることにしました。

学校の先生に取材で、生徒にいくら厳しいことを言っても伝わらないとき、どう考えて対応しているかお聞きしたとき、「確かにいくら努力しても伝わらないときもあるし、変わらないときもある。でも我々は教師なのだから、最後まで態度を貫くことが大事なんだ。教育はすぐ伝わることもあるし、何年かしてようやく伝わることもあって、そういう種を蒔き続けなければいけないし、拒否したり、逃げ腰になってはいけない。逃げたことを子どもは学んでしまう。」とおっしゃったんです。サワコ先生の行動も、物語としては先生として貫いた姿を見せることに意義があると思っています。

あと、自主映画を撮っていたので、どうしても10代や20代のモラトリアムの姿勢で描かれることが多くて、それに対する苛立ちもありました。自分ももうすぐ20代が終わることもありますが、大人として向き合わなきゃいけない物語を描かなければと思った部分はありますね。

━━━サワコ先生を演じた宮田さんに、演技やキャラクターについてどんな指示をされましたか。
キャラクターについて話し込むというより、リハーサルをしてシーンごとに「こういう強さのトーンでいってほしい。」とか、この子達に対してこう闘うとか、ここでは負けてしまうとか、子どもとどういう姿勢で向き合うかということを説明していきました。最後にみずきを守るシーンで、一度脚本に書いたものの削除したことがあり、その脚本を宮田さんに渡すと、「何であそこを削除しちゃったの。あそこを演じたいんだけど、ここは大切だと思う。」といわれて復活させたんです。そこがある種“越える”部分でしたね。

━━━初演技となる子どもたちに、事件を起こした生徒役の演技をどうやって指導したのですか。
演技力というよりは生々しさが必要なので、事務所の子ではない人が必要でしたが、こういう題材だし、なかなか演じてくれる人が見つからなかったです。ワークショップ式のゲームに参加してもらいながら進めていったので、本人たちは、役とか役柄とかは全然考えてないし、こちらもそんなに深く説明しなくて、感覚的なことを伝えました。現場では「あの人むかつくからずっと睨んでて。」とか「じっと見てて。」といったぐらいの演出で、あまり縛らないようにしようと思いました。本人たちも全然緊張してなくて、本当に遊びまわっている感じで、その素の部分も残しておこうと思いました。カットをかけた後の顔だとか、撮影とは関係ないところの顔を撮ったり、集中力が続かず飽ききった集中力ゼロの顔も面白くて、空洞っぽい怖さがあるなと思いました。

━━━最後に監督からのメッセージをお願いします。
映画作りに関して、今はできるだけ最大公約数を狙うようなところがあると思います。でも「僕がこう考えている」と鋭く出したほうが伝わると思うし、怒る人がいることは悪いことではなくて、それだけその人の主張がピシッと出ている訳で、作品として僕はこの問題をこう捉えた、あなたはどう思いますかと問いかける。作品を通じてコミュニケーションを取ることはむしろ健全だと思います。どういう風に感じるのか、自分は10代のときにどうたったのかを考えてもらえれば、作り手として目指しているところだし、うれしいなと思います。


教育現場と生徒、親との力関係をさらけ出しながら、生徒である少女のギョッとするような残虐さを62分という短い時間でストレートに描写した潔さや、映画的表現力のセンスの良さに驚かされた本作。タイトルを見てざわめいた感覚を突き詰めると、命とは、教育とはといった永遠の命題にたどりつく。そして、そこには、自主映画の世界から一歩踏み出して、作品を通じて社会と健全なコミュニケーションをとりたいという内藤監督の映画作りに対する姿勢が映し出されているのだ。将来頼もしい若き才能が放つとんでもない青春映画に、ホラー的要素を絡めながら真摯に問題に向き合う、未だかつてないエンターテイメントの姿を見た。(江口由美)

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