■移民社会ではないのに、一つの家族の中で親世代は北京語、子ども世代は母語と二つの言語が混じっている。
■フェミニズムに触れ、祖母の行動やルーツを否定していたのは間違った教育だったと気付く。
■原住民運動が盛んになった90年代前半、アミ族の血が流れていることを誇りに思うようになった。
■先行して本を執筆し、投資者を募って、アニメーションスタジオを自ら立ち上げる。
■審査員だったグイ・ルンメイが元になった短編を高評価。チーのキャラクターデザインは、ルンメイをイメージして。
■チーの生涯の友人、チャン・ベティは、同姓同名の友人をエピソードもそのまま描く。
――――シンイン監督もアメリカで暮らしている時期がありましたが、チーのように離れてみて故郷、台湾への望郷の念が湧いてきたのでしょうか?
シンイン監督:もちろん、そうです。だから、台湾に戻って、この作品を作りました。これからも台湾をベースに映画を撮っていきたいです。アメリカ時代はシカゴに住んでいたのですが、クラスメイトは優しかったけれど、貧しい白人はアジア人のことが嫌いなので、一度バーで「中国に帰れ、ビッチ!」と見知らぬ白人男性からビール瓶を投げつけられたこともありました。アメリカン・ドリームは幻想でしたね。