レポートインタビュー、記者会見、舞台挨拶、キャンペーンのレポートをお届けします。

『隣る人』刀川和也監督インタビュー

tonaruhito-s1.jpg(2011年 日本 1時間29分)
監督:刀川和也  撮影:刀川和也、大澤一生、小野さやか
2012年8月18日(土)~第七藝術劇場、ポレポレ東中野※アンコール上映、9月15日(土)~神戸アートビレッジセンター他全国順次公開
公式サイトはコチラ

  “子どものための子どもの施設”を掲げた児童養護施設「光の子どもの家」を8年間記録し続けたドキュメンタリー『隣る人』がいよいよ関西で公開される。大家族のような賑やかさと暖かさがあるその場所で、理由があって親と暮せない様々な年代の子どもたちが職員たちを母親のように慕いながら生活している姿を丁寧に描写。静かな感動を呼ぶ作品だ。キャンペーンで来阪した刀川和也監督に、作品を通じて描きたかったことや、撮影秘話について話を伺った。


━━━アジアプレスで海外取材活動をされていた刀川監督が、光の子どもの家に巡り合った経緯は?
  2001年6月ごろフィリピンで児童労働の取材後マニラ空港のテレビで、付属池田小学校の無差別殺人事件の映像が流れたんです。フィリピンは環境としては過酷ですが、色々な人間がくしゃくしゃになりながら生きている姿を取材してきた後で、あの豊かなはずの日本での事件に衝撃を受けました。巷やニュースでも「虐待」という言葉がよく聞かれるようになった頃で、家族問題の評論をされている芹沢俊介さんの『「新しい家族」のつくり方』という本の後書きに光の子どもの家のことが書かれていて知りました。

tonaruhito-1.jpg━━━光の子どもの家のどういった点に惹かれたのですか。
  「子どもがまっすぐ育つには伴走するように居続けるしかない。」ということが「隣る人」という言葉とともに書かれていました。「家族を内側としたら、内側と外側の狭間に、家族のことを考える場所があるかもしれない。」と、一般的な児童養護施設は家族の外側だけど、光の子どもの家は家庭的であることを実践しようとしている訳です。子どものための子どもの施設を作る、そのために子どもと暮らすという理念で、子どもと一緒に寝たりご飯を食べたり、食器ひとつにしても皆が自分の陶器を使ったり、細部まで意識化していく。僕の中では、児童養護施設という場で家庭的であることを実践している様を見つめることによって、家族や家庭、親子の中身が逆に見えてくるのではないかということを途中から意識していました。

━━━光の子どもの家に初めて行った時の感想は?
  僕もびっくりしたのですが、匂いがあったんです。友達の家に行ったときに入ってくるその家の匂いがあって、学校や施設とは違う”家”だと、一番最初に感じました。

━━━撮影の許可を得るのは大変だった?
  2003年末一度話に言った後、ちょうど光の子どもの家で職員の誕生会をしていたので理事長の菅原さんに「行く?」と誘われました。撮ってもいいよと言われて撮り始めてからは、ある意味自由でしたね。撮影に行く前にテレビ局が入っていたこともプラスに働いたのでしょう。暮らしを撮りたかったので、とりあえずキャメラを回して、でもビデオを撮りに来た人ということは認識してほしかったんですよ。最初の1年半ぐらいは一人で週に一度日帰りや一泊二日で、敷地内の5軒をぐるぐる回って全ての職員さんや子どもたちと仲良くなることはできました。でもそれだけでは撮れるものは限られていて、こんなのを撮っていてどうなるのかと思いましたし、映画にするためには踏み込まなければいけない。プライバシーのことも気になりましたが、モザイクをつけるのなら公開しないと決めていたので、このまま撮っても公開できるのかと悩みました。

tonaruhito-s2.jpg━━━手さぐり状態の撮影に活路が見えたのはいつ頃ですか。
  いろんな出会いに助けられました。大澤一生さんや『アヒルの子』公開前の小野さやかさんに偶然出会って、彼女も同じようなテーマを撮っていたので、是非来たいと2005年頃から一年ほど二人が代わりに撮影に行っていました。映画でも一部使っています。

  再び一人で撮り始めた時に、企画の稲塚由美子さんに出会いました。映画にするのなら本気でやるか、やめるしかないと決断を迫られていたときで、撮ってきた素材を稲塚さんに見せたんです。すると「普遍的なことが日常の中にいっぱいあるから、絶対やった方がいい。」と言ってくださり、そこからは稲塚さんと一緒に議論しながら作り上げていきました。

━━━作品中でも「撮らないで」と子どもたちが嫌がるシーンもありましたが、どうやって彼女たちとコミュニケーションを取っていったのですか。
  子どもは意外と撮らせてくれるのですが、恥ずかしいと思ったことや、親のことには結構小さな子でも反応します。そのときに居合わせても撮影できる自分でなければいけない。それぐらい撮影を日常化することで撮るほうも撮られる方もストレスが減るんです。撮ることは集中力はいるので、力が抜けているときもあるのですが、それでも突然ぐっとくることがあります。むっちゃんとマリナが「ママなんていないじゃないの!」と泣くところも、最初は二人で相撲をしていただけなのに、マリコさんが洗い物をしていたらぐっとくる展開があるんです。むっちゃんも「ずっとカメラで撮ってるじゃん。」と言うということは、ずっと撮られてることを知っているし、許しているわけです。

  さらに、公開できるかという部分で、話をしてもまだわからない小さい子どもたちばかりなので、自分と子どもたちの信頼関係になるんですよ。そのためにも居て、映画を撮っているだけじゃないぐらい関わっていく。半分職員のようになってましたね。どうなるか分からないけれど、いつかは公開できる、子どもたちは「うん」と言ってくれると信じて撮っていました。

tonaruhito-2.jpg━━━子どもたちが職員を「ママ」と呼んでいたのが印象的でしたが、自然にそう呼んでいるのでしょうか。
  子どもたちは呼びたいように呼んでいますよ。「マリコさん」と言ったり、「ママ」と言ったり。逆にマリコさんも初めて担当した留学費まで出してあげた子であっても「ママ」と呼ばれて、即座に「違う」と拒否したことがあったそうです。職員たちも若い頃は「私はお母さんじゃない」と思うようです。でも「ママ」と呼びたい子どもの気持ちは、親密でありたいという表現で否定しないほうがいいのではないかと菅原さんと話をし、呼びたいように呼ぶようになっています。子ども自身も複雑な想いで葛藤しているんですよ。テロップは入れていませんが、子どもたちが「ママ」と呼んだときに、観ている人にこれってママなの?ママのように見えるけど職員だし、ではママの中身って何だろうと考えてもらえればと思っています。

━━━むっちゃんがお母さんやおばあちゃんとの関係で揺れ動く様子は、双方の辛さが伝わりました。
  親御さんというのは映画の中にちゃんといてほしかったんです。家族の絆といっても、実は血縁が人を縛っていたりもしますし、本当は児童養護施設で暮らしていることや、実の親御さんに育ててもらっていないことをマイナスに感じる必要はないのです。一緒に暮らしていないから、ぶつかりたくてもぶつかれなくて親も子どももお互いに幻想を抱く。マリコさんが言う「憎たらしいことがいっぱいあっても、一個いいことがあると帳消しになる。」のが”暮らし”なのですが、一回しかなければ一回が全てです。暮らしている強さなんです。とはいえ、生んだ人間だから唯一無二で、子どもの人生のためにどうするかを中心に据えれば、お母さんとしての役割は永遠にあります。時には成長した子どもに罵倒されたするかもしれませんし、暮らすだけが役割ではないですね。

tonaruhito-pos.jpg━━━大家族のような光の子どもの家で、子どもたちと職員たちが生活する様々な日常を映し出していますが、撮影ではどんなことを心がけたのでしょうか。
  単純に好きなので、抱きしめているシーンは一番撮っています。長くいると、あと数時間いなければ見逃してしまうという局面が分かるようになります。週に一度ぐらいでは分からないし、月に一度では何も変わってないように見えますが、ずっといると毎日のように大事件があって、そこに時間が許す限りできるだけ居合わせて、ぎりぎりまで頑張ってみる。本当に「ダメ」と言われたら、その瞬間にバチッとくるので、その時は止めます。ぎりぎりのところに居合わせ、撮影もしましたが、逆にそこまでいなければ映画の公開もできなかった。そこまでいた責任も同時にあって、居合わせるなら逃げないということです。

━━━家庭とは、家族とはを考えさせられる普遍的な内容でしたが、一番伝えたかったことを教えてください。
  この映画で説明やテロップも入れなかったのは、児童養護施設という特殊な場所の話にしたくなかったからです。僕と地つづきだし、あそこにいる人たちは私たちの問題でもあると思うようになりました。すでに東京で上映してきましたが、感想としてむっちゃんを見ながら自分の子ども時代を見たり、マリコさんを見ながら自分のお母さんを振り返ってみたり、あの映画を観ながら自分を見ていると言ってもらえたのがうれしいです。誰も一人で生きられません。児童養護施設で撮りましたが、人と人との関係やその有り様や大事なことを撮ったつもりなので、そのことがきちんと伝わればいいなと思います。


  本作に登場したむっちゃんことムツミちゃんとマリナちゃんを昨年の山形ドキュメンタリー映画祭に招待し、質疑応答の席から二人への感謝の言葉と劇場公開するつもりでやっていることを伝えたという刀川監督。8年間の撮影で培った人間関係が、デリケートな部分に踏み込みながらも、家族の本質を考える機会を与えてくれるドキュメンタリーを完成に導いたといっても過言ではない。血のつながりだけが全てではない子育てと幸せの姿は、誰もが子どもたちの、しいては大人の“隣る人”になれる可能性を示してくれた。自分の原体験に引き寄せて、改めて家族とは、親子とはを思い巡らせてほしい。(江口由美)

月別 アーカイブ