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ヒッチコックとサイレント映画の魅力を解き明かす!@第5回京都ヒストリカ国際映画祭 ヒストリカトークレポート

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左より、大野裕之氏、デイヴィッド・ロビンソン氏、原田眞人氏、滝田洋二郎氏

「ヒッチコック サイレントからトーキーへ 演出と音を巡っての考察」@第5回京都ヒストリカ国際映画祭 ヒストリカトークレポート(2013.12.6 京都文化博物館)
登壇者:デイヴィッド・ロビンソン(映画史家、ポルデノーネ無声映画祭ディレクター)、原田眞人(映画監督、映画評論家)、滝田洋二郎(映画監督)、大野裕之(チャップリン研究家)

 

~幻の名作『恐喝[ゆすり]』サイレント版の感動と共に!ヒッチコックからサイレント映画の魅力まで語り明かす~


historika13-yusuri-1.jpg12月8日(日)まで京都で開催中の第5回京都ヒストリカ国際映画祭で、12月4日(水)に「ヒストリカ・クラッシック」特集の一環として1929年のアルフレッド・ヒッチコック作品『恐喝[ゆすり]』サイレント版(修復版)が、MOVIX京都で日本初上映された。ピアノ伴奏にサイレント映画伴奏者の松村牧亜さんを迎え、ヒッチコック流サスペンスが、控えめながら非常に効果的な伴奏によって私たち観客に驚きや感動を与えてくれた。ヒロインがシャワー室で格闘の上殺人を犯してしまうシーンや、ラストの大英博物館での迫力あるシーンなど、サイレントならではの表現の豊かさを再認識させられる本当に貴重な機会となった。

 上映後、京都文化博物館で「ヒッチコック サイレントからトーキーへ 演出と音を巡っての考察」と題したヒストリカトークが開催され、特別ゲストとして海外より映画史家、ポルデノーネ無声映画祭ディレクター、デイヴィッド・ロビンソン氏が登壇した他、映画監督、映画評論家の原田眞人氏、映画監督滝田洋二郎氏が登壇。チャップリン研究家の大野裕之氏の司会で、『恐喝[ゆすり]』サイレント版を観た感動そのままに、ヒッチコックや『恐喝[ゆすり]』サイレント版の魅力、サイレント映画とトーキー映画の違い、映画における音楽の役割について濃密なトークが展開した。映画ファンや映画を勉強する人にはまさに必見の貴重なトークの模様をご紹介したい。

 


―――ご自身の映画づくりにおいて、ヒッチコックに影響を受けている点や好きな作品は?
historika13-12.4-4.jpg滝田洋二郎監督(以降滝田):演出部に入った時から、ヒッチコックは一番模倣しやすい監督だと思っていました。自分が責任を持って映画を撮るようになり、『サイコ』のシャワーシーンを真似て撮っているうちに、真似だけではダメだということを学びました。ヒッチコックは作り物を面白がるというか、「映画は見世物である」という一面を表現しているところに強く惹かれます。また、観客を惹きこむ演出が特徴です。ヒッチコックのショットをそのまま真似ることは映画の入門編としてとても助かりました。ブライアン・デ・パルマの『キャリー』や『殺しのドレス』もヒッチコックの影響を受けていますから。今は模倣しながら自分のやり方を模索している状況です。作品では『サイコ』が好きですね。名画座やビデオで見出した時に最初に観た印象が強いですね。『裏窓』とか、映画は作り物だとぬけぬけとやってしまうところは面白いなと思いました。

historika13-12.4-3.jpg原田眞人監督(以降原田): 5年前から日本大学国際関係学部で映画を観ない学生たちに映画のことをいろいろ教えています。日米比較文化論ではエリア・カザンの自伝を読ませたり、最後の2年間はヒッチコックの『レベッカ』以降(アメリカ時代)を教えるため、私ももう一度『レベッカ』以降の作品を時代順に見直しました。ヒッチコックに関する書籍も7割ぐらい読み、「こういう汚い親父だからこういういい映画を作れたんだ」ということがだんだん分かってきて、今は愛憎入り混じる関係ですね。僕が大好きなヒッチコックの作品2本は、昔大嫌いだったけど今は一番好きな『めまい』と『汚名』です。

今日久しぶりにヒッチコックのサイレント映画を観て、すごく驚きました。トーキーよりサイレントバージョンの方が貴重かもしれません。後々ヒッチコックが使っている全ての面がこの作品の中にあります。ヒッチコックの作品で一番重要なのは「母の寝室」で、アメリカ時代の『レベッカ』以降の作品全部で使っています。『恐喝』では、ヒッチコックの元の家の構造とおぼしき家にヒロインが住んでおり、玄関からすぐの階段で2階に続いているのは『サイコ』にも共通する構造です。ヒッチコックは5歳から30歳まで家に帰ると、すぐにこの階段を上って母の寝室に行き、その日に起きたこと全てを寝室で母に話しています。全ての物語の根源は、母に語った話から入っているので、ヒッチコックの映画は『レベッカ』以降、「寝室における告白のドラマ」になっているのです。『めまい』や『汚名』はまさにそうですね。

 

―――今日上映された『恐喝』サイレント版の魅力とは?
historika13-12.4-2.jpgデイヴィッド・ロビンソン氏(以下デイヴィッド): 『恐喝』のサイレント版は映画史的に非常に重要な作品です。『恐喝』はイギリス映画史上最初のトーキー映画で、1929年当時はまだ映画館にトーキーの施設がなかったので、映画会社としてはサイレント版を作らねばならなかったのです。サイレント版の存在はずっと知っていましたが、今日初めて、しかも京都で観ることができ、トーキー版より断然素晴らしかったです。当時トーキー版は新しいサウンドの使い方に心を奪われたのですが、サイレント版はそういった音がないことで、映画の構造的な良さが浮かび上がっています。

サイレント映画は見た目が非常に重要です。例えば、殺人のシーンではたくさんの絵が飾られていますが、それらがとても印象的で迫力があります。その間ずっと字幕が出てこないというサイレント映画の強さを感じます。サイレント期から近年までずっと活躍し続けた大女優、リリアン・ギッシュは、「サイレント映画は素晴らしい。映画史は回り道をして、サイレント映画を再発見している」と語っています。映画監督の誰がベストかといったときに、ヒッチコックやフリッツ・ラング、溝口健二、ハワード・ホークス等色々な名前が上がると思いますが、必ずサイレント映画で修業を積んだ映画監督の名が上がるはずです。サイレント映画の重要さ、そこに尽きるのではないでしょうか。

サスペンスという言葉は恐怖映画などと結びつけて語られますが、実際はもっと一般的な言葉なのです。例えば本を書く時や、ロマンチックなシーンにも使われる言葉で、一言でいえば「次何が起こるか、お客さんに期待を持たせる」ことなのです。ヒッチコックはその点で天才であり、「次に何が起こるのか」と常に思わせるような映画を作っているのです。

滝田:トーキー版を先に観たのですが、80年以上のものを修復した技術もすごいと思いますし、1929年時点でヒッチコックのスタイルがすでに確立されているなと感じました。1927年の『リング』と比べても技術的、映画思想的に成長していますね。30年代のトーキー時代を見据えて力をつけていたのだと思います。サイレントの方がより映画に対して能動的になれ、想像しながら観ることができる気がします。今は情報過多の時代ですが、そういう中ではより人間は受動的になってしまい、極端にいえば思考停止に陥ってしまうのではないかと。ですからサイレント映画は音や声を全て想像できますし、全シーンに集中できて刺激的です。映画とは個人のものなのだと思いました。

原田:映画を学ぶ若者たちは、小津安二郎を含む名監督たちをサイレントから順に観ていき、彼らがどれだけ表現術をサイレント時代に勉強し、その後トーキー時代に入ったとき語り口がどうなっていくのかを学ぶことが一番いいのではないかと、サイレント版を観て思いました。ヒッチコックに関して一般的に誤解されていて、かつそこに罠があるのは、かつて彼がよく言っていた言葉「脚本を書く前に、自分の頭の中に青写真ができている」です。これは嘘で、そう言えるのはヒッチコックがサイレント時代の人だからなのです。ヒッチコック自身が一流の脚本家を面接して雇い、彼らが書いているときにヒッチコックの頭の中には音楽や台詞はなく、映像表現しかないので、トーキー時代になってからはそれが欠点として出てきました。無防備に台詞が説明のところに入ってしまう、今の脚本家だったら絶対やってはいけないことをしています。

ただし『恐喝』もそうですが、これだけ字幕のないサイレント映画があっていいのかというぐらい、字幕が出てこず、一言一言がよく練られています。「サイレントなんてもう観なくてもいい」と思っていましたが、ヒッチコックの表現力の高さや、巨大建造物(大英博物館)の図書館の中に入っていくショットなど、アイデアとして後々使っていることを試していて、びっくりしました。

 

―――映画作家から見たサイレント映画とトーキー映画の違いとは?
historika13-12.4-5.jpg滝田:サイレント(『恐喝』)は字幕も最小限だったので、日頃のシナリオは語らせすぎではないかと思ったり、動きでも最後まで決着させようとしてしまいますが、見ただけで次を想像させるショットが重要になってきます。ヒッチコックは特にそういう見せ方が上手かったと思います。サイレントで映画が撮れるかどうか、京都にいる間に考えてみます。

原田:映画監督にとって一番大きな変化は、サイレントからトーキーになったときと、モノクロからカラーになったときで、それぞれの時期を体験した監督たちはものすごく葛藤したわけです。映画はしゃべってはいけないものだと思っていたので、ジョン・フォードやハワード・ホークスも抵抗がありました。なぜかといえば、サイレント時代に映画を作っていた人は、役者たちが台詞をしゃべれないことを分かっていたのです。サイレントのトップスターもひどい英語を喋っていたものですから、トーキーになってしまったら生き残れない。

ヒッチコックに関していえば、サイレントからトーキーを乗り越え、さらにカラーになったときに、ロバート・バークスという素晴らしいカメラマンを迎えています。名監督は時代の波を乗り越えて、豊かな表現をしていきます。ヒッチコックは、モノクロでの色の使い方もすごかったし、カラーになってからの色の使い方もすごかったです。モノクロの光と影の使い方で言えば、作品的評価はあまり高くないですが『パラダイム夫人の恋』の影の使い方は素晴らしいです。『恐喝』でも最後に自首することを決めたヒロインがすっと立ち上がったときに、影がどう出るか。そこはすごかったですね。

 

―――映画における音楽の役割とは?
滝田:『恐喝』サイレント版を観て、僕たちは音楽も含めて説明過多になりすぎていると感じました。音楽を強くあてることで、感情がもっと伝わりやすいと思うけれど、実はそうではないことに改めて気付かされました。サイレント映画というのはいつも違う音楽をつけることができる、まさにライブみたいなものであることが新鮮でしたね。今の映画音楽は相当商業的な面もあり、音楽にお金をかけることができるときはかけたいし、サントラ盤を出さなくてはいけないということも、ついやってしまいます。ただ、音楽が映画の顔になることもあるので、いろいろなケースがあっていいのかなと思います。

原田:僕はカーペットのように敷き詰めた映画音楽は大嫌いで、基本的にはチャップリンが考えた対位法が重要だと思っています。悲しい場面で悲しい音楽を流すとやりすぎてしまい、オーバーアクトと同じになってしまうので、反対の表現にいくことをいつも考えます。自分の一本の作品でどれぐらい音楽が使われているかを毎回チェックしているのですが、昔は2時間の作品で40分ぐらい音楽が流れていました。直近の『わが母の記』では20分弱で、最近どんどん音楽を減らしています。どうしてもクラッシックや本当に聞かせたいところで心に響くようなもの、僕自身も聞きたいものを意識していると、(音楽の)時間が短くなってきましたね。

デイヴィッド:サイレント映画とは創生期から映画の上映時には必ず音楽がついていますし、音楽はとても重要です。この20年間ポルデノーネ無声映画祭をやっていますが、音楽家を重要視し、常にミュージシャンやオーケストラに頼んで、音楽をつけてもらっています。映画自身のテンポがスローな時もあるのですが、サイレント映画音楽第一人者のニール・ブランドさんに頼んで、それに音楽をつけてもらうと素晴らしい傑作に甦るのです。

『恐喝』サイレント版の松村牧亜さんによるピアノ演奏も非常に素晴らしかったです。普通音楽をドラマチックにしてしまいがちですが、押さえたトーンで画面を活かす形で演奏されていました。牧村さんは、7,8年前にポルデノーネ無声映画祭のマスタークラスに参加された方です。サイレント映画伴奏の音楽家を育てるクラスで、プロフェッショナルの音楽家が集まって1週間レッスンやレクチャーが行われるわけですが、そのクラスを経て、こうやって彼女と京都で再会でき、本当にうれしく思います。

 

―――最後に一言ずつお願いします。
滝田:フィルムがなくなり、映画監督として腹立たしさや苛立ちがあると同時に、こうしてデジタルの力で何十年も前の映画をとてもいい状態で、しかもスクリーンで観ることができるのは非常にいいことだなと実感しました。修復された昔の名作を、映画館で自分と対話して観るのが映画の原点だと思います。まずは映画館で映画を観る習慣や機会をどんどん増やしていってほしいですね。

原田:とにかく若い世代にクラッシックを観てほしいという想いがありますね。今はDVDやブルーレイで自分が良いと思った監督の作品を時系列で辿れます。時間的な流れの中で、かつての作り手がどういうことを表現しよう試み、それを我々が次の世代にどう伝えていくのか。若い世代はそれをどう感じ、どう伝えてくれるのか。伝統を引き継いでいくことは、映画の中ではとても重要だと思います。

デイヴィッド:私は昨日京都に着いたばかりですが、京都ヒストリカ国際映画祭で観たどの映画や演奏も素晴らしく、ここにいることが大好きです。唯一気になることは、せっかくの素晴らしい上映も空席があるために、見逃している人が大勢いるということです。今日参加されたみなさんはお友達に伝えて、明日からは空席がなくなり、より多くの人に素晴らしい上映を観る体験をしていただきたいです。
(江口由美)