「京都」と一致するもの

『マエストロ!』試写会プレゼント(1/12〆切)

maestro-550-2.jpg■ 提供:アスミック・エース
■ 日時:2015年1月19日(月) 
    18:00開場/18:30開映
■ 会場:御堂会館
〒541-0056 大阪市中央区久太郎町4-1-11
    TEL(06)6251-5820(代表)
    FAX(06)6251-1868
    地下鉄御堂筋線本町駅8号出口南へ200m
    地下鉄中央線本町駅13号出口南へ50m  
■ 募集人数: 5組 10名様
■ 締切:2015年1月12日(月・祝)

★作品紹介⇒ こちら
★公式サイト⇒ http://maestro-movie.com/

2015年1月31日(土)~大阪ステーションシティシネマ、なんばパークスシネマ、MOVIX京都、神戸国際松竹 他全国ロードショー



『マエストロ!』

元名門オーケストラの復活コンサートに隠された秘密とは!?
笑いと涙の感動オーケストラ・エンタテインメント! 

原作は第12回文化庁メディア芸術祭にて優秀賞受賞、第13回手塚治虫文化賞ノミネート作品された「マエストロ」(双葉社刊)。 となります。
『毎日かあさん』でヒットを飛ばした小林聖太郎が監督を務め、舞台に映画にと精力的に活動している実力派、松坂桃李と、日本映画界の顔、西田敏行が初共演!それぞれが初めてとなる楽器演奏、指揮に挑戦し、演奏シーンでも演技派ぶりを発揮!そして、多彩な魅力で人気を誇るシンガーmiwaが天才フルート奏者あまね役で映画初出演することで話題の本作。

【STORY】
maestro-3.jpg若きヴァイオリニスト香坂のもとに、解散した名門オーケストラ再結成の話が舞い込む。だが、練習場は廃工場、集まったメンバーは再就職先も決まらない「負け組」楽団員たちと、アマチュアフルート奏者のあまね。久しぶりに合わせた音はとてもプロとは言えないもので、不安が広がる。
そこに現れた謎の指揮者、天道。再結成を企画した張本人だが、経歴も素性も不明、指揮棒の代わりに大工道具を振り回す。自分勝手な進め方に、楽団員たちは猛反発するが、次第に天道が導く音の深さに皆、引き込まれていく。だが、香坂は名ヴァイオリニストだった父親が死んだ裏には天道が関係していた事を知り、反発を強めてしまう。あまねのひた向きに音楽に取り組む姿勢を目の前にしながらも素直になれない香坂。
そして迎えた復活コンサート当日、楽団員たち全員が知らなかった、天道が仕掛けた“本当”の秘密が明らかになる------。

 


 
出演:松坂桃李 miwa /西田敏行ほか
監督:小林聖太郎 脚本:奥寺佐渡子
原作:さそうあきら「マエストロ」(双葉社刊)漫画アクション連載
配給:松竹=アスミック・エース
(C)2015『マエストロ!』製作委員会 (C)さそうあきら/双葉社

(プレスリリースより)

★ 映画『KANO~1931海の向こうの甲子園~』
 オリジナルリストバンド プレゼント!

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■ 提供:ショウゲート 
■ 募集人員: 5 名様
■ 締切:2015年1月31日(日)

★作品紹介⇒ こちら
★公式サイト⇒ http://kano1931.com/

2015年1月24日(土)~梅田ブルク7、TOHOシネマズなんば、T・ジョイ京都、イオンシネマ京都桂川、OSシネマズミント神戸 ほか全国ロードショー

 


台湾国内歴史的大ヒット!歴史に埋もれていた甲子園感動の実話、日本凱旋上陸!
日本統治時代の台湾から甲子園に出場し決勝まで勝ち進んだ「嘉義農林学校」の感動の実話を、
台湾映画最大級の2億5,000万台湾ドル(約7億円)をかけて映画化した超大作エンタテインメント。

kano-550.jpg台湾では、2014年2月27日から公開され、球児の奮闘に涙し絶賛する声が広がり、公開1ヶ月で3億台湾ドル(約10億円)を超える空前のヒットを記録。本作は、同じく台湾で大ヒットした『海角七号君想う、国境の南』(‘08)、『セデック・バレ』(‘11)を監督したウェイ・ダーションがプロデューサーを務め、マー・ジーシアン監督による長編デビュー作となる。主演は、野球部監督・近藤兵太郎役の永瀬正敏。さらに、台湾の農業発展に大きな貢献をした水利技術者・八田與一役に大沢たかお、近藤兵太郎の妻役に坂井真紀ら、日本人キャストが出演している。

<ストーリー>
1929年に台湾で誕生した日本人、台湾人台湾原住民(※)による嘉義農林野球部が、新任監督の近藤兵太郎を迎え、スパルタ式訓練で「甲子園進出」を目指すことになった。近藤の鬼のような特訓を受け、連敗続きだった野球部員は、次第に勝利への強い想いが湧き上がり、甲子園出場の夢を抱くようになっていく。そしてついに1931年、台湾予選大会で連勝を続け、常勝チームだった台北商業を打ち負かし、南部の学校で始めて台湾代表大会での優勝。台湾代表チームとして日本への遠征へと赴き、夏の甲子園で戦った嘉義農林チームの、一球たりともあきらめないプレイは、5万5千人の大観衆の胸をつかみ、次第に日本中に広まっていった。
(※台湾の先住民族の正式な呼称)

(ショウゲート リリースより)

 



[出演]永瀬正敏坂井真紀ツァオ・ヨウニン/ 大沢たかお
[監督]マー・ジーシァン[脚本]ウェイ・ダーションチェン・チャウェイ[製作総指揮]ウェイ・ダーション[音楽]佐藤直紀
[主題歌]Rake 中孝介ファン・イーチェンスミンルオ・メイリン「風になって~勇者的浪漫~」(EPICレコードジャパン)
2014年/台湾/カラー/185分/原題:KANO/配給:ショウゲートkano1931.com (C)果子電影

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(写真:左から『悪戦』のウォン・ジンポー監督、『暮れ逢い』のパトリス・ルコント監督、阿部勉京都ヒストリカ国際映画祭実行委員長、山下晃正京都府副知事)
 
第6回京都ヒストリカ国際映画祭 オープニングセレモニー&トークショー
(2014.12.6 京都文化博物館)
登壇者:パトリス・ルコント(映画監督)
    滝本誠(編集者、映画評論家)
  

~来年で監督生活40周年を迎える名匠パトリス・ルコント、創作意欲の源やこだわりに迫る~

 
12月6日(土)から京都で開催中の第6回京都ヒストリカ国際映画祭。オープニングにパトリス・ルコント監督の最新作『暮れ逢い』が上映され、上映後オープニングセレモニーと、パトリス・ルコント監督(以下ルコント監督)を迎えてのトークショーが開催された。
 
オープニングセレモニーでは、主催者を代表して実行委員長阿部勉氏が「世界中から集まった300本の作品から、今この時代、この映画祭で観ることに価値ある作品を選んだ。歴史を切り口に文化や人間を描くところに迫りたい」と挨拶。引き続き、京都府副知事の山下晃正氏が「京都は今も映画を作っており、作り手が街にいることも映画祭にとって大変大事な視点。京都ヒストリカ国際映画祭は歴史劇を作る人々と観る人々との思いが交差する場なので、できるだけ多く作品をご覧いただき、楽しんでほしい」と映画の街京都発信の映画祭であることをアピールした。
 
DSC01438_r1_c1.jpg海外からのゲストとして登壇したルコント監督は、「私のこの作品で映画祭のオープニングを飾れたことを本当に光栄に思います。実は車で撮影現場にいくとき、僕は時代劇を作っているのではないと言い聞かせて撮影現場に向かっていました。とても矛盾していると思われるでしょうか、時代劇がとても興味深くなるには、現代人の心と通じるものがあるから。過去ではなく、現在を生きている人を語ったつもりです」。続いて、明日上映される香港映画『悪戦』のウォン・ジンポー監督は、「この映画祭に『悪戦』を選んでいただき、本当に感謝している。監督という立場でありながら、非常にカジュアルな服装であることを申し訳なく思っています。明日はもう少しましな格好をします」と茶目っ気たっぷりに挨拶した。
 
引き続き行われたルコント監督のトークショーでは、映画評論家の滝本誠氏が司会を務め、ルコント監督若き日の驚愕エピソードや、ルコント監督作品に通じるこだわりまでがユーモアたっぷりに語られた。その主な内容を観客との質疑応答も交えてご紹介したい。
 

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■映画学校時代の伝説的エピソードについて

 
―――映画監督になろうと思った動機は?
パトリス・ルコント監督(以下ルコント監督):父親はシネフィルで映画を観るのが大好きでした。地方に住んでいましたが、父親によく映画館へ連れて行ってもらい、映像で物語を語れるのはなんてすばらしいだろうと思っていました。子どもの頃は夢のまた夢であった映画監督ですが、当時住んでいたトゥールでは短編映画祭があり、短編映画を観ながら、手が届くのではないかと感じたのです。その後、パリの映画学校に行きましたが、学校では何も学ばず、むしろ映画館に行って映画を観て学ぶことの方が多かったですね。低予算で短編映画を撮ったことも勉強になりました。最初の長編はコメディーでした。みなさんに笑ってもらうことが好きだったからですが、興行的には失敗作で、以降3年間はほとんど何も撮れず辛い時期でした。そこを耐えて2本目を撮ると大ヒットし、それを気にすべてが滞りなくノンストップで撮り続け、今に至るわけです。来年は、私が映画監督になってから40年目となります。
 
―――学生時代にクロード・シャブロル監督作品を観て、あまりのくだらなさからシャブロル監督へ批判の手紙を書いたというエピソードを聞きましたが。
ルコント監督:シャブロル監督の超駄作『DOCTEUR POPAUL(邦題:ジャン=ポール・ベルモンドの交換結婚)』を観て、なんとかして指摘しなければと住所を調べたのです。文面はこんな感じでした。「親愛なるムッシュ、もしリュミエール兄弟が、あなたが『DOCTEUR POPAUL』を撮ることを知っていたら、映画を発明しなかったでしょう」 実名を添えて書き、返事も期待していたのですが・・・その後、私が監督になったときにエージェントが同じだったので、マネージャーに声をかけられシャブロル監督に会わせてもらいました。映画学校時代に手紙を送ったのは私だというと「すばらしい。額縁に飾ってあるよ」 そして郵便局に行くのを忘れ、出せなかったという手紙には、「ムッシュ、もし万年筆を発明したウォーターマンが、あなたがこんなに辛辣な手紙を書くことを知っていたら、万年筆を発明しなかっただろう」と書いたのだそうです。
 
―――ルコント監督とシャブロル監督のユーモアの応酬ぶりが素晴らしいですね。
ルコント監督:もし、ジャン・ピエール・メルビル監督に同じ手紙を送っていたら、殺し屋を送り込んでいたでしょう。メルビル監督は全くユーモアがありませんから。映画学校時代にメルビル監督が来校すると聞き、ワクワクして待っていると、アメリカの外車で学校の中に乗り付け、お馴染みのトレンチコートスタイルに、おきまりの帽子と真っ黒のサングラス姿でした。我々が大階段教室で待っていると、メルビル監督がコートも脱がず、帽子やサングラスもとらずに入ってきて、とても行儀の悪い人だと思いました。勇気のある学生がインテリジェントな質問をすると、「その質問はあまりおもしろくない。次どうぞ」 その後誰も質問できず、学生たちが静まり返っていると、メルビル監督は「質問ないですね」と起立して立ち去りました。たった5分だけの滞在でした。その日以来、メルビル監督の全作品が大嫌いになりましたね。
 

■ルコント作品の音楽と、レコードをかけるシーンについて

 
―――ルコント監督の音楽といえば、マイケル・ナイマン氏ですが、ナイマン氏を知ったきっかけは?
kureai-di-2.jpgルコント監督:ピーター・グリーナウェイ監督作品は毎回音楽がいいなと思い、サントラを買って何度もナイマンさんの音楽を聞きました。『仕立て屋の恋』 でも、ナイマンさんの『数に溺れて』を使わせてもらっています。はじめてナイマンさんがそのことを知ったとき「グリーナウェイ作品より、君の作品の方が私の音楽が生きている」と語っていたそうです。のちに、その時期ナイマンさんがグリーナウェイさんと喧嘩をしていたのだと知りました。
 
そのように、ナイマンさんの作曲家としての仕事ぶりが大好きで、プロデューサーに音楽担当のことを聞かれたとき、夢としてはマイケル・ナイマンと仕事がしたいと答えました。最初は、ナイマンさんはイギリス人で、ロンドンに住んでいるので難しいと言われたのですが、僕が直接ナイマンさんとコンタクトをとり、ロンドンに出向いて交渉し、快諾をいただきました。どんな分野においても同じですが、無理だといわれてもトライすることです。Ouiといわれたら儲けものですよね。結果、『仕立て屋の恋』や、『髪結いの亭主』で一緒に仕事ができましたから。
 
―――ルコント監督作品といえばレコードがよく登場しますね。
ルコント監督:ほとんどの作品で少なくとも一度はレコードをかけるシーンがあります。『仕立て屋の恋』や、『髪結いの亭主』では常にクローズアップのカットを挿入しています。実は、次回作でもレコードに針をおとす瞬間のクローズアップシーンあるのですが、撮影監督は僕がレコードプレーヤーにカメラを近づけているのを観て「またルコントショットを撮るんだね」と笑っていました。
 
音楽は好きですが、映画における音楽がとても好きで、音楽なしの映画は作れません。レコードに針を落とすシーンを入れるのは、これから音楽がはじまることをみなさんに知らせる意図があります。アメリカ映画は終始音楽が流れたり、観客が気づかない感じで流れていますが、そういう投げやりな感じは好きではないのです。
 
 

■最新作『暮れ逢い』について

 
―――『歓楽通り』では、パリにおける娼館システムが終わり、そこから女性がどう生活していくのかというフランスのシビアな時代が背景となっていました。主人公男性の人物造詣に驚かされましたが。
ルコント監督:主人公のプチ・ルイは娼館の雇われ人で、レティシア・カスタ演じる娼婦マリオンに恋をします。プチ・ルイは絶対マリオンが自分の彼女にならないとわかっているので、彼女が幸せになれるような男を捜してきます。無償の愛ではあるけれど、実は代理恋愛ともいえます。そう考えてみると『歓楽通り』の三角関係は、『暮れ逢い』の三角関係にも似ています。青年フリドリックはすごく恋をしているけれど、それは許されない恋です。相手の女性は自分のパトロン(実業家ホフマイスター)の妻であり、社会的地位もあり、叶わぬ恋なのです。一方で「どんな恋も不可能ではない」と原作者のシュテファン・ツヴァイク自身は言っています。
 
kureai-1.jpg―――『暮れ逢い』では青年フリドリックがホフマイスター邸に来て、彼の若妻ロットに出会います。2階から降りてくる彼女を仰ぎ観る初対面のショットが二人の関係を象徴していました。
ルコント監督:後半、フリドリックがメキシコに行くまでは、ずっとフリドリックの視点で描いています。出会いのシーンは、階段上にいるのが、階層が上のロットという意味もあります。でも、ロットは階級が上だからといって、それを利用せず、ちゃんと階段を降りてフリドリックと同じ目線になるのです。恋愛のプロセスも対照的で、フリドリックは一目惚れです。ロットの場合はもっと緩やかで、恋に至るプロセスが長いです。夫のホフマイスターの方が、ロットが自分の気持ちに気づく前に彼女の中に芽生えた恋心に気づいています。
 
―――第一次世界大戦前後のハンブルグが舞台であり、メキシコの革命とその後の鉱山開発も描かれていましたが、ロケ地や歴史的背景について教えてください。
ルコント監督:フレデリッヒがメキシコにいくのは、できるだけドイツから離れた場所に遠ざけるという意味で原作の小説にもある部分です。大事なのは第一次世界大戦が勃発して、帰れなくなる場所であることです。恋する女性(ロット)にとって本当に耐えられない距離ですから。フランスとベルギーの合作なので、撮影はベルギーで行われました。フランスでは理想的な場所がなかなか見つけられなかったのです。
 
―――『暮れ逢い』で新たに自分の表現として挑戦したことは?
kureai-3.jpgルコント監督:「挑戦」という言葉はあまり好きではないですが、新しい冒険という意味では、英語でイギリスの俳優と一緒に仕事をしたことでしょうか。僕にとって初めての経験でしたが、みなさんの想像を超えるぐらい楽しみました。ツヴァイクの短編小説は時代が背景ですが、今の人間に通じるエモーションを伝えたいと思い英語にしました。時代劇でありながら、現代の感情とフィットする映画を作ろうと思っていたので、オリジナルなことを今回の撮影で取り入れました。毎朝撮影現場に俳優が到着し、今日撮影するシーンの動線を普段着のままで確認します。うまくいけばようやく控え室で衣装に着替える訳です。その間に技術的な準備を進めます。時代の衣装で演じるのではなく、Tシャツとジーンズでやってみる。それはとても大切で、役者にとってだけでなく僕にとってもすごく重要でした。普段着で演じ、感情が伝わるのなら、このシーンはうまくいくという確信がもてるのです。生の、むき出しのままで、衣装や光などが機能しなくてもちゃんと伝わるかどうか。これは今までしなかったことです。将来的に時代劇を撮ることがあれば、このエクササイズをまた採用しようと思います。
 

  

kureai-di-1.jpg■ルコント監督の次回作、人生で一番大事に思っていることは?

 
―――次回作について教えてください。
ルコント監督:12月31日にフランスで公開される『Une heure de tranquillité』です。フランスでの宣伝があるので、京都からとんぼ返りしなくてはなりません。そして私の一番大好きな脚本書いて撮影する時期に入るのです。
 
ずっと私のキャリアでは色々なことをやってきましたが、色々なことにチャレンジするのはいつも覚醒状態にいたいからです。監督が退屈していたら、観客はもっと退屈するはずですから。次回作は『Une heure de tranquillité』は『暮れ逢い』と真逆で、とても軽やかでスピーディーな作品です。一人の主人公はレアものレコードのコレクターで、ある日レコード屋でずっと昔から探していたレコードに出くわし、家に戻ってレコードを聴こうとするのですが、たった1時間レコードを聴くだけの時間をなかなか見つけられないのです。映画のタイトルの邦訳は「1時間の休息」で、現代社会はスピーディーに流れていて、レコードを聴くほんの1時間もとれないことを揶揄しています。
 
―――ルコント監督が人生の中で一番大事だと思うことは何ですか?
ルコント監督:私が思う世界で一番大切なことは他者を尊重する、リスペクトするということです。それ以上大事なことはありません。もし世界中の人々がそのことを心にとどめて生きていれば、戦争もテロも飢えで死ぬ人もおらず、バイオレンスにあうこともないでしょう。
 
(江口由美)
 
★第6回京都ヒストリカ国際映画祭 公式サイトはコチラ
★『暮れ逢い』は、2014年12月20日(土)~シネスイッチ銀座、シネ・リーブル梅田、シネマート心斎橋、京都シネマ、シネ・リーブル神戸 ほか全国順次公開
★公式サイト⇒ http://www.kure-ai.com/
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第8回おおさかシネマフェスティバル授賞式より
 
 2006年の第1回から今年3月の第9回まで、大阪市の支援(助成金)を受けて開催されていた大阪の春の風物詩、おおさかシネフェスティバル。総合司会、浜村淳さんと受賞ゲストとの爆笑トークで大いに盛り上がる、大阪らしい手作り映画祭として、映画ファンにも親しまれてきました。ここ数年は「大阪アジアン映画祭」の一部門として同様のバックアップを得て開催してきたおおさかシネマフェスティバルですが、大阪アジアン映画祭の事情により、来年は助成対象からはずれ、存続を模索してきました。
 
このたび、前身となる「映画ファンのための映画まつり~おおさか映画祭」(11976~2000年)の原点に返り、関西在住の映画ファン有志による自主運営という形で実行委員会を立ち上げ、「第10回おおさかシネマフェスティバル~映画ファンのための映画まつり~]として継続。2015年3月1日(日)、堂島のホテルエルセラーン大阪にて開催することが決定しました。シネルフレもスポンサーとして、第10回おおさかシネマフェスティバルをサポートします。
 
2015年2月7日のチケット一般発売に先駆け、おおさかシネマフェスティバルでは、お客様がより映画祭を楽しみ、思い出深い一日にしていただける特典付の最前列指定席付スペシャル・サポーターや、サポーターを募集中です。尚、ベストテン発表及び受賞結果、当日プログラムは2015年1月31日に発表予定です。
 
サポーター詳細、お申込みは
おおさかシネマフェスティバル実行委員会 事務局 
Tel 070-1762-0655  Fax 06-4800-4900
ホームページ http://www.oocf.net/
 

【おおさかシネマフェスティバルの由来】
 
 1976年に大阪・中乃島の関電ホールで「第1回映画ファンのための映画まつり」として開催。「関西在住の映画ファンが選ぶ」前年度の邦・洋画のベストテン・個人賞を表彰するイベントで、受賞者の映画人と映画ファン大阪の地でスキンシップを図る映画祭としてスタートしました。
発案者は映画監督の大森一樹氏、関本郁夫氏、映画記者・高橋聰で、グループ無国籍、シネマ自由区のメンバーが実行委員会を形成。第1回はひし美ゆり子さん、多岐川裕美さんら多くの俳優さんが来場し楽しいイベントになりました。以後、場所を大阪・三越劇場、京都・京一会館、神戸・バートンホールなど替えながら継続。第2回の水谷豊さん、原田美枝子さん、第3回のマキノ雅弘監督、鈴木清順監督、第4回の松田優作さん、原田芳雄さんらとの楽しいトークシーンが懐かしく思い出されます。第11回の守口文化センター開催から「おおさか映画際」という冠を付けて地元映画祭の特徴付けを行い、同所で第25回まで連続開催。大林宣彦監督、竹中直人監督、内田裕也さん、原田知世さん、原田貴和子さん、冨司純子さん、山下耕作監督、俊藤浩滋プロデューサーなど大勢が来場してくださいました。
 
第25回開催で「映画まつり」の灯は一度消えましたが、5年後、2006年開催の「第1回おおさかシネマフェスティバル~映画ファンのための映画まつり~」でよみがえり、大阪・鶴見区民センター、心斎橋そごう劇場(現・大丸心斎橋劇場)を経て、第3回から大阪歴史博物館講堂に場所を移し、今年の第9回まで継続。第4回の藤田まことさん、尾野真千子さん、第5回の笑福亭鶴瓶さん、松坂慶子さんらが場内に熱気を呼んでくださいました。第回からボランティアで司会とインタビュアーを務めてくださった浜村淳さんの名調子が、映画祭の名物になり今年まで続いています。
 

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~杉野希妃が鮮やかに映し出す、男女の性/生への欲求とその行く末~

 
深田晃司監督『歓待』、内田伸輝監督『おだやかな日常』と、プロデュース、主演作が世界で反響を呼び、来年公開の初監督作品『マンガ肉と僕』が第27回東京国際映画祭「アジアの未来」部門でワールドプレミア上映された、世界が注目する日本映画界のミューズ、杉野希妃。監督2作目で初劇場公開作品となる『欲動』と、主演作『禁忌』が12月20日(土)からシネ・ヌーヴォを皮切りに関西にて同時公開される。
 
今までは社会的な題材を内在させていた感のある杉野プロデュース作だが、この2作品はむしろ普遍的な男女の性や生を取り上げているのが特徴的だ。ヒロインを演じる三津谷葉子との出会いからプロジェクトが動き出したという『欲動』は、全編インドネシア・バリ島ロケの神秘的かつ情熱的な作品。ヒロイン、ユリの中に眠っていた性の欲動が駆け抜ける様を、三津谷が体当たりの濡れ場を交えながら、情熱的に演じ、煌めく女の姿をみせる。冒頭からバリ島の「ジャジャジャ」という歌や踊りで始まり、全編に渡って観光地とは違った地元の風情に触れることができるのも、大きな魅力だ。
 
一方、同時公開される『禁忌』は、監禁、レイプ、同性愛、少年愛とセクシャルマイノリティーの世界がモーツァルトの調べにのって、抑えたトーンで描かれる。どこか観るものに想像させる余地を与える描写は、衝撃的な設定ながら、厳粛で時には美しい儀式のようにも映る。本作が初の商業長編監督作となる和島香太郎の描く性的マイノリティーの世界は、ふと韓国のキム・ギドクを思わせるようなえぐみや深みがあった。杉野演じる、内心が読めない美人教師サラや、太賀が演じる監禁された少年、望人(モト)、そして佐野史郎が演じる望人を監禁したサラの父が繰り広げる奇妙な三角関係や、その行く末にも注目したい。
 『欲動』で監督、プロデューサー、出演を務め、『禁忌』でプロデューサー、主演を務めた杉野希妃に、両作品の企画段階の話や、撮影秘話、作品の狙いについてお話を伺った。
 

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『欲動』

―――とても土着感を感じる作品で、バリ島の神秘性や祭りの躍動感に溢れていました。インドネシアスタッフを多数起用し、全面バリ島ロケをされたのも国境を越えて活躍する杉野監督らしい作品ですね。この『欲動』の企画はどのようにスタートしたのですか?
杉野:6年前、ちょうど私がプロデュースのお仕事を始めた頃、まだ監督になれるかどうか分からないけれど、出来るのならこういう話を描いてみたいと、簡単なアイデアを書いていました。元々は、主人公の歌手がバリ島に行き、性的に解放され、殻を破って一歩外に踏み出すというストーリーでした。当時、私自身が表現の仕方に悩んでいたのでこのような話を考えたのですが、この6年間でやりたいことが変わり、もう少しドラマの部分を構築しないと映画として成立しないし、私自身もやりたくないと、一旦企画を寝かせていたのです。ただ、絶対にバリ島で撮影したいということだけは決めていました。インドネシアのガリン・ヌグロホ監督作品を観て、興味深い場所だと思っていましたし、民族音楽のガムランやケチャも間接的に知っており、バリは私自身が殻を打ち破れそうな何かがあると思いました。行ったことはなかったですが(笑)。
 

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―――バリで撮影したいという強い願望があったとのことですが、寝かせていた企画が再び動き出したのは、何がきっかけですか?
野:私の主演作、『おだやかな日常』を三津谷葉子さんが気に入ってくださっているという話を耳にし、直接お会いしたのです。三津谷さんは人間的に素晴らしいし、とても真面目な方で、直感的にこのバリの話を一緒にやれば絶対に面白くなる。そして、三津谷さんの今までにない姿を焼きつけられる作品になると思いました。
 
6年前は主人公を自分で演じたいと考えていたのですが、監督としてもまだキャリアが浅い上に合作映画ですから、単独主演の役を自分で演じるのは無理だと思っていました。でも三津谷さんなら一心同体になってやっていただけそうな気がしたので、この企画のことをお話してみると「面白そうですね」と快諾いただいて。結局撮影に入る1年ぐらい前から、三津谷さんと脚本家と私の3人で、どういうお話にしていけば、より三津谷さんの良さが活かせ、作品としても面白くなるのかを考えていきました。ある程度の段階で脚本を三津谷さんに見せ、意見をもらって、またこちらで書き直すという作業をしていきました。
 
―――三津谷さんは後半になるにつれ情熱的になり、自分を解放していく妻ユリを大胆かつ繊細に演じていました。実際に脚本でも意見を出したという三津谷さんですが、現場での様子や撮影が進む中での変化はありましたか?
野:三津谷さんはこの作品に対する気合が凄かったです。私も三津谷さんも気持ちは同じで、三津谷葉子という女優がイキイキとした作品にしたかったですし、海外でも通用する作品にしたいという思いがありました。一緒に企画開発しているときから気合を入れて臨んでくれましたので、現場でも並々ならぬ覚悟で臨んでくれたと思います。
 
三津谷さんは普段からすごく肝が据わった方です。太陽のように明るく、人に対しての気遣いも素晴らしいし、今回演じたユリのキャラクターはとは全く違います。現場では監督の私の方が助けられました。どんなハプニングが起こっても、「大丈夫です。やります」と言ってくれ、スタッフの誰よりも冷静だったのは三津谷さんと斎藤工さんだったのではないかというぐらい、一番落ち着いていました。三津谷さんや斎藤さんと組むことで、監督の私の方が勉強になりましたね。
 
―――ユリの夫、千紘を演じた斎藤工さんは、死に直面し、苦悩しながらも、最後はユリと情熱的に交わることで夫婦の絆を取り戻していく難しい役どころです。
野:普通は監督が役者をケアしなければいけないのですが、斎藤さんは短編映画の監督もされているので、「何か大変なことがあれば言ってくださいね」とよく声をかけてくださいました。三津谷さんも同じように声をかけてくださり、大変なシーンがたくさんあるにもかかわらず、監督の私の方が逆にケアをしていただいた感じです。
 
例えば、私が演じる千紘の妹・九美の出産シーンがあり、事前にカット割りを指示していたのですが、いざ出産のためいきむシーンを演じはじめると、途中で段取りが分からなくなり、頭の中が混乱したことがありました。そんな時も斎藤さんは、さり気なく「監督、ここから撮ればすごくキレイですよね」と言ってくださり、助かりました。気遣いがありながら、絶妙のタイミングでケアをしてくださるので、本当に素晴らしい方だと思います。役者としても、今回は怒りをぶつけたり、それに対して自己嫌悪に陥ったり、(死んで)妻と離れなければならないことに対して葛藤する、とても繊細な役でしたが、千紘の激しさや切なさを自然に演じてくださいました。
 
―――最後に、撮影中に様々な「奇跡」が起こったそうですが、印象的なエピソードはありますか?
野:本当にたくさんのハプニングがある現場でした。バリ島は神聖な場所ですし、こちらが予想もできないようなことが色々と起こる場所でした。例えば、元々予定していたユリと地元のジゴロ・ワヤンとのラブシーンも、最初は浜辺の近くで撮るつもりでしたが、神聖な場所だから駄目だと直前に言われ、別の場所を探したら満月の日だったので今度はセレモニーが始まってしまいました。皆準備して行っているのに、いつ終わるか分からないセレモニーを待機するのは大変なのですが、現地のスタッフは「明日撮れるよ」と呑気な声をかけてきます。でも日本人スタッフはきっちりしていて、撮影スケジュールがただでさえ押しているので駄目だと、意見が食い違ったりもしました。
 
結局は後日なんとか撮れ、そのときの月がとてもきれいで、小雨が降ったりやんだりしていたので幻想的な雰囲気の映像になりました。予定通りに撮っていれば、そんな雰囲気にはならなかったでしょう。このように、予定していた通りには撮れなかったけれど、結果的にいい映像になることがたくさんありました。京都や滋賀で撮影した『マンガ肉と僕』の場合は、ある程度こちらでコントロールして撮影できましたが、バリ島の撮影は、全くそういう手順ではできません。人間は自然に翻弄されながら生きていることを実感するような現場でした。私たちは、動物や植物や現地の人と共生しながら生きていることを、考えさせられました。
 

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『禁忌』

―――かなり過激な性的要素を盛り込みながらも、生々しく描写するのではなく、想像の余地を与えるような描き方がされています。また、徹底的に俯瞰した視点で描かれているので、ほどよい距離感を保ちながら作品と向き合えました。杉野さんは本作ではプロデューサー兼主演ですが、この作品の狙いや意図について教えてください。
野:私は和島香太郎さんの短編映画がすごく好きで、長編映画をまだ作っておられなかったことから、長編作品を初監督されるときは一緒に作りませんかと、こちらからお声かけしました。マイノリティーを描きたいと話し合い、和島さんが考えられたのがこの作品でした。ベースにある望人、サラ、サラの父親の親子で三角関係になるという構図が今までみたこともないものだったので、これは面白い作品になると思いました。マイノリティーの方々に寄り添うというよりは、今回俯瞰的に描いています。彼らの孤独や欲望を突き詰めた先に、どういうことが起こるのかという部分まで描いたら良いのではないかと考え、企画を進めていきました。
 
―――今回、杉野さんが演じたサラは共感を呼ぶキャラクターではありませんが、どこか目が離せない魅力がありました。複雑な内面や欲望を持つ女性を演じ、しかもほぼ全編に渡り登場シーンがあり、今までの女優キャリアの中でも一つ壁を超えるぐらいのチャレンジをされたのではないかと思うのですが。
野:今までは等身大に近い役が多かったと思います。また、私はまだ結婚や出産はしていませんが、母親役や妊婦役なども、日常生活に近い物語であり、私の中の何かを使って演じる感じでした。監督からも、役を自分に引き寄せることを求められていましたし、私もそのように演じるパターンが多かったです。今回のサラ役は、テーマ的に共感する部分はありますが、キャラクターも性格も全然違います。そのような役に対して、自分で作り込んで入っていかなければならなかったので、挑戦しがいがあり、ワクワクしながら演じる一方、難しさも感じました。
 
―――杉野さん同様にかなりの難役なのが、太賀さん演じる望人です。実年齢よりかなり下の年齢の少年や青年の顔を演じ分け、今回は杉野さん演じるサラとの激しい絡みもありました。今まで杉野さんは太賀さんとの共演や監督作にも起用されていますが、現場ではどのような感じでしたか。
野:太賀さんは今まで三作品でご一緒しているのですが、20代でこんなにすごい役者は他にいないのではないかというぐらい信頼している大好きな役者さんで、今後私が携わる作品には全て出演していただきたいぐらいです。ただ、今回は14歳の役ということで、オファーをしてから返事をいただくまでかなり時間がかかりました。太賀さんご自身が、本当に自分が望人役を演じていいのかと悩んでいたそうですが、私の中では、望人を演じられるのは太賀さんしかいないだろうと思っていました。
 
望人は両親に虐待され、親の愛に恵まれない辛い人生を送ってきたので、サラを盲信してしまいます。ひどい目に遭ってきたけれど、とても純粋な内面を持つ役です。太賀さんは20代ですが一つ一つの仕草をとても少年らしく演じてくれましたし、彼でなければできないような表現力を見せてくれました。ウルウルと目を潤ませた表情をされたときは、「こんな太賀さんは初めてみた!」と思いながら一緒に演技をしました。太賀さんの新しい一面が見えたのがうれしかったですね。
 
(江口由美)
 
<作品情報>
 
『欲動』
(2014年 日本 1時間37分)
監督:杉野希妃
出演:三津谷葉子、斎藤工、杉野希妃、コーネリオ・サニー
『禁忌』
(2014年 日本 1時間13分)
監督:和島香太郎
出演:杉野希妃、太賀、佐野史郎
2014年12月20日(土)~シネ・ヌーヴォ、2015年1月17日(土)~京都みなみ会館、元町映画館
 
 

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『海月姫』(くらげひめ)試写会プレゼント!

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■ 提供:アスミック・エース
■ 日時:2014年12月19日(金) 
    18:00開場/18:30開映
■ 会場:御堂会館
〒541-0056 大阪市中央区久太郎町4-1-11
    TEL(06)6251-5820(代表)
    FAX(06)6251-1868
    地下鉄御堂筋線本町駅8号出口南へ200m
    地下鉄中央線本町駅13号出口南へ50m  
■ 募集人数: 5組 10名様
■ 締切:2014年12月11日(木)
■ 公式サイト⇒ http://www.kuragehi.me/

2014年12月27日(土)~大阪ステーションシティシネマ、なんばパークスシネマ、MOVIX京都、神戸国際松竹 他全国ロードショー


『海月姫』(くらげひめ)

オタク女子集団に突如降りかかった、史上最大のピンチ!
彼女たちが仕掛けた大勝負とは!?

我がオタク人生をかけて、出陣であります!
笑いと涙と萌え!【オタクすぎるシンデレラ・エンタテインメント】

 

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【STORY】
月海は、イラストレーターを志すクラゲオタク女子。小さい頃、亡き母と一緒に見たクラゲのようにひらひらのドレスが似合うお姫様になれる・・・こともなく、今やすっかり腐った女の子に。男子禁制のアパート “天水館”で、「男を必要としない人生」をモットーとする “尼~ず”たちとオタク道を極めたそれなりに楽しい日々を送っていた。

ゆるい日常は、女装美男子と童貞エリートの兄弟の出現によって揺るがされる。さらに、彼女たちの住まいであり心のより所でもある「天水館」=「聖地」が奪われる危機がぼっ発!!彼女たちは聖地を守れるのか?尼~ずはバラバラになってしまうのか?そして、「男を必要としない人生」のゆくえは!?
 


出演:能年玲奈  菅田将暉/池脇千鶴 太田莉菜 馬場園梓(アジアン) 篠原ともえ/片瀬那奈 速水もこみち 平泉成/長谷川博己
監督:川村泰祐 脚本:大野敏哉/川村泰祐 
原作:東村アキコ「海月姫」(講談社『Kiss』連載)
ドレスデザイン/スタイリスト:飯嶋久美子 
音楽:前山田健一 
主題歌:SEKAI NO OWARI「マーメイドラプソディー」TOY'S FACTORY INC
製作:『海月姫』製作委員会 制作・配給:アスミック・エース 制作協力プロダクション:ギークサイト 
(C)2014『海月姫』製作委員会(C)東村アキコ/講談社

 2014年12月27日(土)~大阪ステーションシティシネマ、なんばパークスシネマ、MOVIX京都、神戸国際松竹 他全国ロードショー

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『TATSUMI マンガに革命を起こした男』別所哲也さんインタビュー
 
『TATSUMI マンガに革命を起こした男』(2011年 シンガポール 1時間36分)
監督:エリック・クー
原作:辰巳ヨシヒロ『劇画漂流』 
声の出演:別所哲也、辰巳ヨシヒロ他 
2014年11月15日(土)~角川シネマ新宿、11月29日(土)~テアトル梅田、2015年1月17日(土)~京都シネマ、1月~シネ・リーブル神戸他全国順次公開
公式サイト⇒http://tatsumi-movie.jp/
(C) ZHAO WEI FILMS
 

~別所哲也が語る、世界が絶賛する劇画“TATSUMI”ワールドと一人六役の“挑戦”~

 
日本が世界に誇るアニメーションの中でも、よく耳にする“劇画”が実はどのようなものであり、誰によって誕生したか知っている人は少ないのではないだろうか。戦後大阪で手塚治虫に憧れてマンガを描き続けた青年、辰巳ヨシヒロが、深みのあるリアルな描写で大人のためのストーリーマンガを“劇画”と宣言したのが1959年のこと。以来、高度経済成長の陰で、怒りにも似た感情を時には情熱的に、時には哀愁を込めて描く作品を作り続けてきた。
 
海外では、アニメ界のアカデミー賞と呼ばれるアイズナー賞を受賞し、本屋では平積みで置かれるほど絶大な人気を誇っている辰巳ワールド。マンガの世界で社会を風刺する世界観を表現できることから、バンド・デシネ(フランスのアニメのジャンル)というアート性や社会性を持ち、メジャーな人気を誇るカルチャーにも大きな影響を与えている。
 
辰巳ヨシヒロの大ファンであるシンガポールのエリック・クー監督が、辰巳ヨシヒロの自伝的劇画『劇画漂流』から辰巳ヨシヒロの半生を描くと共に、辰巳ワールドの伝説的な短編マンガ『地獄』、『いとしのモンキー』、『男一発』、『はいってます』、『グッドバイ』を挿入。戦後、日本が歩んできた復興の陰にある市井の人々の苦悩や哀しみが、迫力のある絵と、劇画の雰囲気を損なわない絶妙の色合いで、今を生きる我々に訴えかけてくるのだ。
 
短編マンガでナレーションをはじめ6人のキャラクターの声を一人で演じた俳優、別所哲也さんに、辰巳ヨシヒロさんの劇画の魅力や、一人六役を演じた感想、日本にいる私たちが辰巳ワールドに触れることの意義などについてお話を伺った。
 

■成熟したヨーロッパ社会で熱狂的に受け入れられている辰巳ヨシヒロさんの世界。その社会性と過激さから、知られないような社会になっている日本は、むしろ怖い。

━━━辰巳ヨシヒロさんの劇画をいつお知りになりましたか?またその印象は?
別所:恥ずかしながら、この作品で声の出演というオファーがあるまでは辰巳ワールドを知りませんでした。何故なのかと考えてみると、描かれている世界が過激で、社会性を帯びているので子どもからは遠く離して見せたくないという事情や、いじめや理不尽さ、情けなさや格好悪さが描かれているからなのです。物語を作るとき、僕たちは知らぬ間に格好よくて、ヒーローで、夢があって、元気なキャラクターの方に目を向けてしまいがちです。でも、人間にはもう一つの面、いわゆるアザーサイドがあり、それをダークと捉えるのか、人間の一部と捉えるのかという部分で、日本とヨーロッパは感じ方に違いがある気がします。
 
ヨーロッパで本作や辰巳ワールドが圧倒的に支持されているのは、人間力や成熟した社会が背景にあるからです。日本は辰巳ワールドが実在していた場所なのに、僕も含めて知らない、もしくは知られないようになっている社会になっていて、むしろ怖いと思いますね。
 
━━━エリック・クー監督から別所さんに直接オファーがあったそうですが、その経緯は?
別所:ハリウッドで映画デビューしていることや、僕が携わっている国際短編映画祭を含め、世界の映画祭を通しての交流が根底にありました。エリック監督のことはカンヌ映画祭に出品されておられたのでお互いの存在は知っていたのですが、間を取り持つプロデューサーが入ってくれたことで、全てが一つに繋がっていきました。正直、最初にオファーを受けたときは驚きましたが、彼にしてみれば日本人でありながら英語でクリエイティブな話も含めコミュニケーションがとれ、辰巳ワールドがなぜ日本に息づいていないのかと共感できる人も探していたのだと思います。
 

■辰巳ヨシヒロのキャラクターの分身として、人間の情けなく、いやらしく、ダメな部分を演じ分けたことが、やりがいに。

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━━━今回6人の役を演じ分けましたが、監督からはどのような指示がありましたか?
別所:最初は女性の役も全部やってほしいと言われました。演出の意図としては、辰巳先生の創り出したキャラクターは先生の分身だから、それを一人の役者が演じたら面白いのではないかということだったのでしょう。声優経験はありますが、そのときは一人一役でしたし、正直悩みましたが、辰巳先生のキャラクターの分身として演じ分けるのだと解釈すれば腑に落ちました。日本では落語もありますし、普段の自分ではできない役を劇画の中で演じるというのは俳優としてすごく演じ甲斐がある、チャレンジングなことです。国際的なプロジェクトでもありましたし、これはやろうと気持ちが固まりました。
 
━━━実際にどうやって6人のキャラクター(声)を作り上げていったのですか?
別所:ただ単に声を変えるのではなく、各キャラクターの立ち方や生活習慣、考え方などのパーソナルヒストリーを自分で作っていき、「重心が高い人だから早口なのではないか」とか、「スタスタ歩くから息遣いが荒くなるのではないか」などと考えて作っていきましたね。
 
━━━なるほど、一人一人演じるかのごとく、声を作りあげたわけですね。
別所:一球入魂ではないですが、一つ一つキャラクターを作っていくのはとても面白かったです。自分の肉体を動かして作っていくのとは違い、声を出して映像もあって、辰巳先生の世界とエリックの演出をその場の反射神経で受け止めながら作り上げていきました。声の質もそうですが、自分でも「俺ってこんな声が出るんだ」と、今まで自分で意識しないような声も出たのには驚きました。催眠術にかかっているようで、映像を見ながら自分で覚醒していく感じが面白かったです。
 
━━━それだけ辰巳ヨシヒロ先生の絵に力があったのでしょうか?
別所:『地獄』や『愛しのモンキー』、『男一発』等、ちょっとドキッとするようなことが起こるんですよ。物語の持っているドラマチックさや意外性に役者としても火をつけられた気分で動いていったのかもしれません。
 
━━━実際に辰巳ヨシヒロ先生の分身ともいえる6つの役を演じたことで、別所さん自身何か見えてきたことや、辰巳ワールドについて思うことはありましたか?
別所:僕たちは昭和40年代生まれで高度経済成長の恩恵を受けて育った世代ですが、辰巳ワールドはオリンピック景気以降、日本を一気に引っ張ってきた僕たちの両親の世代が後ろも振り返らず生きてきた時代の世界観が、多く描かれています。社会の重みもずしりと感じましたし、日本の戦後の良くも悪くも生まれ変わって前進する時代を体感できました。
 
キャラクター的には、僕のように身長が186センチもあるような俳優に、弱々しかったり、引っ込み思案だったり、自己主張できなかったり、どちらかといえば負け組のキャラクターは今までオファーがこなかったです。今回そういう役を演じることができ、とてもやりがいを感じました。人間の情けなくて、イヤらしくて、ダメな部分を演じられてこそ、初めて俳優と呼べるのかなと思いますし、そういう経験ができたのはすごく良かったです。
 

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■「辰巳先生に対する思いを映画で真空パックに」エリック・クー監督が挑んだ最初で最後のアニメ作品。

━━━エリック監督の辰巳ヨシヒロ先生に対する思いが、作品から伝わってきました。シンガポールの監督でありながら、本当に細部まで描かれていましたね。
別所:エリック監督は辰巳先生に心酔しています。若い頃辰巳先生の劇画に出会い、多感な少年期にヒーローの世界ではなく、人間のダメな世界が描き出されているのを見て「これだ」と思ったそうです。それ以来ずっと辰巳先生の作品を読み続け、今回辰巳先生の絵の世界観を残して、辰巳先生に対する思いを「映画で真空パックにしたい」と作品に臨んでいます。基本は実写の監督なので、「一生でこれが最初で最後だ」と宣言していますし、僕以外の声の出演者はドキュメンタリーのように一般の方を起用しています。ドキュメンタリー的な世界観の中で、劇画の部分だけ俳優を使って動かしていくという構成ですね。
 
━━━エリック監督の演出はかなり厳しかったですか?
別所:厳しいというより、要求が多かったです。撮影は2日半でしたが、ずっとスタジオに缶詰で、気がつけば水も飲まずに、3時間休憩なしという状況でした。とてもアジア的でアーティストの熱気を感じましたね。劇中に登場する阪急電車のシーンではエリックが唯一うなだれて「僕は日本人ではないから、この時代の電車の色が分からない・・・」と必死に調べていました。辰巳先生の作品は白黒ですから、色合いを作り出すのにかなり苦労したようです。
 
━━━海外の映画祭や劇場では既に上映され、ようやく日本での劇場公開ということで、エリック監督をはじめ、別所さんも特別な思いがあるのでは?
別所:とても残念なことに今、辰巳先生が病床にいらっしゃる状況です。本当ならば辰巳先生は大阪ご出身なので、関西で公開される際に劇場のお客さんの様子を見ていただきたいところなのですが。10年に声で参加し、東日本大震災が起きた11年にカンヌ映画祭へ行き、東京国際映画祭で賞を頂き、12年のアメリカ・アカデミー賞にシンガポール代表として選出され、その後、世界中で上映され、現在に至っています。本当に感無量ですね。

 

■大阪出身の辰巳ヨシヒロが熱望した地元公開。ちょっとほろ苦くて、ドキッとする大人の辰巳ワールドを全てのマンガファンに観てほしい。

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━━━ようやく最後に日本での公開が叶った格好ですね。
別所:これも運命なのでしょう。やはり日本では本作は邦画なのか洋画なのか、ドキュメンタリーなのかアニメなのかと問われてしまいがちですが、『TATSUMI マンガに革命を起こした男』はジャンルレスです。型破りのところがあるので、観ようと思っても戸惑いがあるのではないでしょうか。僕も最初は辰巳先生を知りませんでしたが、本作を観たら本当に大切なものを持ち帰れます。日本公開までに時間をかけて映画が成熟していき、芳醇な香りと共に上映されるのもいいなと受け止めています。
 
ただ、少し辛辣なことを言えば、日本では本作のようなインディーズ的な世界観や、GでもPGでもないようなちょっと過激で、子どもに見せてもいいの?という部分があると、どこか遠くへ追いやってしまい、あまり自分の中で大きく取り上げたりしなくなってしまう傾向がありますね。
 
━━━話題にすることもはばかられるような雰囲気はありますね。
別所:日本の悪いところですよ。ちょっと棚上げしたり、先送りしたりという感覚が、ヨーロッパから見れば不思議で仕方がなく映るのです。本作を観ていただければ、そのあたりの日本のカラクリ自体にも気付いていただけるのではないでしょうか。もっとこういう世界に、観る方も成熟して向き合っていくのが普通のことですから。今日本では、昔話で残酷な場面を「子どもに見せるのはふさわしくない」と書き換えたという話題も耳にしますが、理不尽なことや残酷なことにきちんと物語で触れていないと、本当に理不尽なことや残酷なことが分からなくなってしまいます。でも今は逆で、「残酷なシーンを見せるから、猟奇殺人などが起こる」と言われ、触れることを排除する方向に向かっていますね。
 
辰巳先生が描いてきた世界は、万人がヒーロー感を満喫したり、健康的と感じる世界ではありませんから、今観ることに意義があると思います。
 
━━━本作に携わったことで、別所さんのこれからの役者人生でチャレンジしたいことや、新しい可能性が見えてきたのでは?
別所:人間の情けなさや哀しさ、ダメさを表現できる人間臭い表現者になっていきたいです。そして、涼やかに、軽やかに演じたいですね。人間だから「ああ、そういうことがあるね」と腑に落ちたり、心当たりがあるようなことは大事な気がします。また、俳優は「人に非らず」と書くのですが、例えば架空のモンスターのような、人を超越したキャラクターを演じる跳躍力も劇画の役を演じる中で養われたと思います。今まで演じてきたようなトレンディーな感じではない役の方が、俳優としては演じごたえがある気がしますね。
 
━━━最後にこれから劇場でご覧になるみなさんに、一言お願いします。
別所:辰巳先生は大阪出身の方なので、関西での上映を楽しみにされています。世界中の観客や京都のマンガミュージアムに足を運ぶようなマンガファンが絶賛している世界です。スタジオジブリの作品や押井守さんのような世界も素敵ですが、そういう劇画アニメや、ルパン三世を観た人たちや、ドラえもんが好きな人たちにも観てほしいです。ちょっとほろ苦くて、ドキッとする大人の味もしますが、現在大人のあなたにも、これから大人になるあなたにも、「大人ってこういうことじゃない?」「これを受け止めて、大人になろうよ」とメッセージを送りたいです。
(江口由美)
 

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今年で第19回を迎えた神戸100年映画祭。毎年テーマを設定し、神戸で撮影した作品や往年の名作を上映、ゲストを迎えてのトークを交え、映画ファンにとって神戸の秋の風物詩となっている映画祭だ。第19回のテーマは「あの女優に会いたい」。NHK連続テレビ小説に主演した女優たちの作品を特集上映したり、元町映画館では過去から現在を射抜く女性が主人公の『エレニの帰郷』、『フランシス・ハ』が上映された。また、11月15日から全国公開される『紙の月』プレミア試写会では、吉田監督をはじめ主演の宮沢りえ、池松壮亮が登壇し、神戸ロケのエピソードを披露。そして神戸アートビレッジセンターにて「新開地 淀川長治メモリアル」で伝説の女優たちの作品、『モロッコ』、『カサブランカ』、『哀愁』、『めし』が上映中された。

 

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去る10日に神戸文化ホール中ホールで開催されたメインイベントでは、第1回神戸100年映画祭で『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』のゲストとして夫、篠田正浩監督と登壇した岩下志麻さんが久しぶりに映画祭ゲストとして来場。「岩下志麻さんを迎えて」上映会&トークショーと題して、岩下さん自身が上映を希望された代表作『はなれ瞽女(ごぜ)おりん』と名匠小津安二郎監督の遺作『秋刀魚の味』が上映された。

トークショーでは、『昭和の女優』著書で岩下さんへのインタビュー経験も多数という伊良子序氏(神戸100年映画祭顧問)が聞き手となり、今だから話せる撮影エピソードや女優人生について思わず笑いが飛び出すような和やかなトークが展開された。その主な内容をご紹介したい。
 

 

■『はなれ瞽女おりん』撮影エピソード

―――岩下さんは徹底した役作りで有名ですが、『はなれ瞽女おりん』で演じた盲目の瞽女(ごぜ)役はどのように役作りをしたのですか。
岩下:暗闇恐怖症なので、盲目の女性の役がきたとき、暗闇に慣れるか不安でした。化粧をしたり、風呂に入ったりするときも目をつむり、暗闇になれることがから始めました。実際に新潟で生存されておられる瞽女さんを訪ねると、夜8時でも真っ暗闇の中いらっしゃり、私たち訪問者のために電気をつけてくれました。目が見えないというのはこういうことかと実感し、役に入っていけました。瞽女さんには、傘の差し方など色々ご指導いただき、とてもありがたかったです。目をつむって何か月か生活しました。
 
盲学校にも行きましたが、こんなにたくさんの方が暗闇で生活されているのかと思うと、取材をする前に涙が止まらず大変でした。校長先生に目隠しされ、廊下をまっすぐ歩くように指示を受け、歩いてみたのですがどうしても左方向に歩いてしまうのです。人間は耳がいい方に歩いてしまうと聞き、演技するときも誰かがセリフを言ったときに耳を差し出すようにしました。瞽女が弾く三味線の稽古をするのも大変で、6か月間毎日通って習いました。いつも微笑みを浮かべているようなおりんでいたい。目が不自由でも否定的ではなく、いつも明るいおりんをイメージして演じました。私にとっては大変思い出深い、大好きな映画です。
 
―――台本は撮影前にすべて覚えてしまうのですか。
岩下:撮影前に、台本一冊を覚えてしまわないと、役に入っていけません。台本を全て読み、全体を見ないと役の性格や芝居の強弱は付けられません。まずは全て覚えてから撮影前日に復習するようにしていました。
 
―――88か所でロケを行ったそうで、当時の映画作りの贅沢さを感じました。
岩下:電線やテレビのアンテナがない場所を探すのが大変でした。道を歩いて角を曲がると静岡県でロケをしたシーン、次の角を曲がると富山県でロケをしたシーンという具合に、各地のロケを緻密につないで、作品ができました。ロケハンだけでも3年半かかりました。
 
―――共演の原田芳雄さんは、おりん役の岩下さんに気遣って、あることをしていたそうですが。
岩下:私は瞽女役で目が見えない設定なので、朝ロケバスに乗ったときから目をつむっているのですが、時々目を開けても原田さんの姿が全然見えなかったのです。実は、原田さんが私の前からわざわざ姿を消していたことを、亡くなる前にテレビで話されていたのを聞き、心遣いに感動してお礼を言いました。当時の私は、「なぜ原田さんはいらっしゃらないのか」と思っていましたから。
 

■『極道の妻シリーズ』撮影エピソード

―――『極道の妻シリーズ』では、「あんたら覚悟しいや」という決め台詞が印象的でしたが、役に入り込む岩下さんが姐御役から日常生活に戻るのは大変だったのでは?
岩下:背中に入れ墨をいれなくてはならないし、ピストルは撃たなければならないし、最初は躊躇しましたが、皆さんが「姐さん!」と呼んで下さるので、だんだんその気になっていました。京都の撮影中に友達から電話がかかってきたときは、思わず「わてや」と返事をし、随分驚かれましたね。
 

■女優人生を歩む決意が固まった作品『五瓣(ごべん)の椿』

―――岩下さんの女優人生を振り返ると、駆け出しの頃は清純派でしたが、山本周五郎原作 『五瓣の椿』ではとても凄惨な役を演じました。以降、人間の中に眠っている殺人願望、多面性や暗黒面を演じると、はまり役だと感じます。自叙伝でも少女時代から精神科の医者になりたかったと語っておられますね。
岩下:大学は心理学に進みたいと猛勉強していましたが、体をこわして留年し、心理学を断念したところ、女医ではなく女優になりました。子どもの頃、前進座の『屈原』という舞台を観ましたが、王妃の行動から人間の奥に潜む恐ろしさを小6にして体現したことが今も記憶に残っています。『五瓣の椿』でも、私の役は父親をとても愛していたけれど、母親がとても淫乱で、母親と遊んだ男5人を殺して椿の花を置いていくという、初めての悪への挑戦でした。とても印象に残りましたし、女優をやっていこうと決意が固まった作品でした。
 

■『秋刀魚の味』撮影エピソード

―――岩下さんは、小津安二郎監督、木下恵介監督と、巨匠と組まれることが多かったですね。
岩下:当時松竹は巨匠と呼ばれる監督が多かったです。木下監督は、風や雲や光という自然をとても大事にする監督でした。小津監督はセットが多く、ベテランの方でも最低50回、ひどいときには100回もカットがかかっていました。一つの画面が小津監督の額縁のようになっていて、絵画なども「5センチ上」とかける場所が決まっています。役者も、小津監督の絵づくりの中にいなくてはならず、演技の癖やテクニックは嫌われます。あくまでも自然でなくてはいけないのです。失恋したシーンで巻き尺を巻くとき、100回目でようやくOKをもらったことがあるのですが、後々小津監督から「人間は悲しいときに悲しい顔をするのではない。人間の喜怒哀楽はそんな単純なものではない」と言われました。きっと、悲しい顔をしていたのでしょうね。美術面でも、お料理の食器は、清水焼など上質なものを全部取り寄せ、絵画も全て本物なので、小道具さんはいつも大事に抱えて、鍵をもって歩いていました。
 

■妻として、母としての篠田志麻と、女優岩下志麻の裏にある夫篠田監督の支え

―――妻、母としての岩下さんのお話を伺います。『はなれ瞽女おりん』出演の前にスランプの時期があったそうですが。
岩下:当時は自分の表現力のなさに愕然としていました。子どもを犠牲にしてまで女優を続けていくべきか、ずいぶん悩みました。子どもがかわいい時期だったので、子どもを置いて仕事に行くことについて悩んだ時期が2年ほどあったでしょうか。鬱状態になっていたと思います。『はなれ瞽女おりん』は6ヶ月ロケだったので、子どもを置いていかなければならない辛さを背負って演じきりました。日本アカデミー賞女優賞をいただいたことが励みになり、一つの垣根を越え、女優をし続けようと思えるようになったのです。
 
―――夫であり映画監督である篠田さんは、岩下さんの女優という職業に理解を示していらっしゃったのでしょうか。
岩下:篠田は「家庭は休息の場でなくてはいけない。たくさん休息して現場には元気で行ってほしい」ということで、女優をするために家事をせずにいることができました。大抵のご主人は、家事をやらないと文句が出ますが、篠田の場合は女優という仕事に没頭させてもらえましたね。私が女優を辞めようかと悩んでいた時も、「おまえは女優をやっているときが一番輝いているのだから」と言われました。よく、女優は自信過剰でなければやっていけないと言われますが、その時期は自信を喪失していたのでしょう。
 

■観客へのメッセージ

岩下:これからも映画を愛して、たくさん映画館に足を運んでいただけたらうれしく思います。
(江口由美)
 
神戸100年映画祭公式サイトはコチラ
 

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健さん、男の夢をありがとう!
《高倉健 追悼特別寄稿 ―安永五郎》

 

京都の撮影所担当(日刊スポーツ文化部)、通称“撮回り”が原点だった。幸せなことに…。高校時代から大映“勝新・雷蔵”、次いで東映“鶴田・高倉”に熱くなった記者には、映画の現場(とりわけ京都)は“夢の工場”。取材の重圧に緊張はしたものの「目の前を映画が歩いている」思いだった。
 

高倉健-4.jpg数年間の撮影所担当で多くの俳優、監督、プロデューサーやスタッフ、時には撮影所長も取材したが、忘れられない大スターは大映・勝新太郎さんと東映・高倉健さんだ。スクリーンと素顔が異なるのはすでに常識だったが、この二人は、対照的な性格なのに差がないことが共通していた。つまり、映画の役柄そのままの人だった。
 

初めての“生・健さん”は新米記者の73年。東映京都撮影所『現代任侠史』(石井輝男監督)。60年代に一世を風びした東映任侠(やくざ)映画はその直前の72年、藤純子引退記念映画『関東緋桜一家』で幕を下ろし、時代は深作欣二監督『仁義なき戦い』を皮切りとする実録路線へと切り替わろうとしていた。『現代任侠史』は“実録風の任侠映画”の触れ込みで、健さんも最後は銃で撃たれて死ぬ。「それが珍しい」映画だった。
 

当時、現場取材は邪魔にならないよう「撮影の合間に片隅で立ち話(取材)」が原則。東映任侠映画『日本侠客伝』と『昭和残侠伝』などのシリーズをほぼ全作見ていた記者は、真正面で見る「どアップの花田秀次郎(昭和残侠伝)」に震える思いだったのを覚えている。
 

この時の話を記憶しているのは“花田秀次郎”だからか。映画の話はもちろん聞いたが、健さんが熱っぽく語ったのは当時、吉田拓郎のヒット曲「旅の宿」などで評判の作詞家・岡本おさみについてだった。取材で知り合ったとかで「素晴らしい人」と誉めるのに懸命だった。
 

健さんには数々の伝説が伝わるが「人との出会いを大切にする」「共感した人から学ぶ」姿勢がよく知られる。最初にその一端を見せてもらった、とずいぶん後になって分かった。
 

勝さんは対照的に、2~3度、撮影を覗いただけの新米記者も楽屋に入れてくれて直接話を聞けた。イメージ通り自由奔放、ざっくばらんな人だった。当時、当たり役『座頭市』はフジテレビ制作に移っていたが、その頃、アメリカで大ヒットしていた『ジョーズ』の話題に触れ「ハリウッドで“座頭市”を撮ったら、いい勝負出来るんじゃないか」と勝さんらしい壮大な夢を話していたものだ。
 

健さんでもうひとつ、有名なのが「俳優は私生活を見せてはいけない」という確固たる信念。だから、プライベートは秘中の秘だし、記者も伝聞でしか知らない。だが、物静かに“成りきる姿”を垣間見たことがある。“東映卒業後”、東宝で森谷司郎監督が撮った『八甲田山』(77年)の現地ロケのことだ。
 

雪深い八甲田山中の宿舎には俳優もスタッフも、当然エキストラ記者も同宿。周りに何も娯楽施設のない宿では、出演していた俳優・加山雄三がピアノ弾き語りでエキストラの面々と仲良く声を張り上げていた。脚本家の橋本忍氏も顔を出し、これがロケ撮影の持ち味と理解したが、そこに主役の姿はなかった。健さんはロケ隊の中でも、ひとり個室に籠って「決死の登山行」に挑む隊長という難役に集中していた。いかにも陽気な加山雄三らしい盛り上げ方だし、いかにも“孤高の健さん”だった。
 

高倉健-3.jpg健さんはその年、山田洋次監督『幸福の黄色いハンカチ』と『八甲田山』の2本に出演、日本アカデミー賞とブルーリボン主演男優賞をダブル受賞、俳優として広く日本映画界に漕ぎ出し、以後、文字通り大スターに上り詰めていく。
 

京都撮影所からは姿を消した健さんだが、その後も何度か名前を耳にした。本紙連載企画「日本映画の源流、マキノ組とその一党」の取材中、監督業に乗り出したマキノ(津川)雅彦から「(叔父)マキノ雅弘監督の誕生日(2月29日)に家を訪れるのは藤純子と高倉健だけ」と聞いた。任侠映画を卒業しても、大先輩から受けた恩は忘れない…礼儀正しく、けじめに厳しい、任侠映画のヒーローそのままだった。
 

撮影所担当と言えば駆け出し時代、ライバル紙に京都撮影所を押さえていたベテラン記者がいて、キャリアの差で歯が立たなかった。その“京都の主”が数年前に死去。葬儀が終わった後、そっと焼香する健さんの姿があったという。どこから聞いたのか、礼儀は欠かさないが目立つことはしない、健さんらしい、これも映画で見たような場面に感じた。
 

高倉健-5.jpg遺作となった205本目の映画『あなたへ』で、夜の海辺を見つめる健さんの後ろ姿がどうしようもなく胸に迫った。かつて熱い血をたぎらせたあの背中…。任侠映画では「背中(せな)で泣いてる唐獅子牡丹」とテーマ曲が流れ、命をかけて殴り込む。満員の場内に「健さん、あいつを叩き斬ってくれ」と掛け声がかかったのも忘れられない。
 

混乱の時代、悪者を一刀両断する健さんの背中はめっぽう強くて頼もしかった。だがそれは、たった一人の孤独なヒーロー像でもあった。70年安保で盛り上がった全共闘の学生たちも「止めてくれるなおっ母さん」と権力と闘う自分たちの気持ちをこの背中に託した。
 

 『あなたへ』で共演したビートたけしは「健さんには嫌われたくない思いからみんな遠慮して話す。だから本人はどんどん孤独になっていくんだ」と監督らしく分析した。
 

任侠映画から、多くの人の共感を呼ぶ人間像へ…。動乱の時代を生き抜いて、崇高ささえ感じさせる俳優へと自らを高めていった健さん。ストイックな生きざまには、ただただ「ありがとう」の言葉しかない。

 (安永五郎)

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