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窪塚洋介、マーティン・スコセッシ監督最新作は「懐の深い作品」。『沈黙 −サイレンス−』スペシャルトークin関学

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窪塚洋介、マーティン・スコセッシ監督最新作は「懐の深い作品」。
『沈黙 −サイレンス−』スペシャルトークイベントin関西学院大学
登壇者:窪塚洋介(『沈黙 −サイレンス−』キチジロー役)
    関西学院大学細川正義教授(遠藤周作研究者)
    ノートルダム清心女子大学山根道公教授(遠藤周作学会会員)
 
巨匠マーティン・スコセッシ監督が遠藤周作の代表作であり、世界中で読み継がれている『沈黙』を完全映画化、2017年1月21日(土)から全国公開される。激しいキリシタン弾圧下にあった江戸時代初期の長崎を舞台に、信じるとは何か、何を信じるのかを問う深淵で尊い物語を、ハリウッドや日本からキャスト、スタッフが結集して作り上げた渾身作だ。
 
全国公開を前に、12月16日、遠藤周作が若い頃に過ごしたゆかりの地、仁川にある関西学院大学にて『沈黙 −サイレンス−』スペシャルトークイベントが開催され、隠れキリシタンのキチジローを演じた窪塚洋介と、遠藤周作研究者の関西学院大学細川正義教授、遠藤周作学会会員のノートルダム清心女子大学山根道公教授が登壇した。『沈黙 −サイレンス−』の撮影秘話や、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙』と向き合う姿勢および解釈について、熱いトークが交わされた模様をご紹介したい。
 

 

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―――マーティン・スコセッシ監督の『沈黙 −サイレンス−』を実際に試写でご覧になった感想は?
窪塚:懐の深い作品。自ら答えに到達するための事実を積み重ねています。スコセッシ監督はとても日本に敬意を示してくださり、ワンカットごとに、日本人キャストに顔が見えるところまで来て「良かった」と言ってくれました。京都・太秦の職人たちも撮影現場に呼ばれ、カツラをつけたりしていましたが、職人の皆さんにまで敬意を払っていました。時代考証から長崎弁がきちんとしゃべれているかまで、すごく繊細にチェックを入れてくれたので、うれしかったしやる気も出たのです。かなり寒くて震えながら撮影していましたが、それも喜びの一つ。参加できたことがうれしかった。おととい試写で作品を観たときに思わず手を合わせて「ありがたい」と思いました。
 
―――映画で一番伝えたいことは?
窪塚:「答えを自分の中で見つける」ということ。一人一人の中に答えがいくらでもある。それでいいと背中を押してくれる作品。だから神は沈黙していると思っているし、そこに意味があります。スコセッシ監督は、目線が本当にフラットで、キリスト教賛美でもなく、仏教賛美でもなく、僕らにゆだねてくれる。僕は、そこがこの作品の一番の醍醐味だと思っています。
 
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―――窪塚さん演じるキチジローは、非常に精神的な揺れのある役ですが、演じる上でどう解釈したのですか?
窪塚:醜く、弱く、ずるい、負のデパートみたいな書かれ方をしていますが、例えば踏み絵を踏むという行為一つとっても、踏んでしまう弱さという言い方と、踏むことのできる強さという言い方があります。絶対にだれも踏めないときに踏むのは、実際弱いことなのか、強いことなのか、もはや分からないのではないでしょうか。原作では独白がないキャラクターで、誰かを目線を通してのキチジローなので、余白がすごく多い人物でした。これだけ重厚で、史実に忠実な中、余白に何が埋まれば俺はキチジローを生きられるのか。そう考えたとき、イノセントさがキーワードになりました。イノセントだから弱く、強く、裏切ってしまう。子どもの頃のまま成長してしまったという役の捉え方をしました。スコセッシ監督が「28年間描きたいと思っていた作品の、一番大事なキチジローが本当のキチジローとしてここにいる」と言ってくれたのは本当にうれしかったです。
 

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―――キチジローを演じる上で、心がけたことは?
窪塚:現場の空気感やカメラの前でキチジローを追体験する感じで演じました。昔から役を演じるときに使ってきた言葉ですが、「キチジローを生きられた」と思います。試写を観たときに、スコセッシ監督に出演シーンをカットされてもいいと思える映画になっていました。監督がそう思うからいらないのだと。スコセッシ監督がカットするのなら納得できます。
 
―――学生と『沈黙』を読むときに、キチジローは皆イヤだと言いますが、最後には共感に転じる学生が多いキャラクターです。遠藤周作もエッセイで「キチジローは私」と書いていますが、映画ではロドリゴとキチジローの関係をどこまで描いているのですか?
窪塚:撮影はしんどかったですが、「しんどいのも喜びのうち」という気持ちになれるのは、キチジローが添い遂げるところまで描かれているからです。彼は“踏み絵マスター”というぐらい踏み絵を踏みながら、結局、晩年まで懺悔を願い出て疎ましがられます。宗教は親や牧師、お坊さんに教えてもらい魂を磨くもの、信仰はもっと自然なもので太陽を見て手を思わずあわせたりするようなものだとすれば、どちらをキチジローが選択していたのか。ひょっとすればブレブレだったかもしれませんが、それすらキチジローの中に収まってしまうのです。
 
―――ロドリゴが自分はキチジローのようなものだという心境に至りますが、キチジロー役のアンドリュー・ガーフィールドとはどんな話をしたのですか?
窪塚:アンドリューはメソッド俳優で、寝ても起きてもロドリゴでいるというやり方。みんなが苦しむ現場で、特にアメリカ人チームは一日スープ一杯やサラダ一杯でどんどん痩せなければならなかった。だから後半は挨拶もできないぐらいの雰囲気で、現場でも座長としてあるまじき行為や行動が増え、不快感を与えていた時もありました。でも試写を観て、それらを許せるぐらいの役への臨み方だと思い知らされました。
 

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―――撮影地の台湾で、見事に江戸時代が再現されていたのが印象的でした。
窪塚:最初は台湾で村を見つけてきたのかと思いましたが、京都の美術職人が体を張り、山の上に村ごと作っていたのです。ドアの開き方向や、鶏の種類が違うことですら怒っていましたから。僕らにとって、そのままでいいんだと思わせてくれるセット他の美術に、とても力をもらいました。
 
最後に「日本の役者たちが素晴らしいです。力強さがあり、堂々たる仕事ぶりに試写を見て泣きました。かっこよかった。映画も素晴らしい作品になっています。正直やめてもいいかなと思ったぐらい手応えがあり、新しい場所にたどり着けました。みなさん劇場で体感してください」と熱のこもった挨拶で締めくくった窪塚さん。構想28年のスコセッシ監督が「キチジローそのもの」と認めた熱演は、遠藤周作が込めた思いを一番切に伝えてくれるのかもしれない。
 

 
 
トークショー前半は、遠藤周作研究者の関西学院大学細川正義教授と、生前に遠藤周作と親交のあったノートルダム清心女子大学の山根道公教授による対談が行われた。一度目の映像化となった篠田正浩監督版『沈黙 SILENCE』の話題も交えて、遠藤周作が『沈黙』に込めた真意を考察した内容を、抜粋してご紹介したい。

■遠藤周作が最晩年に「誤解されている」と嘆いていた『沈黙』の解釈。篠田正浩監督版『沈黙 SILENCE』の場合は?

 
山根:遠藤さんは最晩年になっても「『沈黙』が理解されていない。誤解されている」とおっしゃっていました。そのこともあり、作家が込めた思いを読みとって伝えていくことが自分の使命と思っています。『沈黙』出版50年、遠藤先生没後20年の今、映画を巡りながら、遠藤周作が作品に込めた思いを読み説いていきたいと思います。
 
細川:スコセッシ監督が28年間強い気持ちで映画づくりに情熱をもって取り組んだ作品がようやく封切られます。篠田監督の『沈黙 SILENCE』も感動しましたが、映画の作り方、作品の読まれ方が変わってきているので、楽しみです。
 
山根:遠藤さんは、ご自分の作品がすぐに映画になるのを楽しみにしていました。『沈黙 SILENCE』はシナリオの段階から関わっていたようですが、後半は相当原作と変わっていき、ラストシーンはロドリゴに日本の妻を与えられ、妻を抱くところで終わっていきます。遠藤さんは「自分が『沈黙』に込めたもの、ロドリゴの最後は自分の思いとは違うからそれだけはやめてくれ」と言ったそうです。結局「篠田監督は芸術家として尊敬しているので、娘を嫁にやった限りは向こうの家風に沿ってやるのは仕方がないこと」と、エッセイでも書いている通り、遠藤さんが『沈黙』に込めたものを伝える映画ではなく、篠田監督が原作を読んで、自分のテーマで伝えた作品が『沈黙 SILENCE』でした。
 

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■遠藤周作が『沈黙』で伝えようとしたこと、スコセッシ監督に響いたこととは?

 
山根:スコセッシ監督自身がシチリア出身のイタリア系アメリカ人で、カトリックに熱心な家に育ち、神学校に入って神父になろうとしていました。遠藤さんも神父になろうとしたことがあるとエッセイで書いており、信仰を自分の問題として目指した時期がありながら、色々な疑問が生じて芸術の世界に入り、そしてそのテーマを持ち続けています。遠藤さんにとっての『沈黙』とは、疑問に思っていたことをすべて込めたもの。そこがスコセッシ監督にも響いたのではないでしょうか。
 
細川:ロドリゴは踏み絵を踏み、制度上では信仰を捨てますが、そのことにより本当の意味で信仰を知ることになります。最後に回想する中で、踏み絵を踏んだときの激しい喜びの感情が沸き起こるのです。神を疑うところまでいったロドリゴが、本当の意味で神と向かい合うことができた。遠藤さんが『沈黙』で書きたかったポイントはここだと思います。
 
山根:ロドリゴがずっと神を問い続け、実感したいと思いながら実感できる神に出会えなかった。「問い続ける中で神に出会えた喜びがそこに込められている」とスコセッシ監督は『沈黙』英語版の序文で書いています。さらに抜粋すると、「信じることと疑うことは同時。素朴なところに信仰、疑いから孤独へ、そのあと真につながることがはじまっていく。その過程を細やかに書いている。この本は私のいきる糧を見いださせてくれる数少ない芸術品なのだ」と。自分の人生の問いに答えてくれる。つまりそれは、本当に遠藤さんが込めた思いを、スコセッシ監督が受け止めてくれているということになるのではないでしょうか。

 

■神は沈黙ではなく、日向の匂いに感じるもの。

 
山根:「神の沈黙」ではなく、自分の人生を通じて神が語っているのだと思います。「日向の匂い」、私たちがどこかで人生を振り返るとき、目の前に神を感じるのではなく、自分の人生の中に、導いてくれた神を感じるのです。人生は挫折しても、挫折した中ではじめて日向の中にある神の気配を実感できます。遠藤さんは、自身が病気になりながらも、その中で神の眼差しを感じた体験を込めているのです。ロドリゴの恩師であるフェレイラも自分の人生を振り返る中で、日向のぬくもりレベルではあるが、神を感じていたと思います。
(江口由美)

 【ストーリー】
17世紀、江戸初期。幕府による厳しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕えられ棄教したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルべは日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと侵入する。想像を絶する光景に驚愕しながらも、弾圧を逃れた隠れキリシタンと呼ばれる日本人に出会った二人は、隠れて布教を進めるが、キチジローの裏切りでロドリゴは囚われ、長崎奉行井上筑後守に棄教を迫られる。犠牲となる人々のため信仰を捨てるか、大いなる信念を守るか。拷問に耐えながらも、自分の弱さに気付かされ、追い詰められたロドリゴの決断は…。
 
 『沈黙 −サイレンス−』
監督:マーティン・スコセッシ
原作:遠藤周作『沈黙』新潮文庫
出演:アンドリュー・ガーフィールド リーアム・ニーソン アダム・ドライバー
窪塚洋介 浅野忠信 イッセー尾形 塚本晋也 
公式サイト⇒ http://chinmoku.jp/
2017年1月21日(土)~TOHOシネマズ梅田他全国ロードショー
 
 

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