イタリア初の長編映画『インフェルノ』、記念碑的作品の製作&復元舞台裏を明かす。
@第13回京都ヒストリカ国際映画祭
動画コメント:カルメン・アッカプートさん (チネテカ・ディ・ボローニャ財団)
1月22日から開催中の第13回京都ヒストリカ国際映画祭。2日目となる1月23日は、今回新たに加わったボローニャ復元映画祭連携企画で、ダンテ没後700年にちなみ、2007年に復元、2021年に同映画祭で再び紹介された無声映画『インフェルノ』(1911)が、楽士、鳥飼りょうさんのピアノ伴奏付きで上映された。
※1月24日(月)~1月30日(日)までオンライン上映配信中。
黒いアップライトピアノが置かれた京都文化博物館3Fフィルムシアターでは、本企画の立ち上げから交渉、実現まで尽力されたイタリア文化会館-大阪の山本慶子さんによるご挨拶の後、鳥飼さんの情緒豊かな演奏と共に、イタリアを代表する詩人、ダンテ・アリギエーリの「神曲」第1篇地獄篇を原作にした、地獄のイメージが折り重なる本作が110年前の作品とは思えないほどの鮮やかさでスクリーンに映し出される。私利私欲に蝕まれると、どんな恐ろしい獣の餌食になってしまうのか。映画誕生黎明期において、当時の最先端だった特撮技術や、山岳ロケ、そして幻想的なモンタージュを駆使し、当時の知識人や高階級の人々を虜にした圧巻の65分を多くの観客と共に味わい、京都ヒストリカ国際映画祭の新たな歴史の1ページが刻まれる1日となった。
上映後は、『インフェルノ』の復元にあたったチネテカ・ディ・ボローニャ財団カルメン・アッカプードさんによる動画コメントが上映され、『インフェルノ』製作の舞台裏や、当時格下と見なされていた映画が文化としての地位を確立し、知識人に支持され、海外にまで広げる戦略、そして2年がかりの復元作業について細部まで詳しく説明してくださった。その内容をかいつまんでご紹介したい。
■知的な観客層を獲得するための挑戦的な企画
イタリア無声映画史上最重要作の一つである『インフェルノ』は、当時300mが通常だったフィルムの長さが一気に1000mを上回り、イタリア初の長編となった。長さだけでなく、かけた製作費、宣伝費も破格で、イタリアで初の映画賞を受賞した作品としても歴史に名を残しているという。
もう一つ忘れてはいけなのが、演劇や文学と同様に、イタリア映画で初の著作権認定を受けた点だとアッカプードさん。当時、まだ生まれたての映画産業は、歴史のある演劇や知識人の集まる文化サロンと比べて、低俗な見世物とみなされていたが、徐々に映画が産業として確立され、1905年にミラノ在住の投資家グループが設立したサッフィ・フィルム社は、記録映画の技術者として有名なルーカ・コメーリオと提携し、知的な観客層を獲得する作品の製作を模索していったという。そのような文脈の中で挑戦的な企画として浮上したのが、ダンテ・アリギエーリの『神曲』最初の詩篇[『地獄篇』;インフェルノ]の映画化だった。監督には、ダンテ作品を専門とする文学者、アドルフォ・パドヴァン、
ダンテ研究の第一人者、フランチェスコ・ベルトリーニ、そして監督経験のあるジュゼッペ・デ・リグオーロの3人が招集され、映画の特殊効果の専門家に加え、芸術家や舞台美術家、さらに作品をより充実させるためのアドバイザーまで参加。書籍として出版された『神曲』の挿絵を描いたギュスターヴ・ドレの作品が、地獄篇を視覚的に物語るモデルとして採用されたという。
■世界で大ヒットを果たしたことで、復元用の素材が残っていた
撮影開始後、野外撮影で膨大なコストがかかり、1909年夏の終わり、地獄篇の冒頭が出来上がった時点で、サッフィ社幹部はミラノ初開催の映画祭に「ダンテの詩篇に関する試論」(仮題)で出品。未完成ながら大賞を受賞したことで、『インフェルノ』は大きな注目を浴び、完成版への期待度が高まったという。最終的に経営が圧迫したサッフィ社は倒産、新たな資本が入り、ミラノフィルム社が映画を引き継ぎ、1911年3月1日、ナポリのメルカダンテ劇場において『インフェルノ』は初上映された。当時から世界中でイタリア文化の振興に影響力のあったダンテ・アリギエーリ協会による助成の力も大きかったと語るアッカプードさん。以降 各地の協会支部がイタリアの主要都市での上映実現に尽力し、海外配給も実現。映画と共に、ダンテ文学の世界普及、さらにイタリア文化の振興役ともなった。数多くの上映用フィルムが複数の再編集を経て、様々な時代に作られていた『インフェルノ』は、フィルム復元に向けての素材調査の結果、14本ものフィルムが世界各地で残っており、「世界の無声映画の約80%が失われているので探すのはとても困難、こんなに残っているのは稀です」とアッカプードさんは力を込めた。
■2年がかりの復元作業、「物語としての完成度と見た目の美しさ」を目指して
14本の素材のうち9本は不燃性の白黒フィルムに焼き付けられた複製物、残りの5本は可燃性フィルム(ナイトレート)で着色されたポジフィルムで、その中の1本が製作当時のものと特定されたという。
復元にあたって大事な「物語としての完成度と見た目の美しさ」にのっとり、1911年の上映版(イタリア版)を製作者の望んだ通りの正しい順番のバージョンとして採用。美学的視点からは、作品の編集に使える最も画質の良い素材を探すのが復元者の仕事で、復元における最終的な色彩の決定も行うのだ。
緻密に比べる作業を続ける一方で、トレントのダンテ像が最終カットに使われていたバージョンを見つけた時は、ほかのフィルムでは見つからなくても当時のパンフレットを調べ、物語の最後にダンテ像があったことを推測。また、題字やインタータイトルなどの
文字の復元では『インフェルノ』の直後にミラノフィルム社が製作した作品『オデッセイ』のタイトル装飾と照合し、正しいバージョンを推測する作業を行っていたとアッカプードさんは説明。欠損した箇所も調査研究により仮説を立て作業にあたるというアッカプードさん。「私たちに教える全ての材料を突き詰めて研究することで、復元者の疑問に対する答えは必ず見つかるのです」
■ボローニャ復元映画祭と“未来のシネフィルを育てる”
国際フィルムアーカイブ連盟FIAFに参加し、アーカイブでの保存という根本的な活動の
さらに先を見据え、保存する貴重な映画遺産を誰もが利用したり、鑑賞できるための復元を専門のラボ、リンマージネ・リトロヴァータで行うのが、チネテカ・ディ・ボローニャ財団の取り組みの中心になっている。今やパリ、香港にも新拠点が作られており、世界の映画祭でのクラッシック部門での上映だけでなく、イタリアの地元、ボローニャで毎年夏に開催される「ボローニャ復元映画祭」では、多くが35mmフィルムで500本ものクラッシック作品が上映され、期間中のべ10万人の観客が参加するという。中でも中心部にあるマッジョーレ広場の野外上映は市民に広く開放されており、まさに『ニュー・シネマ・パラダイス』さながらだ。また、小学生向けの上映付きセミナーの講師をチネテカ・ディ・ボローニャの技術者が担当することで新世代のシネフィルの育成も行なっている。また、チネテカ・ディ・ボローニャが復元した旧作や名作のプログラムを作り、イタリア国内約70スクリーンで月に1本ずつ再上映をするという試みも興味深い。
「60年代にボローニャ市の小さな映画担当部署として組織されたチネテカは、長年に渡り
映画文化の普及と広報、そして復元活動を通じて着実に成長を続けた結果、今では映画を評価するための基準として世界中が参考にするに至っています」
行政が映画文化の普及や復元活動を支援し、地道に人材育成を続けた結果、世界からもその取り組みが注目され信頼が置かれている様子が伝わってくる、とても貴重なトークだった。
©️Cineteca di Bologna
(江口由美)
第13回京都ヒストリカ国際映画祭はコチラ http://www.historica-kyoto.com/