「京都」と一致するもの

chihiro-s1.jpg(2012年 1時間36分 日本)

監督・編集:海南友子
エグゼクティブプロデューサー:山田洋次
声の出演:檀れい、田中哲司
出演者:黒柳徹子、高畑勲、中原ひとみ、松本善明
7/14〜テアトル梅田、シネ・リーブル神戸、9月下旬〜京都シネマ
公式サイトはコチラ

~優しくみずみずしい絵に秘められた作家の人生に迫る~

 いわさきちひろの絵はカレンダーなどで、日本人なら一度は目にしたことがあるにちがいない。淡く柔らかで優しい絵の作家としてその名は広く知られている。しかし、ちひろの苦労続きの波乱に富んだ人生について知る人は少ない。本作は、初めてちひろの人生にスポットをあてたドキュメンタリー映画。監督の海南友子さんは、ちひろについては、子どもの頃触れたきりで、ほとんど縁がなかったが、本作がきっかけで、ちひろの生きる強さを知り、絵の印象が180度変わったと語る。大阪では、テアトル梅田で公開が始まったが、平日休日を問わず、日中は客席がかなり埋まるそうだ。没後40年近くたった今も根強い人気を誇る絵本画家いわさきちひろの魅力とその人生について、公開を前に行われた海南監督への共同取材の模様をつうじて、ご紹介したい。


chihiro-1.jpg■映画化について

――本作を監督されるきっかけは?

4年ほど前に山田洋次監督から、人間いわさきちひろのドキュメンタリーをつくらないかと声をかけられ、生前のちひろさんを知っている人に話を聞こうと、50人に足掛け3年かけてインタビューを重ねました。「鉄の心棒を真綿でくるんだような人」という言葉を度々うかがいました。確かに絵は可愛らしいですが、波乱万丈の人生の中で、決して諦めない、固い意思を持ち、自分らしさを求め、極めようとした人だと感じました。

――ちひろが20歳で親の決めた相手と結婚して満州に渡り、2年弱で夫が自殺、帰国したという話は衝撃的でした。戦時中、ちひろの母親が旧満州に若い女性達を“大陸の花嫁”として送り込むなど、両親ともに戦争に協力的だったことは、広く知られているのですか?

大半の人はちひろの絵しか知らないと思います。私も知りませんでした。最初の結婚の話はショックで、結婚したのに身体も心も開かないというのはどういうことかと思いました。いろいろ発見していく喜びがあり、証言を得てまた発見があって、という繰返しで作品づくりを進めていきました。最初の不幸な結婚をはじめ、苦しい思いをし、見てきたからこそ、あんな優しい絵が描けたのではないか、そこが知りたいと思いました。

■ちひろの人生の転機

――映画のタイトルの「27歳の旅立ち」というのは?

彼女の人生で一番大きいのは、27歳の時の転機だと思います。前年に敗戦で家も焼かれ、職もなく、(戦争に協力していたため)親の立場もなくなり、さらにバツイチ――今のバツイチと違って当事はちょっとタブーというか、結婚して戻ってきた娘――という三重苦の状態でした。その中で初めて、彼女は自分が本当に絵を描きたいということに気がつくんですよね。それまでは、絵を仕事にまでしようとは思っていなくて、もし敗戦がなかったら、ただの絵の上手い近所のおばさんで終わっていたかもしれません。でも、そうじゃなくて、絵の道で生きていきたいということを、人生のどん底で決意するんです。今こうして有名になっているからこそ、そこがスタートといえますが、ここで立ち上がっても、なんの成果も得られない可能性だってあったわけで、立ち上がる勇気というのが、彼女の人生の最大の転機だったと思います。

――ちひろの人生のどこにスポットを当てようと考えましたか?

彼女の3つの強さ、まず人間としての強さ、戦争にどう向き合うのか、二つめは働く女性としての強さ、母としての強さ、三つめはアーティストとしての強さを大事に描きたいと思いました。ちひろをアーティストというと違和感があるかもしれませんが、彼女は自分の絵にプライドを持っていたので、著作権運動も一生懸命やっていました。当時、絵本作家にはまだ著作権がなく、出版社が勝手に絵を切ったりしていた中で、彼女は、自分の絵をぞんざいに扱わないでほしいと、原画の返還や作家の権利を働きかけていくんです。そのことで、大手出版社からの仕事を失ったりもしているのですが、私は私でこうなんですという自分のアートに対する絶対的自信が彼女の強さに結びついていたと思います。

――彼女の強さはどんなところから生まれたと思いますか?

ご自分の好きなものをとても大事にされていました。たとえば敗戦後、物がなくて、おしゃれとかできない時に、彼女は可愛らしいものをすごく大事にしていて、どこかからひもを拾ってきてリボンをつくって、髪の毛やブラウスにつけたりしていました。当時、そんな人はおらず、すごく異様だったそうですが、自分がいいと思うものは、まわりからどんなに批判を受けても、絶対やりたい。それが著作権運動ともつながっていて、リボンと著作権は多分彼女にとっては同じことで、自分が大事にしているものを汚されたくない、そこが彼女の強さだったのではないかと取材を終えて思いました。

――弁護士を目指す夫を支え、生活費を稼ぐため、生後1か月半の息子を長野の実家に預け、東京で絵筆一本で仕事に励み、お金が入ると喜び勇んで子どもに会いに行くというエピソードが印象的でした。

ちひろは、自分の子どもが一番可愛い時期に離れ離れになってしまいました。すごく悲しいことですが、会えないからこそ、子どものことを考え、子どもの絵をいっぱい描く。子どもに会いたいという思いや愛を、ちひろは絵にぶつけるしかありませんでした。それがアーティストとしての彼女の深みにつながったとも思うので、不幸なエピソードが彼女の作風を高めていくことにつながったと感じます。27歳が1回目の転機だとしたら、息子との別れというのが2回目の大きな転機だったと思います。そこがなかったら、ちひろの絵はもっと違っていたかもしれません。

chihiro-s2.jpg■ちひろの描く子ども

――ちひろの絵に、満面の笑顔の子どもというのは、あまりいませんね。

ちひろは、子どもの気持ち、心をどうやって描くのかということに随分思いを砕いていました。いわゆる“可愛い子ども”というイメージではなく、その子が今どんな気持ちなのかというところまで、絵の中から伝わってくるようにするためには、どうしたらいいのか、工夫を重ねて最後までやり続けた人です。たとえば、『あめのひのおるすばん』という絵本に、お母さんを待って留守番をしている子どもの絵があります。雨が降っていて、色が重なって輪郭がなく、にじんだような絵です。お母さんが帰ってこないと本当に不安で、「ママどこ行っちゃったんだろう」という経験は誰もがお持ちだと思います。それを色の重ね方、ぼかし方で表現しています。どういう絵画の技法を使うかは無意識だったと思うのですが、どうしたら雨の日にお留守番をしている子どもの気持ちが表現できるのか、すごく考えて、そこにたどりついたのです。 

――表現としても斬新で、あまり言葉を尽くさずに、絵から感情がわきあがるということに感銘しました。 

「余白の美」と彼女はよく言っていますが、白く余っているところがあることで、世界が完成する。普通なら黒く塗らないと髪の毛に見えないのに、ちひろの絵では、髪の毛とかも白い子が多いです。白いところ、何もないところに、少女の思い詰めている気持ちが読み取れたりして、色使いや描きぶりは独自なものだと思います。

――ちひろの作品のうち、どれが一番好きですか?

本当にいろいろあるのですが、今は、ベトナム反戦を訴えた絵本『戦火のなかの子どもたち』の、まさしく今、焔に巻き込まれて死んでいく母と、母の腕に抱かれている子どもの絵です。戦争を表現する時に悲惨な場面を描くという方法もありますが、彼女は違います。これから壊される平和な世界を描き、それが壊されるということをどう思いますかと語りかけてくるのです。同じものづくりをする人間として、その方法はリスペクトしたいですし、表現者としてすごいと思います。

彼女は戦前2回ほど満州に行って、現地で悲惨な状況をみていますし、東京大空襲では被災者になっています。苦しい体験をしている子どもたちをたくさん見て、子どもが幸せということは大人も幸せということで、“いのち”の象徴として子どもを描くというのが、彼女が人生を通じて成し遂げたことだと思います

――ちひろの絵には、今でも数多くのファンがいますね。

私の母の世代に、ちひろの絵が好きな方が多く、見るだけで大好きみたいに言われ、正直最初は違和感がありました。でも、私自身、この年末に子どもを生んで、それから、ちひろの絵を見ると、母達が、絵を見ていたのではなく、絵の向こうに、娘である私とか、自分の子どもへの思いを見ている。そのことが、私自身の体験としてわかった時があって、ちひろの息子に向けた愛が、絵のどこかに、見えないけど凝縮して入っていて、それがきっと見る人にはね返って、一層、ちひろの絵への想いが強くなっていくのかなと今は思っています。

chihiro-s3.jpg■映画づくりについて

――今、いわさきちひろの映画をつくる意味は?

単にちひろさんの生前の映画をつくるのではなく、迷ったり悩んだりしている人達に、どうしたらちゃんと希望を伝えることができるのか、今映画をつくる意味についてはかなり考えました。彼女の生き方の強さは、今いろんなことに悩んでいる若い女性達にとって、とても意味があり、それをメッセージとして伝えたい。当時の27歳は、今の30歳代後半位だと思いますが、そんな遅くからでも自分の夢を貫き実現することができる、いつ始めても遅くない、歩き続けていれば、いわさきちひろのようになれる、そういう瞬間もあるのではないか、という希望みたいなものを提示できたらと思って編集しました。

3.11の東北大震災のことも意識しました。ちひろのように絶対的に不幸な三重苦の状態、何もかもなくしたからこそ、これをやりたいということを見つけることができた人もいます。3.11は絶対的に不幸なことですが、そこから立ち上がっていける生き方を提示したいと思いました。

――映画づくりの中でどんなところに苦労されましたか?

ご本人は約40年前に亡くなっていますし、証言だけで一人の人間像を立体化していくことは難しいですが、やりがいがありました。50人の人から見た50個の真実と出会い、その中からどこが一番ちひろらしいのか、円が一番重なるところを見つけることが私の仕事だと思いました。編集の過程では、随分悩んで、議論も果てしなくやって、結局1年位かかりました。ご本人の動く映像がなかったので、ちひろの書いた日記やメモの中の言葉を壇れいさんに読んでもらいました。ちひろの書き残した言葉の解釈、どういう気持ちでその言葉を書いたのか、また、一万枚近く残っている絵の中から、どの絵をどこに差し込むのかという構成について、ちひろの気持ちをどの絵で表現すべきかについても、山田監督やいろんな人と議論を重ねました。

――ちひろが27歳の時に描いた自画像は珍しい絵だと思いますが、今回の映画化で、新しい絵の発見はあったのでしょうか?

昔の自分の作品をかなりきちんととっておく方だったので、無名時代のスケッチも捨てないでとってありました、東京のちひろ美術館や、長野の安曇野ちひろ美術館できちんと整理され、あまり人目に触れられていないものもありますが、全部美術館にあったものです。でもこうやって一つの作品にまとめてみせるのはほぼ初めてで、この27歳の自画像を描いた人と、童話の絵を描いた人が同じ人だというのは少し意外な感じもします。アーティストというのは、いろんな紆余曲折を経て自分の作風にたどりつく、その過程を映画の中で一緒に体験してもらえたらと思います。下宿で描きなぐった大量のスケッチをワンカット撮っていますが、どんな思いでこれだけの絵を模写していたのかと思うと、ちひろの抱えていたいろんな思いがこちらに向かってくるように感じられて、撮影しながら背筋がびりびりするようでした。

夫の善明さんからちひろに宛てたラブレターは、たまたま美術館からいただいた資料のコピーの中に紛れ込んでいて、今まで整理したものにはなかったそうです。人に対する思いとか、どうやって社会と向き合っていくのか、本当に運命の人という感じの出会いだったようです。結婚式もつつましやかで、二人の結びつきが強いのも、一回目の結婚で失敗されているからこそ、二回目は本当に好きな人と結婚したいという願いが凝縮されていたと思います。

■観客に向けて

――映画だからこそと意識された点は?

私はもともとテレビ出身です。テレビはたくさんの方に一度に観てもらえる長所がある反面、お客さんの反応が全くわからず、作り手としてはすごく孤独でした。半年かけてつくった作品が45分の放送であっという間に終わってしまい、何も残りません。会社を辞めて私が選んだのは、暗闇で時間を共有できる映画という表現方法です。今回作風は若干テレビっぽいところもありますが、暗闇の中で90分間、観客の方と一緒にちひろの旅に出たいと思ってつくりました。自分が27歳の時どうだったかなということは、テレビだとあまり思いませんが、暗闇の中で観ると、自分の人生と比べたりすることも多く、それがドキュメンタリー映画のいいところだと思います。

――観客の方へのメッセージをお願いします。

ちひろの絵が好きな方からは、大画面でちひろの絵の世界を堪能でき、絵の世界に包み込まれる喜びがあり、音と絵を体感できて嬉しかったという感想をいただきました。私を含めて、ちひろの絵が少し苦手とか、あまり縁のない人には、今回、一人の女性としての生き方に焦点を当てたつくりになっていますので、彼女がどんなふうに悩み、どんなふうに立ち上がり、生き抜いたかはきちんと描けたと思いますので、ぜひ観ていただきたいと思います。


海南監督と同じく私もちひろの人生については全く知らなかった。本作を観て驚き、幾つもの苦しみをバネにして、大きく飛翔したともいえる人生に圧倒された。絵を描くことをこよなく愛し、1本の線に想いを込めて描き続けたちひろ。「甘い絵」と批判されても自分のスタイルを貫きとおす強さ、絵本画家として成功をおさめた後も、著作権運動に果敢に取り組んでいく志の高さ。優しく、弱く、純粋な子どもたちへの視点を終生忘れることはなかった。そんな、自分に誠実に生き抜いたちひろの生き様に大いに感銘を受けた。ぜひ、本作を観て、多くの人にこのことを共感してほしい。そして自分自身について、自分の人生についてちょっと振り返ってみてほしい。きっと、ちひろの強さ、潔さは、私たち誰もの心の中にもあるはずのものだと思うから…。(伊藤 久美子)

 

 6時間半にわたってイタリアのある家族の<今>を紡ぎ出す感動作『ジョルダーニ家の人々』が、7月28日より梅田ガーデンシネマにて公開するのを記念して、美味しいコラボレーション企画が行われる。

ミモザのタルト.jpgローマ出身のオーナーシェフが、心のこもった家庭料理を提供する『CASARECCIO』(カサレッチョ)では
映画『ジョルダーニ家の人々』にちなんだコラボレーション・ドルチェが登場! 「レモンクリームをサンドしたミモザのタルト(写真上)」、「リコッタチーズを包んだクッキーカンノーリ(写真下)が楽しめる。

◆半券または、前売り券をご持参のお客様には、
イタリアのカクテルミモザ(オレンジジュースとスパークリングワインを割ったドリンク)をサービス

カンノーリ・クッキー.jpg更に!◆ローマのレストラン【KEENS】のワンドリンクサービス券プレゼント!
是非、劇中に登場する美しいローマの街を訪れ、【KEENS】へ行ってみてはいかが?
KEENS http://www.ristorantekeens.it/ 住所:via zamparini 35-40   ※1年間有効(2013年8月まで)


 
◆実施期間:7月15日(日)~8月15日(水)
CASARECCIO カサレッチョ
住所:兵庫県尼崎市南武庫之荘1-22-23 (阪急電鉄 武庫之荘駅より徒歩3分)
電話:06-6432-3232 営業時間:11:30-14:00 18:00-22:00 毎週火曜日定休 http://casareccio.jp/


joldern.jpg『ジョルダーニ家の人々』

イタリア、ローマに暮らすジョルダーニ家の人々の葛藤、愛、別れと出逢いー。
揺れ動く時代を生きる人々の運命を6時間39分にわたって描いた感動のドラマ、一挙公開!
傑作『輝ける青春』の脚本家サンドロ・ペトラリアとステファノ・ルッリが、混迷を深める現代、イタリアに暮らすある家族の運命をとおし、それぞれの葛藤、愛と諍い、別れと出逢いを長時間かけて丹念に紡ぎ出す。観る者はこの希有な時間を体験することによって、今日においても家族という人間のつながりの在り方が、姿を変えながらも普遍であることを確かめるだろう。一本の川がいつか大河の流れとなるように、それぞれの運命と人生は、ふたたび織りあわされて、血のつながりや民族を越え、より大きな家族を成してゆく。

2010年/イタリア・フランス合作/上映時間399分/
配給・提供:チャイルド・フィルム、ツイン 後援:イタリア領事館 特別協力:イタリア文化会館
7月28日(土)~ 梅田ガーデンシネマにて2週間限定!8月4日(土)~ 京都シネマ にて1週間限定!

公式サイトはコチラ

 『ジョルダーニ家の人々』作品レビューはコチラ

映画ニューストップへ

HS-s2.jpg(12.7.6大阪ステーションシティシネマ)
ゲスト:蜷川実花監督、大森南朗

2012年 日本 2時間7分 R15+
監督:蜷川実花
原作:岡崎京子著『へルタースケルター』祥伝社
出演:沢尻エリカ、寺島しのぶ、大森南朗、桃井かおり、綾野剛、水原希子、窪塚洋介
2012年7月14日(土)~大阪ステーションシティシネマ、神戸国際松竹、MOVIX京都他全国ロードショー

公式サイト⇒ http://hs-movie.com/index.html

作品レビューはコチラ

岡崎京子の人気アニメが原作の、芸能界を舞台にした愛と欲望の世界を描き出す沢尻エリカ5年ぶりの主演映画『ヘルタースケルター』。14日(土)の公開を前に「関西起爆プレミア試写会」と題して開催されるこの日の試写会には160組の応募に対し、なんと2万通の応募があったという。この話題作を早く観たいという熱気に溢れた劇場に、スペシャルゲストとして蜷川実花監督、沢尻エリカ演じるりりこと対峙する検事、麻田役の大森南朗が登壇。本作への想いや、主演沢尻エリカの撮影秘話について語った。


HS-s3.jpg━━━どうしてこの作品を撮ろうと思ったのですか。

監督:岡崎知子さんはもともと大好きなのですが、読み終わった後にずっと自分の中に何かが残るような衝撃で、この映画もそのようなドキドキが残せればいいなと思いました。美に執着する女性の話なので、りりこは随分と極端な人ではあるけれど、みなさんの中にも女性だったら小さなりりこがいるのではと思って撮っていました。

━━━りりこと対峙する麻田という役をオファーされたときの率直なお気持ちは?

大森:なかなかの二枚目キャラにも見えるので俺でいいのか、錦ちゃんのほうがいいんじゃないかと自分では思ったのですが、監督たっての希望だったので。

監督:撮影もご一緒してよく知った仲なので、最初のオファーは「今度ご飯いこう。あと、映画出て。」という感じで。返事も「メシ、行く行く。映画、出る出る。」みたいな。どうしてもこの役をやってほしいと思ったんです。南朗さんが演じたこの役は、すごく好みの男性で、さらに夜中に自分でせりふを書いたものですから、自分がこう言ってほしいというせりふが満載です。

HS-s4.jpg━━━監督から演じるにあたってのリクエストはありましたか?

大森:現場で話し合いはして、そのキャラクターを探していくという作業はしましたね。

監督:本当に難しい役で、せりふも口語体じゃないので、南朗さんがやってくれたことによって、人間味や説得力がでましたね。

━━━りりこ役の沢尻エリカさんも蜷川監督からのオファーですか?

監督:本当にりりこのストーリーなので、これを誰にやってもらおうかと何度もいろんな角度から考えても沢尻エリカしかいませんでした。見ていただいて感じていただけると思いますが、今この場に立っても本当に彼女にしかこの役はできなかったなと日々思っています。

━━━大森さんは沢尻エリカさんと共演していかがでしたか?

大森:すごく感受性の豊かな20代の女優さんだなと。マスコミに取り上げられていますが、意外と会うと普通に「地元近いね。」という話をしたりしましたね。

監督:多分緊張するんでしょうね。あとすごく不器用なので、お芝居をしているときはすごいなと思いますし、普通の女の子のときはそうなんだなと、私も思いました。 

hs-2.jpg━━━蜷川監督から沢尻さんに演じる上でのリクエストはしたのでしょうか?

 

監督:南朗さんにはほとんどしていませんが、エリカはものすごく細かくやっていました。最後の方は大体前日に電話をして、翌日のシーンのかなり細かい打ち合わせをしてから、お互い納得した上で現場に立っていたので、現場ではあまり言ってないように見えたかもしれませんね。

━━━寺島しのぶさんや桃井かおりさんなど、存在感のある女優さんとの共演でしたね。

監督:女の人が濃いので、男性は心安らぐキャストにしました(笑)。

hs-3.jpg━━━あと1週間で公開ですが、蜷川監督の今のお気持ちはいかがですか?

監督:本当に7年間ぐらいやりたくて、やりたくて、待っていた作品で、やっとここまできたかとドキドキしています。うれしいですけれどね。

大森:満を持して本当にヒットしてほしいです。お客さんにいっぱい入っていただいて、見て、いろんなことを感じていただければと思います。

監督:もしよかったら、ガンガンお友達に薦めてください。ブログとかTwitterとかに書いてくだされば、リツイートしますので!

━━━最後のメッセージをお願いいたします。

大森:すげえ力のある映画なので、みんながんばって見てください。きっといいものをもって帰れると思います。今日はありがとうございました。

監督:この作品は自分にとって本当に運命的な作品で、これ以前とこれ以降とはっきり自分の中で区切りがつくものになっています。私もエリカも他のキャストやスタッフの魂がかかった結構アツイ映画になっていますので、どうぞ楽しんでいってください。今日はありがとうございました。


HS-s1.jpg挨拶後は七夕にちなんで、蜷川監督と大森南朗が劇中に登場する蝶のモチーフに大ヒット祈願をかけて、笹の葉に飾り付ける一幕もあった。最後のフォトセッションではさらに大きな「大ヒット祈願」を手に引き締まった顔でポーズに応えてくれたお二人。蜷川監督の口から「運命的な作品」との言葉があった通り、鮮烈な映像と魅力的な主人公に強く惹きつけられ、ガツンとしたパワーを放つ作品だ。劇場公開までカウントダウン、この夏一番の話題作を是非スクリーンで目撃してほしい。

(江口 由美)

(C)2012映画『ヘルタースケルター』 製作委員会

「ホセ・ルイス・ゲリン映画祭 映画の國名作選 VI」

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『ベルタのモチーフ』(1983年 スペイン 1時間58分)
『影の列車』(1997年 スペイン 1時間22分)
『シルビアのいる街の写真』(2007年 スペイン 1時間17分)
『シルビアのいる街で』(2007年 スペイン=フランス 1時間26分)
『イニスフリー』(1990年 スペイン=フランス=アイルランド 1時間48分)
『工事中』(2001年 スペイン 2時間13分)
『ゲスト』(2010年 スペイン 2時間13分)
『メカス×ゲリン 往復書簡』(2011年 スペイン 1時間39分)

9月から第七芸術劇場にて、今秋、京都みなみ会館、神戸アートビレッジセンターにて公開予定

公式サイト⇒ http://www.eiganokuni.com/jlg/

『ベルタのモチーフ』作品レビューはコチラ

~驚きと発見に満ちた映像体験~

一昨年、日本で劇場公開された『シルビアのいる街で』のすばらしい音と映像世界で多くの映画ファンを魅了した、稀有の映像作家、スペインのホセ・ルイス・ゲリン監督。幻の処女作『ベルタのモチーフ』をはじめとした8作品が、「ホセ・ルイス・ゲリン映画祭」と題して、関西では、この秋、一挙上映されることになりました。東京では6月末から開催された同映画祭にゲストとして来日されたゲリン監督を、大阪では、7月3日に迎えて『ベルタのモチーフ』公開記念の記者会見が行われました。その内容をご紹介します。


―――昨年スペインのビクトル・エリセ監督が来日された折、映画は自分と向こう岸にいる人とを結ぶ架け橋のようなものと言われましたが、ゲリン監督はどう思われますか。

確かに私もそう思います。エリセ監督とはとても親しい仲で、スペインで最も尊敬できる監督です。私にとって日本との架け橋は小津安二郎監督の映画です。小津作品を観るまで、日本のイメージは芸者と侍しかありませんでした。若い時に小津の映画を観て、原節子が自分の姉のように、笠智衆が自分の父親のような気がしていました。ほかにも、日本の文化として、俳句や文楽にも興味を抱きましたが、最初に興味を持ったのは小津の映画です。

映画は、どの国においても、外務大臣より外交ができると思います。国のイメージがつくられるのは映画を通してです。イラクが空爆されてしまうのもイラクのイメージがなかなか世界に伝わっていないからで、イメージを持っている国は権力を持つことができると思います。

berta-1-240.jpg―――『ベルタのモチーフ』は1983年の作品ですが、モノクロで撮った意図は?

これは、私が22歳の時、今から30年位前の初監督の作品です。すべての要素をコントロールすることが大切と考え、何もない空間を探しました。フレームの中で、地平線のライン、垂直を表す木のライン、道路など、ラインというものをコントロールしたいと思ったのです。そのように統制された中でイメージがもっと饒舌に語り出すには、モノクロのほうがいいと考えました。

絵画においては色彩が一番重要だと思いますが、映画にとって重要なのは光だと思います。私の場合、ほとんどモノクロに戻ります。というのも、モノクロは最も基本的であり、私が親しんできた映画の大半はモノクロでした。

―――監督が親しんできた作品とは、具体的にどんな作品ですか?

『生れてはみたけれど』、『東京物語』、『晩春』、『雨月物語』、チャップリン、ジョン・フォード、ジャン・ルノワール、『お早よう』などなどです。

カラーの作品はとても費用がかかります。すべての要素をそろえようとすると、美術、衣装にも気を配らなければなりません。資金がないということで、どこかを妥協するぐらいなら、モノクロの方がよいと私は思っています。

Gerin-1.jpg―――小津監督の作品に、そこまで魅かれる理由は?

映画を観ていて、彼らが自分の家族だと思えたのは小津作品だけです。映画の中で、人というものを一番よく描いている監督で、奥ゆかしさ、謙虚さをもとに、シンプルに仕上げているところにあると思います。職人的に、フレームの決め方や構図などが非常に厳格に行われていて、それが日々の小さな出来事を映画という物語に変えています。 

(『晩春』で)父親がただ林檎の皮をむくところも、単純な仕草が、厳格なフレームの中で、とても大きな意味を持ち、後に何かが起きるきっかけになる秘密を秘めていることがわかります。小さな出来事を映画の中で描ききることが、今の現代映画では重要だと思います。

小津監督の作品をずっと観ていると、笠智衆も原節子も次第に年をとっていきます。その感覚が私にとっては新鮮で、家族だという感覚を教えてくれるのだと思います。北鎌倉を訪れて高齢の女性を見るたびに、私は、原節子さんかもしれないと思って見ています。すべての小津作品の中で、原節子は私の姉であり、娘であり、母です。ぜひ一度でいいから抱擁してみたいと思います。きっと驚いて逃げられると思いますが(笑)。

―――失われた時間や記憶に強い関心をお持ちなんですね?

私の映画には、すべて、過去という神秘的な時間と現在と、二つの時間が弁証法的につかわれています。それは、探しているわけではなく、偶然そうなってしまうといった方がいいかもしれません。たとえば、『工事中』(2001年)という映画の撮影中、古い建物を壊して掘っている時に、ローマ人の遺体が出てきましたが、これは偶然に現れたものです。

一作目の『ベルタのモチーフ』は、一番かっちり書いた脚本に基づいて撮影したものですが、それ以降は、何か起こったことに順応しながら撮っていく中で、過去と現在の間の関係というものを、その緊張感を新鮮に見出したいと思っています。

berta-2-240.jpg―――『ベルタのモチーフ』で、シューベルトの「さすらい」という歌をつかった意図は?

あの曲は女優アリエル・ドンバールが歌っていて、スペイン語で「歩いていく」という意味です。この曲自体、ベルタが大人になっていく成長過程を示すものであり、また、自殺する男はドイツのロマンティシズムの具現化なのですが、そのロマンティシズムを表すためと、二つの意味でシューベルトをつかいました。

―――自殺する男が持っていた三角帽子が印象的です。

ドイツのロマンティシズムの伝統と、ベルタの、戻ってくる人を待っているという間違ったロマンティックな解釈につながるものです。『イニスフリー』(1990年)でも、撮影隊が閉ざされた共同体に到着して、撮影を始めるという中で、少女と帽子というモチーフをつかっています。

―――スペインのアート系映画づくりの環境はどうですか?

スペインの映画の上映環境はよくありません。アメリカのヒット作品、大作ばかりが上映されるので、私は、アート系の映画を観るためにフランスに行きます。スペインはインディペンデント映画になかなか助成がなく、アート系の映画は製作しにくい状況にあります。今の経済危機の中で文化的要素が真っ先に切られているのが現状です。


 今、活躍中の日本人監督の名前を尋ねられて「知らない」と答えたゲリン監督は、ふと、いたずらっ子のような表情で微笑んで「ホウ・シャオシェン(侯 孝賢)」と言って、会場を笑いでなごませた。その後、ふと思い出したかのように「スワ、スワ」(諏訪敦彦)と繰り返した。小津監督作品への思いを、とても楽しそうに語ってくれ、言葉はわからなくても、熱い思いが伝わってきた。

監督は、大阪での記者会見を終えた後、京都へ向かい、夜、同志社大学で、学生や熱心な映画ファンを前にトークに臨んだ。会場は、監督の話を生で聞けるということで、満場の熱気であふれた。『ベルタのモチーフ』でアリエル・ドンバールの出演に至ったいきさつを尋ねられ、監督は、エリック・ロメールの映画で何度か観ていて、出てほしいと思い、お金はないですが、ぜひ映画に出てほしいと手紙を書いたところ、優しい人で、承諾してくれたというエピソードを紹介。撮影中もとても寛容な人でしたと感慨深く述べた。映画だけでなく、日本のいろんな文化に造詣の深い監督は、翌日は鴨長明の足跡をたどると嬉しそうに話し、俳句を読むことも発見に満ちていると言って、蕪村、芭蕉、子規、良寛、そして、山頭火の名を加えた。俳句という、限られた言葉で無常や詩的な世界を描写しようとする試みは、監督の、台詞や説明的な要素をできるだけ映画からそぎ落とし、詩的で内面的な映像世界をつくりあげようとする姿勢に通じるものがあるかもしれない。

京都では、『ベルタのモチーフ』、『メカス×ゲリン 往復書簡』の2本が先行上映され、ゲリン監督の音の感覚、映像を構築する力、生まれ出た映画のもつイメージの豊かさに、あらためて圧倒された。一つ一つのシーンが見事に絵になっていて、限りなく美しい。「映画の基本は見る事と聞く事だと思います」との監督の言葉どおり、目の前の映像と向き合い、聞こえてくる音にときめき、心洗われるような映画体験は、発見と驚きと喜びに満ちていた。

ゲリン監督は京都のトークで「時々、肖像画を描くように映画を撮りたくなってきました。映画を観たあと、物語は忘れても、ただ一つの場面の姿勢や態度などが、心に焼きつくことがあります。それが私にとっての『肖像画』になるのです」と言われた。監督の映画に出会った観客は、きっと、宝物のようなすてきなシーンを、幾つも心に刻み込んで、家路に着くにちがいない。秋の映画祭がただもう待ち遠しいばかり。この至福な出会いが関西でも実現したことに心から感謝したい。(伊藤 久美子) 

olo-s2.jpg(2012年 日本 1時間48分)
監督:岩佐寿弥
プロデューサー:代島治彦
音楽:大友良英 
絵・題字:下田昌克

© OLO Production Committee

6月30日~ユーロスペース(東京)、7月7日〜シネ・ヌーヴォ、(公開時期未定)京都みなみ会館
公式サイト⇒http://www.olo-tibet.com/

~少年オロの悲しみと明るさが心に刻みこまれる…~

チベットでは、中国政府の政策でチベット文化やチベット語の公教育が十分行われず、親たちは、インド北部のダラムサラにある「チベットこども村」(チベット亡命政府が運営)という全寮制の学校で勉学させるため、あえて子どもたちを人に託して、ヒマラヤを越え、亡命させる。少年オロもそんなふうに6歳の時、母から国外へと送り出された一人。映画の前半では、オロの学校生活や、友達の家族の姿が描かれ、家族が離散した悲しみや、友達が体験した亡命の苦労が語られる。後半は、岩佐監督ご本人が登場。オロは、監督とともに、チベット難民一世でネパールで暮らすおばあちゃん(監督の前作『モゥモ チェンガ』(2002年)の主人公)の家を訪ねる。

おちゃめで繊細な少年オロはじっと見守りたくなるくらいにかわいく、その表情にひき込まれる。オロを主人公としたドキュメンタリーでありながら、他のチベット映画の映像やアニメ映像も挿入され、撮影者である監督と被写体のオロとが映画について語りあうシーンもあり、自由な作風が魅力的。来阪された岩佐監督と代島プロデューサーから本作の魅力についてたっぷりとお話をうかがったのでご紹介したい。


■映画化のきっかけ

olo-1.jpg―――最初にチベットに魅かれたきっかけは何ですか。

監督「16年前、妻がトレッキングをやっていて、ガイドの方がネパール国籍を持つチベットの難民でした。妻たちが山に行っている間、僕は、彼が育った難民キャンプに行くようになりました。日本人と顔も感覚も似ていて、難民キャンプの空間も、僕の子どもの頃を思い出し、とても懐かしい、でもひとつ微妙な違いを感じていました。何だろうと思っていたら、こびへつらわない、卑屈にならないというのがあって、チベット文化が生み出すものだと思いました。チベット仏教が生活のひだまでしみとおるようにあって、そういう伝統の中から生まれてきた一つの人格という独特のものを、難民の人たちが外国へ行っても、とても大事にしているところに、とてもひかれました。

こびへつらうことは、威張ることの反対のようにみえますが、僕は一つのことだと思います。威張ることの裏返しがへつらうことで、威張りたい人は局面によってはすぐ卑屈になるし、卑屈な人は威張るチャンスがあれば威張りたがる。チベットの人たちにはそういうものがありません。日本人でも卑屈でない人はたくさんいますが、チベットの場合、子どもの時からそのようなものが育たないように育てられてきている感じがして、それがひきつけられた第一の理由です」

―――チベットの映画を撮ろうと思われたのは?

監督「チベットの人たちは、異国の地で、自分たちが持ってきた文化を抱きしめるように大切にしています。お寺もすぐつくるし、難民になってもお坊さんはいっぱい出てくるし、日常は全部祈りを中心に進んでいきます。衣装やお茶、生活の細かい様式で、強いられなくても自然に文化を保っている姿をみると、戦後私たち日本人が失ってしまったものがとても大事だったと考えさせられました。それで、最初は、そういった文化を一番守っているおばあさんの映画をつくりたいと思い、それから10年経って、今度は少年の映画をつくりたくなって、踏み出したんです」

olo-2.jpg―――なぜ少年を主人公にしたのですか。

監督「2008年の北京オリンピックの聖火リレーで、世界中あちこちの聖火が通る場所で人権デモがあり、チベットの置かれた状況についても広く知られるようになりました。その時、日本でもチベットのための運動が起きて、33年間監獄に入っていたバルデン・ギャツォ師という老僧が日本に来て講演をされました。僕は、壇上のそのおじいさんにずっと見入っていたのですが、その時ふっと横から少年が現れ、二人が対話を始めたというような幻がでてきて、“少年”と思ったのです。それからしばらくして、十歳位の少年を主人公にしたら、何かが生まれそうだと思ったのが、始まりでした」

―――オロが暮らすダラムサラはどんなところですか。

監督「北インドのダラムサラは、チベット難民に与えられた街で、インドの中のチベットです。1959年にダライラマ法王と一緒に亡命した難民たちに対し、翌年、インド政府がそこを与えることを決定しました。イギリス植民地時代のイギリス人たちの保養地、避暑地です。商売をするインド人もいますが、量的にも質的にもチベットの街で、当時のネルー首相が教育は大事だからと、チベットの学校もつくられました。

その頃チベットでは、中国政府の下、チベット文化の教育が全くなされず、そのことに耐えられない親たちが、ちゃんとしたチベットの教育を受けさせるため、子どもをインドに送り出すことが始まりました。年間何百人もの子どもたちが亡命したことも一時期ありましたが、今はそれほどではありません。お金を渡して、人に子どもを託し、ヒマラヤを越えてインドまで送りつける。そして、その人だけがチベットに帰ってくるということが秘密裏に行われていました。

映画に登場するホームの子は、警察に捕まるという典型的な苦労をしていますが、凍傷で足の指がなくなる子どももいます。生涯会えないかもしれないという不安があっても、親は子どもの教育が一番大事と考え、あえて亡命させるのです。中国の学校では差別があるでしょうし、チベット語で5、6歳まで育った子が、学校に行くと全然チベット語を使えないというのは、親にしたら、心配で見ていられないのではないでしょうか」

■少年オロの魅力 

olo-s1.jpg―――山で、オロがお母さんに向けて、しゃべりながら歩く場面がとても印象的です。

 

監督「お母さんに手紙を書くように語ろうかと丘の上でオロに言いました。それまで特に何も言ってなかったのですが、やろうと言ってから3分位で、あれだけ大人びた、しっかりした内容の言葉を頭の中で構築できるのは、驚くべき才能ですね。オロが特別ではなく、チベットの子はああいうことができるのです。日本の子とはえらく違います。でも、おやつをもらえなかったりした時、お母さんが恋しい、と子どもみたいなこともオロは言うでしょう(笑)」

―――映画の冒頭では、逆にオロが原稿を読むシーンがありますね。

監督「あれは真反対ですよね。映画の中でこれぐらいのことは言っておかないと筋道がわからないというのがあって、モノローグのナレーションをつけようと思って撮りました。録音機がなくて、カメラで録ったのですが、それなら写っていてもいいじゃないかということで、ライティング(照明)も何もせず、音を録るために撮っていた映像を、編集の時にそのまま使うことになりました。あのナレーションにどんな映像をあわせても、ちっともおもしろくなく、一緒に写された映像をそのまま入れると、言葉で説明しているオロがドキュメントされていて、非常に立体的になっています」

代島「あれは、オロ自身が、『音しか使わない』と言われてしゃべっていますから、表情を撮られているとは思ってなくて、ほとんど素なんです。だから、しゃべる緊張感とかしゃべり終わった後の開放感とか、一番オロらしい表情で撮れたところですね」

監督「観客に伝えなきゃいけないある程度の事実の説明もできるし、非常にうまくいったと思います。あれは『やらせてますよ』ということと、『やってますよ』ということと、そういう関係を、ずっと縄をよじるようにやってきて、映画の後半は、やらせていた人(監督)が、いつのまにか被写体となってくるとか、そういう意味もありますね」

代島「嵐がきて、外で撮影ができないということで、音も密閉されていない普通の部屋で録音しましたので、雷が鳴ったり、どんどん暗くなっていったのも妙にリアルでしたね。意図したわけではありません(笑)」

olo-s3.jpg―――オロがカメラをのぞきながら、監督に向かって「アクション、スタート」と言うシーンは、おもしろいですね。

監督「ああいう遊びは、放っておけば、するんですよ」

代島「オロはずっと撮られてるんですよね。ずっとそうだったから、逆のことをずっとやってみたかったんです。監督も長旅で疲れていましたが、オロにつきあってましたね(笑)」

監督「同じバスの中で、オロが、揺りかごのまねをするところも本当にかわいらしいですね。気持ちが自由なんですよ。小さな街から出て行ったこととか、いろいろ含めてちょっと気持ちもはしゃいでいて、バスの中の移動感も出ていて、あそこはよかったですね。オロというのは本名とは違うんです」

―――オロが、ネパールの難民一世のおばあちゃんと、チベットでの放牧の話をしているときの顔は、本当に生き生きとしていましたね。

監督「観た人の中で、あのシーンについて語ってくれる割合はものすごく高いです。二人はかなり長くしゃべっていますが、その長さがいいみたいな感じで、観客からのリアクションがあります」

―――明るくて屈託のないオロが、ネパールの難民キャンプで仲良くなった難民三世の姉妹に、亡命する途中の苦労について尋ねられて、初めて、つらい思い出を終始うつむき加減で答えるシーンがすごく印象的でした。

代島「オロがしゃべるのは、ある程度仲良くなって、好かれてるということがわかってるからだと思います」

監督「オロは僕たちにはああいうことはずっとしゃべりませんでした。全体として、オロは、特に思い出したくはないというのがあって、その中でやっと語ったということだと思います。その前に『いい人に拾われて』と言っていますが、そういうのも気を遣っているんだと思いますよ。朝、水をぶっかっけられて起こされた人だというのに、『いい人』と表現するなんて、矛盾しているおもしろさですよね。子どもが、しゃべりながら、状況に気を遣っているんです。彼女たちがかなり追求するみたいな形でしゃべるのは、映画の方から頼んでる面もあるんですけど、チベット人は聞き出したらずけずけ聞いていくところがあって、非常にチベット人らしいです」

―――亡命の途中、たった一人で迷子になってしまったオロがお店の人に雇ってもらうよう頼んだ時の言葉が「僕を買って」という訳になっているのが気になりました。

監督「きつい言葉なので、「雇って」という言葉に変えた方がいいのではないかと話し合いました。それで僕がチベット人に、ああいう時に「買って」と言うのかと聞いたら、それは言いませんとのこと。じゃあ、オロはどう言っているのかと聞くと、オロは「買ってください」と言ってます、と教えてくれた。それで、これは絶対僕は使いたいと思って、あえて、オロが言っているとおりに「買う」という言葉を訳に入れました。子ども心に、オロはそこまで追い詰められていたということなんですね」

―――最後にオロが、監督に向かって「ありがとう」というときの表情がすごいですね。

代島「チベットの人たちを代表して言ってる顔だねという感想がありました」

監督「オロはちゃんとだぶらせてますね。心のどこかで、チベットとしてありがとうと言っているのだと思います。本人はそんなことを計算しているわけじゃないですよ。でも、心の中は多分そうだろうと思います。本当にロケの最後の頃に撮ったシーンです」

■似顔絵と歌について 

―――映画の最後に出てくる似顔絵は、一枚一枚深みがあって、人生を感じました。似顔絵を使おうと思ったのはなぜですか。

 

監督「はじめ僕は成立するかなあと疑問に思っていたのですが、ものすごくよかったですね」

代島「似顔絵を描いた下田昌克さんは、チベットと出会うことで人生が変わった画家です。会社を辞めて放浪の旅に出て、いろんな絵や似顔絵を描いて、旅から帰って、その絵を気に入った編集者がいて、週刊誌に連載したりして絵描きになりました。この映画の気持ちがよくわかったのだと思います。

この映画は、監督の『ヨーイ、スタート』という掛け声から始まっていて、作り手のメッセージがあってもいい映画だと思っています。撮るということで、皆さんを引き込みながら映画をみせていく。フェイクしながらリアルをみせる。だから、最後にすごくリアリティがあるけど、『絵』というもの(フェイク)が入ってきてもいいんじゃないかと思いました。

映画は、学校の夏休み、冬休みと進んでいきますが、前半の物語と後半の物語とに分かれていますよね。映画の最後に、物語の総体というか、最初からの全体を感じてほしかったんです。そのとき登場人物の一人ひとりがどういう思いを抱えて生きているのか、ということを思い出してほしい。そこに岩佐監督の大好きなオロの歌「きっとまた会おう、兄弟たちよ」という歌を重ねたい。あの登場人物一人ひとりにも会いたい人がいるし、皆が会いたい。じゃあ、人間を出したいという中で、似顔絵を出そうという発想が出てきました」

監督「あの歌には『チベットでみ仏と会うことができますように』という歌詞が何回も出てきますが、チベット人は“み仏”というのを“ダライラマ”だと思って歌っているんです。でも、翻訳の人に、具体的に“ダライラマ”と言ってるのかと聞くと、いや、“み仏”と言ってると言われました。ダライラマ法王は観音菩薩の化身なんです。それを“み仏”といって歌にしていますが、心は具体的には“ダライラマ”なんです。ただ、歌の訳を“ダライラマ法王”と書いたら、日本人からみたら全然違うイメージになる。結局、言葉として言っているのは、“み仏”だから、“み仏”という訳にしようということになりました。

僕は、頑張ってチベット人と同じ気持ちになって、あれが“ダライラマ”だと思って歌っていると想像して、あの画面を観てると、ぐーっと迫ってきて、涙が出てきました。チベットの人たちにしたら、“ダライラマ法王”にチベットに帰ってきてほしいんです、そして、自分たちもチベットに帰って、あそこで会いたい、そういう歌なんです。ダライラマを慕って、一緒に国外に亡命した人もたくさんいますし、中国政府に禁止されているのを承知でダライラマの写真を大切に持っている人もいます」

―――観客の方へのメッセージをお願いします。

監督「チベットが中国にいじめられているという概念ではなく、映画を楽しもうという気持ちで、構えないで、観てほしいと思います」


オロが乗り越えてきた苦しみ、悲しみを知り、驚きながらも、今、目の前に映っているオロの明るさ、賢さ、たくましさに、未来への希望を感じずにはいられなかった。最後に、監督にお礼を言う時のオロの表情は、少年と大人が同居しているような、あどけなくて深みのある顔で、その成長ぶりに息をのんだ。ぜひ映画館へオロに会いにいってほしい。

少年オロの姿をとおして、未来がみえない不安の中でも、人とつながっていること、人との絆を感じることで不安を乗り越えていけるし、しっかりと前を向いて歩き続ける勇気がわいてくることを教えられた気がした。

 大阪シネ・ヌーヴォXでは、本作の公開にあわせ、「チベット映画特集2012」と題し、『モゥモ チェンガ』(2002年)をはじめ、チベット映画4本も上映される。ぜひこの機会に観に行ってほしい。

(チベット映画特集2012⇒http://www.cinenouveau.com/sakuhin/tibet/tibet.htm

(伊藤 久美子)

 

フランス未公開.jpg 

 

名作ながら、日本での公開が見送られた珠玉の作品を集めた『映画の國 名作選Ⅴ フランス映画未公開傑作選』が全国順次公開中だ。

関西では、第七藝術劇場で6/23より、京都シネマで7/7より、神戸アートビレッジセンターで8月より公開される。

上映作品は、下記の三本。

2010年9月にこの世を去ったヌーヴェル・ヴァーグの巨匠クロード・シャブロル監督の遺作『刑事ベラミー』。

少女時代のシャルロット・ゲンズブール主演の『なまいきシャルロット』『小さな泥棒』で知られ、この4月に70歳で亡くなったクロード・ミレール監督による、実話を基にした『ある秘密』。

エリック・ロメール監督の脚本の妙を堪能できる実話を元にしたスパイサスペンス『三重スパイ』。

フランス映画ならではの深い味わいを堪能できる絶好の機会だ。


『映画の國 名作選Ⅴ フランス映画未公開傑作選』公式サイトはコチラ

『映画の國 名作選Ⅴ フランス映画未公開傑作選』映画レビューはコチラ

映画ニューストップへ

masaokun-s1.jpg『LOVEまさお君が行く!』

ゲスト:香取慎吾、広末涼子、まさお(犬)

(2012 日本 1時間45分)
監督:大谷健太郎
出演:香取慎吾、広末涼子、光石研、成海璃子、木下隆行、寺島進他


2012年6月23日~大阪ステーションシティシネマ、なんばパークスシネマ、MOVIX京都他全国一斉公開
公式サイト⇒
http://www.love-masao.com/


 テレビ東京の動物バラエティー番組で犬が売れない芸人と旅をする「まさお君が行く!ポチたまペットの旅」。その実話エピソードを元にした感動物語が、香取慎吾主演でスクリーンに登場する。 売れない芸人松本君と食いしん坊なラブラドール・レトリーバーのまさお君が繰り広げる旅と友情、松本君を支えてきた恋人里美との恋の行方、そしてまさお君との永遠の別れ。お茶の間に愛されながら、惜しまれつつこの世を去ったまさお君との思い出や感動がいっぱいの本作公開に先駆け、大阪帝国ホテルにて記者会見が行われ、香取慎吾とまさお君、そして広末涼子が登壇した。
 途中でまさお君が興奮して吠え続ける場面もあったが、映画の松本君さながらの香取慎吾がまさお君とコミュニケーションを取りながら、落ち着かせる姿も微笑ましい会見となった。

masaokun-1.jpg━━━香取さんはまさお君と絡みのあるシーンがほとんどだが、どうやってコミュニケーションを深めていったのか。
香取:もともと犬は大好きで、一番飼いたかった犬種が偶然ラブラドールだったので、撮影でもこういう形で一緒にいれてよかったです。あまりいい感じではないコミュニケーション状態ではじまる話だったので、最初はほとんどコミュニケーションをとらずに、本番でリードをもらって、終わったら離れてといった状態でした。順撮りに近い形で撮影できたので、後半だいぶんいい感じになったときに仲良くなる撮影ができました。

━━━まさお君との撮影で、苦労したエピソードは?
香取:(まさおは)お芝居ができる子ではないですね。訓練された犬だときちんと背筋を伸ばしてピシッとしてるんですが、見ていてちょっと違うなと思ったら、偶然預けられていたこの子だったんです。この姿に監督が「これだ!」と思って飼い主さんに連絡を取って、「映画の主役なんですが、いいですか。」と。僕からしたらとんだ迷惑で(笑)、悪い意味ではないですが、何も分からない子でしたから。でも難しいだろうなと思うところで、本当におとなしくしていたりして、「まさお君はもしかしたら天才なんじゃないか。」と思ったりもしました。


masaokun-s2.jpg ━━━松本君とまさおの友情だけでなく、松本君と里美の恋愛の行方もハラハラさせられるが、広末さんからみた見所は?
広末:松本君とまさお君だけなら仲良しドタバタ劇のロードムービーになるところですが30代を迎えて結婚を意識したり、松本君が売れない芸人で実家から呼び戻されたりと、里美の存在はすごく現実とリンクするリアリティーを生む役でした。最初から松本君との別れを予感していたり、脚本だけ読むとシリアスになりそうでしたが、きっと二人で過ごした10年間は楽しかったことを感じさせるようなお芝居を意識しました。


━━━広末さんとのシーンで印象に残ったところは?
香取:二人の状況がすごく悪くて、里美がいなくなるときに、お好み焼き屋で声をかけることもできない。今の状況を謝るでもなく、先の発言をするでもなく、何もできずに会計までしてもらって申し訳なくても何もいえない。このだめっぷりが大好きです。本当に何もいえないのがすごくリアリティーがあります。ぼくは、そんな経験はありません、スーパースターなので(笑)。

━━━松本君の漫談のシーンはすごくリアリティーがあったが。
香取:最近、綾小路きみまろ師匠の一番弟子になりましたが、本作はその前に撮影をしていたので漫談の経験はありません。でもスマスマでコントをたくさんやらさせてもらっているのは近いところがあったかもしれません。あのシーンはやっていて超楽しかったです。一応台本はあるのですが、直していいと監督もおっしゃったので、松本君として、香取慎吾として、こうした方がおもしろいというところは順番を入れ替えたりしました。監督には尺だけ聞いて、6分ぐらいを自分で計りながらやりました。

masaokun-s3.jpg━━━SMAPのメンバーで誰をペットにしたいか。
香取:つよぽん(草なぎ剛)は今でもペットみたいなので、あえて木村君。ペット扱いは今後20年ぐらい僕はできないと思うので。
広末:香取さんがいいです。香取さんの食べっぷりが大好きなんです。大きなお口でたくさん食べられて、気持ちがいいですよ。稲垣さんとか木村さんだと、餌にうるさそう。


━━━香取さんからみた広末さんの魅力的な点は?
香取:見れば分かるじゃないですか!(笑)こうやって共演するのは初めてで、もっと小さい頃から涼子ちゃんとお仕事をさせてもらっていましたが、改めてかわいいだけではなく、とてもきれいな大人の女性で素敵ですね。
僕も結構本番の瞬間に相手の役の方を好きになるんですが、涼子ちゃんは本番で松本君のことを見ている好きさ加減が半端じゃなくて、危なく香取慎吾に戻りそうな鋭さがありました。


━━━現場でのまさお君のエピソードは?
香取:犬は人に癒しを与えると言いますけど、本当だなと思います。この子がいるだけですごく現場の空気が和むんです。撮影の現場でアシスタントの子たちがぐったりしてきたときに、合間にまさおを触って、夜中で疲れてるはずなのにいい笑顔になっているのを見てすごいなと思いました。それによって、ちょっとほんわかした空気になるんです。今まで経験した現場とは違いますね。
広末:まさお君の座り方が好きです。調教された犬だとピシッと座るんですよね。ウロウロして、草食べてるような歩き方もラブラドールだとなかなかできないんじゃないかと思うんです。

━━━売れない芸人役だが、参考にした芸人はいるのか?
香取:売れない芸人さんや、売れていたのに売れなくなった芸人さんや、どん滑りの芸人さんなどたくさんの方とお仕事をしてきたので、引き出しはたくさんあります。この人とは言いづらいですが、ポンと浮かぶところでは狩野英孝さん。あの感じでちょっと愛されるというか、僕は愛してないですけどね(笑)


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記者会見後に大阪城公園で行われたおさんぽイベントでは、まさお君のトレードマーク「赤いバンダナ」を巻いた関西のまさお君仲間(犬)たちと飼い主50組が大集合。先頭を切って歩きながらも、お堀の方へ寄り道をするまさお君は映画の中のうろうろ歩きそのもの。一番寄り道し、一番吠えたまさお君は、仲間たちとともに大阪城をバックに記念撮影に収まり、香取慎吾、広末涼子とのお城おさんぽを満喫したようだ。犬好きならずとも、まさお君と松本君の不器用な二人が奏でる友情に心温まるこの夏一番のハートフルなワンワンLOVEストーリーをお見逃しなく!(江口 由美)

(C) 2012「LOVE まさお君が行く!」製作委員会

 

 

 (2011年 韓国=日本 1時間10分)
監督:イム・テヒョン
出演:ミン・ジュンホ、杉野希妃、松永大司
2012年6月30日~シネ・ヌーヴォ、8月4日~京都みなみ会館、元町映画館
公式サイト⇒http://ameblo.jp/two-rabbits-in-osaka/
※7/1(日)にシネ・ヌーヴォにて杉野希妃さん舞台挨拶あり


 usagi-s1.jpg『遭遇』のイム・テヒョン監督最新作『大阪のうさぎたち』は、まさに全く新しいタイプの大阪発映画だ。
  2011年映画祭で来日時に、『遭遇』の主演俳優ミン・ジュンホと再びタグを組んで撮影した本作では、『歓待』の主演兼プロデューサーとして来阪していた杉野希妃が急遽撮影に参加。世界中で90%の人類が亡くなった地球で、唯一秩序を維持し、普通の生活を送り続けている都市が大阪という設定のもと、中之島、梅田スカイビル、大阪城など大阪の今を切り取るロケーションで即興的な技法を取り入れながら撮影し、浮遊感のあるSFに仕上がっている。
  大阪アジアン映画祭2012特別招待部門出品で舞台挨拶のために来阪した杉野希妃さんとイム・テヒョン監督に本作作成の経緯や、撮影秘話を聞いた。


  ━━━どのような経緯で本作に出演することになったのか。
杉野:当初はイム・テヒョン監督の『遭遇』に出演したミン・ジュンホさんと2人で撮るつもりだったそうです。本当は2人の知り合いの女優と3人で撮る予定でしたが、3月11日の震災の影響で来阪できなくなったのだとか。翌日の12日が撮影日で、監督がキャメラを廻していたのを偶然見かけたので何をしているかお聞きしたら、「映画を撮っている。」とおっしゃって。面白そうと話しかけると、出演を打診されました。通行人ぐらいのつもりが、いつの間にか主役になっていましたね。

usagi-1.jpg━━━大阪のシーンは、一日で全て撮影したのか。
杉野:撮影に参加することになってすぐに「今からツアーに入って。」と言われて、歩いているところをずっと撮られました。ミン・ジュンホが話かけても軽く流すようにと言われ、内容も知らずにドキュメンタリーでも撮るのかと思いながら参加していました。撮影の合間にどんな映画を撮るのか聞いて、はじめてSF映画と知りました。あとは撮影しながら教えてもらった感じですね。
当初から、女優がいないならそれなりに、ミン・ジュンホさんプラスアルファで、流れに身を任せて撮ろうといったスタンスだったようです。人類最後の日、最後はホテルで2人がどうなるかといった設定は最初からありました。

━━━本作でも『歓待』同様プロデュースを担当しているのか。
杉野:もし映画を作るのであれば、日本の映画祭や日本公開についてはこちらで話を進められるので、後乗りですがプロデューサーを買ってでたところ、監督も乗り気になってくださいました。

━━━.ホテルのシーンはどのように撮影したのか。
杉野:12日の夜に作品にも登場する誕生日会があって、そのままイム・テヒョン監督が泊まっていたホテルにみんなで行って撮影しました。朝の5時ぐらいまで、本当に時計を見ながら「あと1時間」と言いながらやっていました。「死ぬ前にホルモンが食べたい。」というシーンも、ホテルまで歩いて帰るときに撮りました。 

usagi-s2.jpg━━━「ホルモンが食べたい。」は監督のアイデアか。杉野さんのアドリブか。
 杉野:全くのアドリブです。好きな話をしてほしいと監督から言われていて、実は死ぬ直前にホルモンを食べたいとずっと思っていたので、この設定(翌朝午前5時に人類が死ぬ)で言うしかないと自然に口から出てきました。
 

━━━ホテルで午前5時まで2人で過ごすシーンは、どういう設定で撮っていったのか。
 杉野:お互いに歌を歌うという部分はあらかじめ決まっていましたが、お互いに歌うことは知りませんでした。私が監督から言われたのは、歌を歌うことと、何でもいいから怒ることでした。その理由は自分で考えてと、それらを撮影直前の私の誕生日パーティーの席で言われてビックリしました。ジュンホさんは歌を歌うこと、錠剤を彼女(杉野さん)に渡して自分は死ぬという設定だけ伝えられていて、お互い何をするのか分からないという状況で投げ出された感じです。
しかも、怒るという状況をすっかり忘れていて、監督に小声で指摘されて、一瞬で思い浮かんだのが、「昔の彼氏に裏切られ怒りが溜まっているけれど、彼は死んでしまって怒りのはけ口をどこに向ければいいのか。」というシチュエーションでした。

━━━怒りをジュンホさんに向けるシーンでは、かなり激しくジュンホさんを叩いて、今までにない杉野さんの表情が出ていたが。
杉野:本当はもっとジュンホさんを叩きたかったですけどね。あのシーンだけでは背景が分かりづらいので、チョンジュ映画祭でお会いした松永大司監督にお願いして、映画祭の会場から監督の別宅に行っていただいて追加撮影しました。

usagi-s3.jpg━━━どうして大阪でSFを撮ろうと思ったのか。
監督:『ブレイドランナー』の始まりが大阪を背景にしていて、SFっぽいイメージがありました。エキゾティックな感じに魅力を感じていたんです。昨年の大阪アジアン映画祭で、関西国際空港からバスに乗ってくるときにSFっぽいイメージであることを再確認しました。

━━━本作の構想は昨年の初来日以前に考えていたのか。
監督:大阪アジアン映画祭に招待されて、大阪に行けると分かってから考えました。来たこともないのに、勝手に想像していました。

━━━かなりオリジナリティーのあるSFだが、監督が考えるSFとは。
監督:大層なSF映画でもその中で小さい話があると思います。自分はその中の小さい話を撮ったと考えています。


━━━大まかな設定は決めているけれど、かなり役者に委ねるスタイルは、最初からそういう風にするつもりだったのか。
監督:前作の『遭遇』もそういう風にして撮った作品です。朝起きて紙一枚ぐらいにその日の内容を書いて、皆にやってもらうというスタイルでした。『遭遇』以降は役者を自由にやらせるのが楽しいし、演技をするときの緊張感が保てるし、役者の良さもでるので、今は自由にやらせるスタイルにしています。

━━━2作連続で主演を務めているミン・ジュンホさんの魅力とは。
監督:とりあえず親しいからです(笑)。ジュンホさんは真剣にやってもサイコみたいなところがあって、人が見るとちょっとおかしい部分があります。そんなところがすごく好きで、『遭遇』のときにジュンホさんがiPhoneを見せるシーンは、実際に私にやったことを取り入れたりしています。

━━━プロデューサーとして、女優としての杉野さんをどう見ているか。
監督:はじめはジュンホが主人公だったのですが、撮影、編集をしているうちに、杉野さんに人を惹きつける力やオーラがあるので、主人公を杉野さんに変更しました。
プロデューサーとしての杉野さんですが、プロデューサーの質は二つに分けられます。一つはどれだけお金を集められるか。もう一つは人です。お金の部分はまだ分かりませんが、一緒に仕事をできる人を集める力はすばらしいです。偶然この大阪アジアン映画祭でお会いして、映画を作ろうという話になったという意味でも人を惹きつける力や挑戦するパワーがあります。初対面の監督に一緒に映画を撮ろうと言われたら、普通は拒否をする人が多い中で、「やろう」という彼女の大胆さが素晴らしい。無理を承知で依頼したのですが、それを真剣に受け取って形にしてくれたのが、とてもありがたかったです。

━━━杉野さんからみた作品のみどころは?
杉野:この作品は震災の次の日に一日で撮った作品ですが、まさに日本のそのときの大変な状況が写り込んでいる作品だと思います。現実とフィクションがシンクロしていて、見ていて緊張感があります。映画は準備をして、脚本を書いて、作るまで時間がかかるのが普通ですが、この作品のように映画がもっと身近なものであると感じていただけたらと思います。


  インタビュー終了後、舞台挨拶に駆けつけた主演のミン・ジュンホさんは、本作について「地震の混乱や恐怖、人が死ぬという感情が俳優たちの表情だけではなく、風景も含めて表現できた作品。」、「この映画が一つの表現で、その瞬間を暗い状態なら暗いままで捉えている。」とコメントし、共演の杉野さんについては、「集中力が本当に素晴らしく、準備期間がない中で、いつでも状況を理解する力があった。」と賛辞を惜しまなかった。
 韓国でのシーンを交え、日本のシーンでも韓国語と日本語が入り混じる『大阪のうさぎたち』は、映画作りの新しいスタイルを提示してくれた。映画祭がきっかけで誕生する大阪発映画としても意義深い作品だ。関西先行公開となる本作で、いつもの大阪がスクリーンでどのように映し出されるのか目撃してほしい。 (江口 由美)

(C)'Film Bee' all rights reserved.

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(C)若松プロダクション
 

hikarinooto-s1.jpg (2011年 日本 1時間29分)
監督・脚本:山崎樹一郎
出演:藤久善友、森 衣里、真砂 豪
4/7(土)~シネ・ヌーヴォにて公開
公式サイト⇒http://hikarinooto.jp/


 


~“農”をつうじて“生の営み”を見つめる~

岡山県北、山深きところ。代々酪農を営む狩谷家の長男の雄介は音楽を志し東京で暮らしていたが、父のけがをきっかけに家業を手伝うため故郷に戻った。音楽への思いや酪農の現状、恋人との行き違いから、酪農家として生きていくのか迷いを抱えた雄介の葛藤とささやかな希望を描く…。

 岡山県北部の真庭市でトマト農園を営む山崎樹一郎監督。6年前、農業をするために大阪から真庭に移り住み、現在33歳。『ひかりのおと』は監督の初長編作品。「その土地と人の営みを見つめる"地産地生"映画」として、出演・製作とも多くの地域の方々が参加し、2年半かけて完成。昨年10月末頃から約5ヶ月間かけて岡山県内での51会場でキャラバン巡回上映を終え、大阪での一般公開を控えて来阪された山崎監督にお話をうかがった。今年3月に開催された大阪アジアン映画祭の特別招待作品部門の1本として関西初上映された際の客席との質疑の内容と併せてご紹介したい。


 hikarinooto-1.jpg■映画、そして農業…

――映画との出会いは?映画づくりはいつ頃から?
小さい頃、家族でお正月に寅さんとかの映画を観に行くのを楽しみにしていました。母が児童映画や人形劇などの親子劇場によく連れて行ってくれました。ピアノを習っていて、特に映画音楽をやりたいと思っていた時期があって、大学で映研サークルに入ってからもしばらくはそう思っていました。
京都国際学生映画祭で映画を撮っている人達と出会い、皆映画をつくるという感じで、僕も演出みたいなことをして何本か映画をつくりました。人類学を勉強していたので、祭りの記録のドキュメンタリーをつくったりして、京都でラーメン屋をやりながら映画監督をしている佐藤訪米監督のところで、シナリオをつくらせてもらったり、現場に行かせてもらったりして、劇映画もつくろうとしていました。

――岡山で農業をしようと思ったのはどんな経緯からですか?
劇映画をつくりたいと思いながらも、何を描いたらいいのか、なかなかテーマがみえてこず、映画がつくれなくて悶々としていました。そんなとき、日々食べているものが、どうやって種がまかれ、収穫され、どうつくられているのかを、ふと考えてもわからなかった。感覚的にこれではいけないと思い、まずは、食べ物をつくることを覚えたくて、農業と思い、京都を離れました。大阪育ちで、都会を離れたかったという思いもありました。父の実家が岡山の山の中にあり、26歳頃でしたが、農業はゼロからでしたので、最初は見よう見まねで、いろんな人から教えてもらいながら、地域に慣れるということと、寄り合いとか地域の行事を体験したりで、映画のことはすっかり忘れていました。
2年位、文化的なものに全く触れていなかったら、突如としてものすごく浴びたい欲求に駆られ、まずは映画を上映するチームをつくり、仲間ができてきて、映画づくりをやってみようと、短編映画『紅葉』(08)をつくりました。まずはトマトの映画をつくろうと、トマト農家の作品です。



■『ひかりのおと』ができるまで

――『ひかりのおと』で酪農を描こうと思ったきっかけは?
農業という視点は取り入れようと思っていて、たまたま若い酪農者と出会い、遊びに行ったら、山を切り開いた牧場と、すぐ隣に高速道路があって、ここを映画にしようと思い、映画づくりが始まりました。だから、酪農の映画というより前に、まず場所がありました。

――撮影はどれくらいかかったのですか?
1年目の年末年始に一期目の撮影を、翌年の年末年始に二期目として、それぞれ10日位かけました。一期目に撮った分で編集まで終わり、ほぼ完成していましたが、ニ期目を撮るにあたって、脚本はだいぶ書き換え、別の映画と思うぐらい大幅に変えました。

――ニ期目の撮影を行ったのは、どんな点が足りないと感じたからですか?
客観的にみて映画になっていない部分があったというか、前作の『紅葉』の時に「わからなかった」という感想が結構ありましたので、そうはなりたくない、特に地域の人たちにわかってほしいというのがあって、もう一回撮りたいと思いました。都会の映画好きにわかってもらえればいいというのではなく、田舎の山の中にいて、普段全く映画を観ないような、近所のおっちゃん、おばちゃんにわかってほしいというのが大きかったかもしれません。

――雄介が悩み、おじの義之とドライブインで話すシーンがよかったです。雄介役の俳優の藤久さんは普段からあんな感じで考えながらしゃべられるのですか?
これは二期目に撮ったシーンで、本当は全部ワンカットでもいいかなと思っていたのですが、リハーサルしたら15分位あって、さすがにカットを割ろうと、カメラマンやスタッフと相談してつくっていきました。「考えて出た答えは誰がなんと言おうと…」という義行のセリフは、2期目の撮影のためにシナリオを書いていたのですが、全然できなくて、僕自身に言ったみたいな…(笑)。義行に僕を救ってもらおうと思って、入れました。
藤久さんは、普段から大体ああいう感じです(笑)。彼は、僕が岡山に住み始めて最初の友人です。農協の職員で、野菜の苗をつくったり、農業に携わっていて、実際山の中に住んでいる彼の姿を見て映画をつくりたいと思いました。

――撮影で苦労したところは?
全部苦労しました(笑)。今回、演技の経験者は、雄介役の藤久善友さんが『紅葉』に続き2作目、おじの義行役の真砂豪さん、恋人の陽子役の森衣里さんの3人だけ。素人だから許されるということはできるだけしたくなかった。OKかNGを出すのが、唯一僕の仕事ですから、何回もやらせてもらったりして、一から細かく演出しました。自然にできるようになる、器用な人もいますが、最初、慣れるまでは、何回かテストを繰り返しました。若い人の方がすんなり役に入ることができた感じですが、やっているうちに、この人がどういうお芝居が得意かわかってきたので、時々脚本を書き換えながら、進めました。


 

hikarinooto-s2.jpg■『ひかりのおと』のタイトル、テーマについて

――『ひかりのおと』というタイトルの意味は?
トマトの栽培をやっていると、太陽がでたら、葉が元気になります。葉っぱをよく見ると、光の粒子がみえて、きらきらしたり、ちかちかしたり、とてもきれいで、おそらく光合成をやっているのでしょう。太陽があったら作物は大きくなって、食べ物ができ、生きてはいけます。太陽があれば生きてはいけるというのを、ひかりを「みる」というのでなく、より積極的に、その感覚を「とりこむ」というか、とらえられればと思います。光をそんなふうにとらえた時に、本来聞こえない音が鳴り始める、というか、雄介自身、太陽があれば生きてはいけるというか、小さな葛藤や悩みに向かって、光の音を聞いて一歩を踏み出すという思いを込めました。
ただ、大震災が起きてからは、太陽があっても作物をつくれない地域ができてしまい、僕の中でもどうとらえればいいのかわかりません。本作は震災前につくった映画なので、次の課題ということになるかもしれません。

――家族というのもこの映画のテーマですよね?
僕が真庭にいて、いろんな農家を見ながら思うのは、家族経営しているところはやっぱり強くて、酪農にしても最後まで残っています。家族もいろんなありようがあっていいと思うのですが、農業に限らず、家族経営が一番強いと思います。いろんな外的な状況の変化に耐え、柔軟に対応できるのは、家族という一つのチームで一緒に仕事する規模だろうなと思います。

――牛の出産シーンもよかったですし、男性が「父親になること」はすてきなことだなと感じました。
映画だからやっていいことと、やっていけないことがあると思います。そこのところは、僕の中で明確に線引きができていて、今回の映画に関しては、映画だからやらなくていいところは、そこまでみせなくていいと避けましたし、ドラマに抑揚をつけるために実際にないことを組み入れたりはしていません。実際の牛の出産シーンがなくても、映画として成立することは成立しますが、僕はあの場面が必要と考えました。産まれてくるときの音もすごくリアルです。生まれることとか、死ぬこととかは、農業にしてもそうですが、普遍的なことだと思います。

――年始の山登りをはじめ、家族の営みが描けていますね?
あの地域では正月に山に登るという習慣があります。僕が実際に知っていたり、経験したり、具体的に聞いた話でないと、演出はなかなか難しく、実際に経験して聞く話は、そこに住んでいる者と住んでいない者とでは全く違う解釈になると思います。今回は、実際に僕がこの土地で聞いた話、見たことを基にシナリオを書いており、この地域で、この人たちと、という限られたところでつくっていて、自分では、ドキュメンタリーに限りなく近いとは思っています。実際雄介のモデルになった酪農家の青年も音楽をやっていて、ああいう環境で育ち、実際あそこに住んでいると高速道路の音がすごくしていて、彼の部屋の窓ガラスも二重になっていて、爆音で音楽を聞いたり、音楽にこだわりをもっています。雄介の母のオルガンも実際にあった話で、地域では、出て行く女の人というのは、わりと目に付くのです。

――スピーカーを牛舎に持っていくところもいいですね。
雄介のモデルになった青年も牛舎にスピーカーを設置して、ヘビメタを聴いているんです(笑)。ミュージシャンの菊地成孔さんに一度真庭に来てもらい、ちょうどシナリオの段階で、映画の話をしたら、牧場まで一緒に来てくれて、場所にはすごく興味をもってくれました。高速道路がうるさいのとスピーカーはおもしろいと言って、「僕だったら高速道路にスピーカーを向けて、高速道路のノイズに対して、爆音で音楽を流す」と言われたのがずっとひっかかっていました。それがラストの、雄介が音楽を奪還して、牛舎にスピーカーを持ち込む行為、酪農のために都会の音楽を捨てて、こもっていたけれど、どちらかを選ぶのでなく、酪農しながら音楽もやっていくという宣言としてスピーカーを置くという行為に、つながりました。
 


■上映について


――地元の岡山県で約5か月間かけて51会場で巡回上映されたのですね?
東京で公開して大阪でやるという順当なルートも初めは考えていましたが、もともと東京の人達が地域に行って撮って、東京に持って帰って上映するということに違和感があって、住まないとわからない部分もあるだろうし、生活したがゆえにできる環境というのもあり、まず地域で先に上映したいというのは早くから、2期目の撮影開始前には思っていました。映画をつくった地域から上映を行うというのは、ごく普通の当たり前のことだと思います。
ここまでやろうと思ったのは3.11の大震災の後、僕らに唯一できることは、何が起こるかわからないの中で、いざという時のために、何かあらがえるようなネットワーク、人間関係みたいなものを、この映画をきっかけにつくっていきたいと思いました。映画だけじゃなく、なにかやりたいと思った人が手を上げれば、そういうものが動くようなネットワークができないかなと。

――地元での反応は?
頑張らないといけないと思ったとか、ひかりのおとが聞こえたような気がするとか、もちろん、難しかったとかわかりにくかったという感想もありました。今回、51会場で、100回以上上映し、毎回アンケート用紙を渡しましたが、アンケートの回収率がすごくよくて、半分の千枚以上が返ってきました。観たら何か言いたくなる映画なのかなと思いました。映画を観て終わりでは、もったいないと思い、「人と出会っていく」という意味でよかったと思います。

――観客の方々へのメッセージをお願いします。
本当は上映中全部行きたいのですが、農業が始まっていますので、限られた日しか劇場に行けません。一つのきっかけとして出会えればなあと、ぜひ僕にも牛にも会いにきてほしいと思います。映画をかろんじていうわけではないですが、映画をきっかけに人と人が出会っていくという、映画の一つの機能はやはりあっていいと思います。

――次の作品のイメージは?
時代劇で、今準備しているところです。江戸時代に、真庭を中心に美作地方で、山中一揆という大きな一揆が起こり、若者を含め50人ぐらいが処刑され、犠牲になりました。一揆というのは、怒りを表現したもので、いろんな感情を表に出せた時代といえます。今は、何によって封じられているかわかりませんが、なかなか感情を出せない時代のように思います。一種の感情を出せた時代の豊かさみたなことを描ければと考えています。
 



 「映画をつくりたいという気持ちが根本的にあり、農業もなかなかおもしろくて、まだまだ半人前ですが、農業をしながら映画を続けていこうと思っています。住みながらじゃないとつくれないという部分もあり、生活からあふれだすものがなければつくらなくていいとも思います」と語る山崎監督。最後、牛が横になって寝ているところを撮影するのも、結構大変だったそうだ。
牛のものいわぬ瞳に宿る光の奥深さも、本作の魅力の一つ。悩みや葛藤を抱え、これからまだ長い人生を生きてゆく雄介が次の一歩を踏み出す姿からは、答がすぐ見つからなくても探し続けることが大事だという心強いメッセージが伝わり、家族や人生についても深く考えさせられた。多くの人に観てもらい、映画づくりのあり方についても一考してほしい作品だ。 (伊藤 久美子)

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