(2012年 1時間36分 日本)
監督・編集:海南友子
エグゼクティブプロデューサー:山田洋次
声の出演:檀れい、田中哲司
出演者:黒柳徹子、高畑勲、中原ひとみ、松本善明
7/14〜テアトル梅田、シネ・リーブル神戸、9月下旬〜京都シネマ
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~優しくみずみずしい絵に秘められた作家の人生に迫る~
いわさきちひろの絵はカレンダーなどで、日本人なら一度は目にしたことがあるにちがいない。淡く柔らかで優しい絵の作家としてその名は広く知られている。しかし、ちひろの苦労続きの波乱に富んだ人生について知る人は少ない。本作は、初めてちひろの人生にスポットをあてたドキュメンタリー映画。監督の海南友子さんは、ちひろについては、子どもの頃触れたきりで、ほとんど縁がなかったが、本作がきっかけで、ちひろの生きる強さを知り、絵の印象が180度変わったと語る。大阪では、テアトル梅田で公開が始まったが、平日休日を問わず、日中は客席がかなり埋まるそうだ。没後40年近くたった今も根強い人気を誇る絵本画家いわさきちひろの魅力とその人生について、公開を前に行われた海南監督への共同取材の模様をつうじて、ご紹介したい。
■映画化について
――本作を監督されるきっかけは?
4年ほど前に山田洋次監督から、人間いわさきちひろのドキュメンタリーをつくらないかと声をかけられ、生前のちひろさんを知っている人に話を聞こうと、50人に足掛け3年かけてインタビューを重ねました。「鉄の心棒を真綿でくるんだような人」という言葉を度々うかがいました。確かに絵は可愛らしいですが、波乱万丈の人生の中で、決して諦めない、固い意思を持ち、自分らしさを求め、極めようとした人だと感じました。
――ちひろが20歳で親の決めた相手と結婚して満州に渡り、2年弱で夫が自殺、帰国したという話は衝撃的でした。戦時中、ちひろの母親が旧満州に若い女性達を“大陸の花嫁”として送り込むなど、両親ともに戦争に協力的だったことは、広く知られているのですか?
大半の人はちひろの絵しか知らないと思います。私も知りませんでした。最初の結婚の話はショックで、結婚したのに身体も心も開かないというのはどういうことかと思いました。いろいろ発見していく喜びがあり、証言を得てまた発見があって、という繰返しで作品づくりを進めていきました。最初の不幸な結婚をはじめ、苦しい思いをし、見てきたからこそ、あんな優しい絵が描けたのではないか、そこが知りたいと思いました。
■ちひろの人生の転機
――映画のタイトルの「27歳の旅立ち」というのは?
彼女の人生で一番大きいのは、27歳の時の転機だと思います。前年に敗戦で家も焼かれ、職もなく、(戦争に協力していたため)親の立場もなくなり、さらにバツイチ――今のバツイチと違って当事はちょっとタブーというか、結婚して戻ってきた娘――という三重苦の状態でした。その中で初めて、彼女は自分が本当に絵を描きたいということに気がつくんですよね。それまでは、絵を仕事にまでしようとは思っていなくて、もし敗戦がなかったら、ただの絵の上手い近所のおばさんで終わっていたかもしれません。でも、そうじゃなくて、絵の道で生きていきたいということを、人生のどん底で決意するんです。今こうして有名になっているからこそ、そこがスタートといえますが、ここで立ち上がっても、なんの成果も得られない可能性だってあったわけで、立ち上がる勇気というのが、彼女の人生の最大の転機だったと思います。
――ちひろの人生のどこにスポットを当てようと考えましたか?
彼女の3つの強さ、まず人間としての強さ、戦争にどう向き合うのか、二つめは働く女性としての強さ、母としての強さ、三つめはアーティストとしての強さを大事に描きたいと思いました。ちひろをアーティストというと違和感があるかもしれませんが、彼女は自分の絵にプライドを持っていたので、著作権運動も一生懸命やっていました。当時、絵本作家にはまだ著作権がなく、出版社が勝手に絵を切ったりしていた中で、彼女は、自分の絵をぞんざいに扱わないでほしいと、原画の返還や作家の権利を働きかけていくんです。そのことで、大手出版社からの仕事を失ったりもしているのですが、私は私でこうなんですという自分のアートに対する絶対的自信が彼女の強さに結びついていたと思います。
――彼女の強さはどんなところから生まれたと思いますか?
ご自分の好きなものをとても大事にされていました。たとえば敗戦後、物がなくて、おしゃれとかできない時に、彼女は可愛らしいものをすごく大事にしていて、どこかからひもを拾ってきてリボンをつくって、髪の毛やブラウスにつけたりしていました。当時、そんな人はおらず、すごく異様だったそうですが、自分がいいと思うものは、まわりからどんなに批判を受けても、絶対やりたい。それが著作権運動ともつながっていて、リボンと著作権は多分彼女にとっては同じことで、自分が大事にしているものを汚されたくない、そこが彼女の強さだったのではないかと取材を終えて思いました。
――弁護士を目指す夫を支え、生活費を稼ぐため、生後1か月半の息子を長野の実家に預け、東京で絵筆一本で仕事に励み、お金が入ると喜び勇んで子どもに会いに行くというエピソードが印象的でした。
ちひろは、自分の子どもが一番可愛い時期に離れ離れになってしまいました。すごく悲しいことですが、会えないからこそ、子どものことを考え、子どもの絵をいっぱい描く。子どもに会いたいという思いや愛を、ちひろは絵にぶつけるしかありませんでした。それがアーティストとしての彼女の深みにつながったとも思うので、不幸なエピソードが彼女の作風を高めていくことにつながったと感じます。27歳が1回目の転機だとしたら、息子との別れというのが2回目の大きな転機だったと思います。そこがなかったら、ちひろの絵はもっと違っていたかもしれません。
■ちひろの描く子ども
――ちひろの絵に、満面の笑顔の子どもというのは、あまりいませんね。
ちひろは、子どもの気持ち、心をどうやって描くのかということに随分思いを砕いていました。いわゆる“可愛い子ども”というイメージではなく、その子が今どんな気持ちなのかというところまで、絵の中から伝わってくるようにするためには、どうしたらいいのか、工夫を重ねて最後までやり続けた人です。たとえば、『あめのひのおるすばん』という絵本に、お母さんを待って留守番をしている子どもの絵があります。雨が降っていて、色が重なって輪郭がなく、にじんだような絵です。お母さんが帰ってこないと本当に不安で、「ママどこ行っちゃったんだろう」という経験は誰もがお持ちだと思います。それを色の重ね方、ぼかし方で表現しています。どういう絵画の技法を使うかは無意識だったと思うのですが、どうしたら雨の日にお留守番をしている子どもの気持ちが表現できるのか、すごく考えて、そこにたどりついたのです。
――表現としても斬新で、あまり言葉を尽くさずに、絵から感情がわきあがるということに感銘しました。
「余白の美」と彼女はよく言っていますが、白く余っているところがあることで、世界が完成する。普通なら黒く塗らないと髪の毛に見えないのに、ちひろの絵では、髪の毛とかも白い子が多いです。白いところ、何もないところに、少女の思い詰めている気持ちが読み取れたりして、色使いや描きぶりは独自なものだと思います。
――ちひろの作品のうち、どれが一番好きですか?
本当にいろいろあるのですが、今は、ベトナム反戦を訴えた絵本『戦火のなかの子どもたち』の、まさしく今、焔に巻き込まれて死んでいく母と、母の腕に抱かれている子どもの絵です。戦争を表現する時に悲惨な場面を描くという方法もありますが、彼女は違います。これから壊される平和な世界を描き、それが壊されるということをどう思いますかと語りかけてくるのです。同じものづくりをする人間として、その方法はリスペクトしたいですし、表現者としてすごいと思います。
彼女は戦前2回ほど満州に行って、現地で悲惨な状況をみていますし、東京大空襲では被災者になっています。苦しい体験をしている子どもたちをたくさん見て、子どもが幸せということは大人も幸せということで、“いのち”の象徴として子どもを描くというのが、彼女が人生を通じて成し遂げたことだと思います
――ちひろの絵には、今でも数多くのファンがいますね。
私の母の世代に、ちひろの絵が好きな方が多く、見るだけで大好きみたいに言われ、正直最初は違和感がありました。でも、私自身、この年末に子どもを生んで、それから、ちひろの絵を見ると、母達が、絵を見ていたのではなく、絵の向こうに、娘である私とか、自分の子どもへの思いを見ている。そのことが、私自身の体験としてわかった時があって、ちひろの息子に向けた愛が、絵のどこかに、見えないけど凝縮して入っていて、それがきっと見る人にはね返って、一層、ちひろの絵への想いが強くなっていくのかなと今は思っています。
■映画づくりについて
――今、いわさきちひろの映画をつくる意味は?
単にちひろさんの生前の映画をつくるのではなく、迷ったり悩んだりしている人達に、どうしたらちゃんと希望を伝えることができるのか、今映画をつくる意味についてはかなり考えました。彼女の生き方の強さは、今いろんなことに悩んでいる若い女性達にとって、とても意味があり、それをメッセージとして伝えたい。当時の27歳は、今の30歳代後半位だと思いますが、そんな遅くからでも自分の夢を貫き実現することができる、いつ始めても遅くない、歩き続けていれば、いわさきちひろのようになれる、そういう瞬間もあるのではないか、という希望みたいなものを提示できたらと思って編集しました。
3.11の東北大震災のことも意識しました。ちひろのように絶対的に不幸な三重苦の状態、何もかもなくしたからこそ、これをやりたいということを見つけることができた人もいます。3.11は絶対的に不幸なことですが、そこから立ち上がっていける生き方を提示したいと思いました。
――映画づくりの中でどんなところに苦労されましたか?
ご本人は約40年前に亡くなっていますし、証言だけで一人の人間像を立体化していくことは難しいですが、やりがいがありました。50人の人から見た50個の真実と出会い、その中からどこが一番ちひろらしいのか、円が一番重なるところを見つけることが私の仕事だと思いました。編集の過程では、随分悩んで、議論も果てしなくやって、結局1年位かかりました。ご本人の動く映像がなかったので、ちひろの書いた日記やメモの中の言葉を壇れいさんに読んでもらいました。ちひろの書き残した言葉の解釈、どういう気持ちでその言葉を書いたのか、また、一万枚近く残っている絵の中から、どの絵をどこに差し込むのかという構成について、ちひろの気持ちをどの絵で表現すべきかについても、山田監督やいろんな人と議論を重ねました。
――ちひろが27歳の時に描いた自画像は珍しい絵だと思いますが、今回の映画化で、新しい絵の発見はあったのでしょうか?
昔の自分の作品をかなりきちんととっておく方だったので、無名時代のスケッチも捨てないでとってありました、東京のちひろ美術館や、長野の安曇野ちひろ美術館できちんと整理され、あまり人目に触れられていないものもありますが、全部美術館にあったものです。でもこうやって一つの作品にまとめてみせるのはほぼ初めてで、この27歳の自画像を描いた人と、童話の絵を描いた人が同じ人だというのは少し意外な感じもします。アーティストというのは、いろんな紆余曲折を経て自分の作風にたどりつく、その過程を映画の中で一緒に体験してもらえたらと思います。下宿で描きなぐった大量のスケッチをワンカット撮っていますが、どんな思いでこれだけの絵を模写していたのかと思うと、ちひろの抱えていたいろんな思いがこちらに向かってくるように感じられて、撮影しながら背筋がびりびりするようでした。
夫の善明さんからちひろに宛てたラブレターは、たまたま美術館からいただいた資料のコピーの中に紛れ込んでいて、今まで整理したものにはなかったそうです。人に対する思いとか、どうやって社会と向き合っていくのか、本当に運命の人という感じの出会いだったようです。結婚式もつつましやかで、二人の結びつきが強いのも、一回目の結婚で失敗されているからこそ、二回目は本当に好きな人と結婚したいという願いが凝縮されていたと思います。
■観客に向けて
――映画だからこそと意識された点は?
私はもともとテレビ出身です。テレビはたくさんの方に一度に観てもらえる長所がある反面、お客さんの反応が全くわからず、作り手としてはすごく孤独でした。半年かけてつくった作品が45分の放送であっという間に終わってしまい、何も残りません。会社を辞めて私が選んだのは、暗闇で時間を共有できる映画という表現方法です。今回作風は若干テレビっぽいところもありますが、暗闇の中で90分間、観客の方と一緒にちひろの旅に出たいと思ってつくりました。自分が27歳の時どうだったかなということは、テレビだとあまり思いませんが、暗闇の中で観ると、自分の人生と比べたりすることも多く、それがドキュメンタリー映画のいいところだと思います。
――観客の方へのメッセージをお願いします。
ちひろの絵が好きな方からは、大画面でちひろの絵の世界を堪能でき、絵の世界に包み込まれる喜びがあり、音と絵を体感できて嬉しかったという感想をいただきました。私を含めて、ちひろの絵が少し苦手とか、あまり縁のない人には、今回、一人の女性としての生き方に焦点を当てたつくりになっていますので、彼女がどんなふうに悩み、どんなふうに立ち上がり、生き抜いたかはきちんと描けたと思いますので、ぜひ観ていただきたいと思います。
海南監督と同じく私もちひろの人生については全く知らなかった。本作を観て驚き、幾つもの苦しみをバネにして、大きく飛翔したともいえる人生に圧倒された。絵を描くことをこよなく愛し、1本の線に想いを込めて描き続けたちひろ。「甘い絵」と批判されても自分のスタイルを貫きとおす強さ、絵本画家として成功をおさめた後も、著作権運動に果敢に取り組んでいく志の高さ。優しく、弱く、純粋な子どもたちへの視点を終生忘れることはなかった。そんな、自分に誠実に生き抜いたちひろの生き様に大いに感銘を受けた。ぜひ、本作を観て、多くの人にこのことを共感してほしい。そして自分自身について、自分の人生についてちょっと振り返ってみてほしい。きっと、ちひろの強さ、潔さは、私たち誰もの心の中にもあるはずのものだと思うから…。(伊藤 久美子)