「中国」と一致するもの

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『台湾人生』『台湾アイデンティティー』と台湾の日本統治下に生きてきた日本語世代に取材を重ねてきた酒井充子監督。最新作『ふたつの祖国、ひとつの愛 イ・ジュンソプの妻』は、韓国では知らない者はいないという名画家ジュンソプとその妻、方子(まさこ)との愛を丹念に映し出したドキュメンタリーだ。

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第二次世界大戦のさなか、日本の美術学校でジュンソプと財閥令嬢の山本方子は出会い恋に落ちる。方子は戦争が激しさを増した45年に命がけで韓国に渡り、ジュンソプと結婚するが、その後の朝鮮戦争の戦火と貧困が二人を引き裂き、ジュンソプは二度と方子たちに会うこともなく若くしてこの世を去ってしまう。日本と韓国、引き裂かれた二人を結んだのは200通にも及ぶ手紙で、真っ直ぐな愛が記された文面や、隅っこに書かれたイラストからジュンソプの人柄や深い愛が偲ばれる。
 
撮影当時92歳だった方子さんは、ジュンソプとの間にできた息子・泰成さんと暮らし、泰成さんが用意した朝食をたっぷり食べ、美容院でパーマを当て、苦労を重ねてきたであろう人生を今は穏やかに生きている。そんな方子さんがにこりと笑って話した一言「再婚もしないで、あなた一筋」を聞いて、こんなに深い愛の言葉があるだろうかと胸が熱くなった。
 
来阪した酒井充子監督に、本作のことだけでなく、台湾でドキュメンタリーを撮ろうと思ったきっかけや、台湾と韓国の日本統治下で生きた世代を取材した反応の違いなど、今までの創作活動にも触れるお話を伺った。
 

■台湾で日本語をしゃべるおじいさんとの出会いから、デビュー作『台湾人生』ができるまで。

―――監督が台湾に興味を持つようになったきっかけは?
はじめて台湾と出会ったのは98年でした。ツァイ・ミンリャン監督の『愛情萬歳』が私の生涯ベストワンなのですが、この映画の舞台になっている台北に行ってみたいという、本当にミーハーな一映画ファンの気持ちで台湾旅行をしました。『愛情萬歳』のロケ地や、今や一大観光地となっている『非情城市』のロケ地、九份にも行きました。夕方台北に戻ろうとバスを待っていたら、あるおじいさんがわざわざ近くの自宅からバス停まで出て、「日本の方ですか?」と日本語で話しかけてこられたのです。そのおじいさんは、子どもの頃日本人の先生にとても可愛がってもらったという話をしてくださり、戦争が終わってから53年経っていたのですが、「戦争が終わって日本に引き揚げてから連絡がとれなくなってしまったけれど、もしまだ先生がお元気なら僕は会いたい」とおっしゃったんです。バスが来て別れた後、そんな風に今でも日本人の先生のことを思っている人が台湾にいるということが、じわじわと私に衝撃を与えたのです。
 

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―――そのおじいさんとの出会いは監督にどんな衝撃を与えたのですか?
昔の台湾と日本の歴史について、私は本当に何の知識もなく、教科書で一行で書かれていたことぐらいでした。でも日本統治下の台湾で生きていた人が、その時代の想い出を大事にしたまま98年の台湾で生きていることを直接知ったのです。そこから台湾と日本のことを知りたいと思い、台湾から戻って色々な本を読んだりしながら、勉強を始めました。あまりにも台湾のことを知らないことが驚きでもあり、知らなかったことに怒りすら湧いてきました。自分に対する怒りであったり、何も教えてくれなかった日本という国に対する怒りなど、色々な怒りですね。そこから、台湾のことを伝える仕事をしようと思いました。
 
―――デビュー作『台湾人生』は、完成まで足かけ7年もかかったそうですね。
08年に完成し、09年に映画館で上映していただきました。途中辞めようかと心が折れそうになったこともありましたが、彼らが「日本人に話したい」という気持ちが取材を通してヒシヒシ伝わってきたので踏みとどまった感じです。台湾では87年にようやく戒厳令が解除され、私が本格的に取材を始めた02年でも「今こんなことをお話して、後で家族にどんな迷惑がかかるか分からないから・・・」とおっしゃる方もいたぐらい、やっと口を開いてくださるようになった時期が、私が取材し始めた時期と重なったのです。せっかく私に話してくれたことを届けないで終わっていいのかという思いもありましたし、彼らに対する責任感が、映画を完成させることができた原動力だったと思います。
 

■韓国の国民的画家、イ・ジュンソプさんとその妻方子さんの「愛」を撮る。

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―――台湾を題材にその後2作品制作したあと、今回は韓国の国民的画家、イ・ジュンソプさんとその妻方子(まさこ)さんを取り上げていますが、このお二人の作品を作ろうと思ったきっかけは?
今回は『台湾アイデンティティー』を作ったチームの方からお話をいただきました。台湾を取材していると、同時期に日本の植民地だった場所である韓国は切っても切り離せません。『台湾人生』の上映後のQ&Aでは「台湾の人はこのように捉えているけれど、韓国の人は違う反応の気がする。なぜだと思いますか?」と必ず聞かれましたから。今回はイ・ジュンソプの劇映画を日韓合作でという話があった中、奥様の方子さんがお元気なうちに撮影しておきたいということでした。韓国で取材ができるというのはいい機会をいただいたなと思いましたね。ただ『台湾人生』などのアプローチとは違い、今回は完全に夫婦の愛に焦点を絞ろうと思っていました。方子さんの人生を追っていけばおのずと植民地時代のことも感じ取っていただけるだろうと、淡々と撮っていきました。
 

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―――「再婚もしないで、あなた一筋」という方子さんの言葉は本当に重みがありました。
あまり多くお話される方ではないので、あの言葉を言ってくださるまで、本当に時間がかかりました。おととしの5月から昨年の1月まで撮影しましたが、1回お話を聞きに行っても、1時間たつとお疲れになってしまうので、本当に時間との闘いでした。東京にいらっしゃるので、カメラを回さなくても会いに行くことを続けて、「再婚もしないで、あなた一筋」という言葉を聞けたのは、本当に最後のインタビューのときだったのです。「よし!」と思いました。
 
―――方子さんは90歳を超えているとは思えないぐらい、お元気でオシャレな女性ですね。
週に一度は美容院に通っていらっしゃいますし、やはりたくさん食べることが長生きの秘訣ですね。朝ご飯のシーンも挿入されていますが、朝からあれだけの量を召し上がる訳ですから、本当に健啖家ですよね。毎朝息子さんがあの量の朝食を作っていらっしゃるわけですから。やめてオーラがすごくて、カメラマンは「いつやめて!と言われるかとドキドキしながらカメラを回していた」そうです。本当によく頑張ってくださったと思います。
 

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―――イ・ジュンソプさんの絵力と、封筒の宛名一つとってもとても味があり、手紙の文面も妻に対する愛がストレートに綴られていて印象的でした。ジュンソプさんの人生を語るにあたって、これらの作品や残された絵をどのように入れていこうと思ったのですか?

方子さんに最初に取材したとき、手紙を拝見し、この熱烈なラブレターをもらっていた女性はどういう人なのだろうかという興味がありました。私自身は手紙をフューチャーしたい気持ちはありました。ただ、最初にプロデューサーからは「(ジュンソプさんが遺した)手紙に頼るのは絶対ダメだ」と釘を刺され、結果的にはそれでよかったと思います。手紙に頼らずに手紙の魅力を伝えるという部分で、編集は苦労しました。でも、あの文字や、手紙の端に描かれているイラストをご覧いただくだけで、ジュンソプさんの愛が伝わりますよね。
 
 
―――日本と韓国で離れ離れになってしまったままという家族や夫婦は他でもあったのだろうなと痛切に感じました。
方子さんと最後の時を過ごした日本での1週間が経った後、私だったら首に縄をつけてでも、ジュンソプさんを韓国に返さずに日本に留めおくと思います。本作が完成した後に在日二世の方から聞いた話なのですが、ご両親のお父様が亡くなったとき、国交がないが故に実家に帰ることすらできなかったそうです。だから、そう簡単に留めおくなどできず、実の親子なのに、会うことすら難しい時代が確実にあったのです。切ないですね。
 
 
―――方子さんが帰国前に避難されていた済州島の住まいも、ジュンソプさんの絵が掲げられ、保存されていました。ジュンソプさんが韓国でどれだけ大きな評価を受けているかが伺えます。
西帰浦市が当時と同じものを復元していて、当時大家だったおばあさんは、あの場所に今でもお住まいです。彼らが住んでいた狭いスペースは観光名所になっていたので方子さんは色々なことを思い出されたはずですが、絶対に愚痴っぽいことをおっしゃらないのです。東京のインタビューでも「東京の空襲で自分の家が焼けないので残っていたのがどれだけ幸運だったか。だから戻ってくることができた」とおっしゃっています。焼けた東京もご覧になっているでしょうし、大変なのは自分たちだけではないという、あの時代の人だから言えるのでしょう。方子さんが特別な人というよりは、こういう人がたくさんいた時代があったということでしょうね。
 
 

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―――方子さんは車いすで韓国に行かれ、美術館でジュンソプさんの絵と対面を果たしましたが、どんな様子でしたか?
ソウルの美術館では、牛の絵を初めて見たそうで、ずっと真剣な眼差しでご覧になっていました。その絵を見たときの目や表情は、いつもとは何か違った気がします。本当に凄かったのは、韓国の美術館で、どれだけ他の取材が来ても絶対に撮影させないという絵を今回撮らせていただいたことです。「イ・ジュンソプさんの奥様の映画だったら協力します」ということでした。他にも同じような理由で協力いただいたことが多々あり、イ・ジュンソプさんの存在の大きさは私たちでは計り知れないという印象を受けましたね。
 
 
―――それだけ韓国で絶大な影響を与えているイ・ジュンソプさんに、離れ離れになってしまった日本人の妻や子どもがいたことを、韓国の皆さんはご存知なのでしょうか?
おそらく妻が日本人ということは知られていますが、これまでの方子さんに対する韓国での見方は「押しかけ女房」。すごくわがままで一方的な悪い女という言われ方をずっとしてきたそうです。この映画を韓国で上映していただくと、そうではないことは一目瞭然で、方子さんが生きていらっしゃる間に、韓国の方の誤解が解かれればいいなと思います。
 

■台湾、韓国の日本語世代取材を通じて感じた、それぞれの今とこれから。

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―――台湾、韓国共に日本統治時代を生きてきた世代にインタビューをされた訳ですが、その中で国による違いを感じることはありましたか?
決定的な違いは、日本に対する評価ですね。一つの要素として、台湾と韓国は全く歩んできた歴史が違います。韓国は14世紀かずっと李王朝が統治していたところ、日本の統治下に置かれることになった訳ですが、台湾は清の領土ではありましたが原住民は原住民族の言葉を話し、漢民族系の人は中国語を話したりと言語がバラバラな中、日本統治下に置かれることとなり、日本語が初めて台湾で共通語の役割を果たしました。また、台湾は日本が引き揚げた後、国民党の大変な時代がありましたが、韓国はまた自分たち朝鮮人の国を持つことができた訳です。
 
台湾は戦後国民党時代との比較で「日本統治時代の方がよかった」と、比較論の評価があり、それが親日と言われることにも繋がっています。韓国では、日本をプラスに評価しなければならない要素は何もないのです。単純に日本統治時代をどう評価するかという際の土台が台湾と韓国では違いますね。台湾では、日本語を話すことは「おじいちゃん、日本語を話せるの?すごい!」という反応が相対的にありますが、韓国はそうではありません。
 
 
―――確かに、本作では日本語を話す韓国の方はほとんど登場しませんね。
あるおばあさんに話を聞いたとき、彼女は日本統治下で大阪の女学校に2年間在学していたそうです。戦後日本人と話す機会はなかったそうで、約70年ぶりに私たちが通訳を伴って訪ねて行ったときは、簡単な単語を日本語で話すぐらいでした。でも別の機会にカメラを回しながら取材をすると、私の日本語の質問にいきなり日本語で答えてくださり、通訳がいらないぐらいでした。
 
そのインタビューをした夜に、彼女の娘さんから電話が入り、「今日母が日本語を話したそうですが、日帝(大日本帝国)協力者と疑われては困るので、韓国語で全部撮り直してください」という依頼があったのです。今だにそういうことを言わなければいけない空気のあることがとても残念で、「日本人に会って、日本語が自然に出てきたのが彼女の人生の証なのだから、そこに蓋をすることは私にはできません」と伝え、結局映画には使いませんでした。韓国語でインタビューを再度撮ることもできましたが、それをすることは何か違うと思ったのです。日本語を話す行為一つとっても、台湾での捉えられ方と韓国での捉えられ方はこんなにも違うのかと、驚きました。普通に取材をしている段階では、台湾と韓国で全く違いはなく、皆さん協力的ですし、反日的なところを感じることはありませんが、少し踏み越えたところに、そういう感情がありますね。
 
 
―――台湾、韓国と両国でドキュメンタリーのための取材を重ねている酒井監督だからこそ、感じられる体験です。
今回はとにかく「愛」に徹しようと思っていたので、逆に背筋が伸びるような経験でした。今は大変な時期とは言われていますが、それは日本政府や大マスコミが過剰に反応しているだけだと思っていますから。そういうことがあることをきちんと踏まえた上で、昔のジュンソプさんと方子さんのように、私たちも韓国の人たちと付き合っていけばいいなという思いを強くしました。
 
 
―――人の交流を絶やしてはいけませんね。
やはり、韓国は近いですから、日本人はどんどん行くべきですよ。映画を撮ることもそうですが、人が往来し、直接やりとりをすることがとても大事だと感じたので、そういうすごくシンプルなことをお伝えしていければいいなと思っています。この映画を観て、済州島に行きたいと思っていただけたらうれしいですね。 (江口由美)
 

<作品情報>
『ふたつの祖国、ひとつの愛 ~イ・ジュンソプの妻~』
(2014年 日本 1時間20分)
監督:酒井充子
出演:山本方子、山本泰成、キム・インホ、ペク・ヨンス、チョン・ウンザ他
2015年2月7日(土)~第七藝術劇場、近日公開~京都シネマ、元町映画館
公式サイト → http://www.u-picc.com/Joongseopswife
(C) 2013 天空/アジア映画社/太秦
 
 
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『トレヴィの泉で二度目の恋を』シャーリー・マクレーン インタビュー

外見なんか気にしない!? 生涯女優
シャーリー・マクレーンが語る人生を楽しむ秘訣とは!?

シャーリー・マクレーン&クリストファー・プラマーという2大アカデミー賞俳優がイタリアを舞台に贈る最高にチャーミングなラブストーリー『トレヴィの泉で二度目の恋を』が1月31日(土)よりBunkamuraル・シネマほかにて全国順次ロードショーとなります。

★作品紹介は⇒ こちら
★公式サイト⇒  www.torevinoizumide.com
 


 
trevi-550.jpg最悪な出会いから始まるとびきりチャーミングなエルサと、とびきり頑固なフレッドの恋。しかし、エルサのチャーミングで素敵な嘘をつく?という魅力も存分に発揮し、妻を失い心を閉ざしていたフレッドは次第に笑顔を取り戻していく。エルサの夢は夜な夜な観ているフェリーニの傑作映画『甘い生活』のヒロインのように愛する人とトレヴィの泉に行くこと。果たしてフレッドはその夢を叶えることができるのか?人生黄昏時に再び全てが輝き始める瞬間が凝縮し、人生はいくつになっても楽しむ事が出来ると教えてくれるだけではなく、二人の一筋縄ではいかない恋の行方に笑って泣いてときめく、珠玉のハートフルムービーです。


本作が映画デビュー60周年の記念映画となるシャーリー・マクレーン。映画デビュー作『ハリーの災難』(55)でゴールデングローブ賞新人女優賞受賞を皮切りに、『走りくる人々』(58)、『アパートの鍵貸します』(60)、『あなただけ今晩は』(63)、『愛と喝采の日々』(77)で4度アカデミー賞主演女優賞の候補に挙がり、『愛と追憶の日々』(83)で遂に受賞を果たした。近年では、ゴールデングローブ賞の最優秀助演女優賞にノミネートされた『イン・ハー・シューズ』(05)や『ココ・シャネル』(08)、『バレンタインデー』(10)、『バーニー/みんなが愛した殺人者』(11)、『LIFE!』(13)などに出演。さらに「Glee(シーズン5)」(13)や「ダウントン・アビー ~貴族とメイドと相続人~(シーズン3)」(12)など、大ヒットTVシリーズにも出演するなど精力的に活動している。また、米女性団体として初の中国訪問団を組織し、その様子をおさめたドキュメンタリー映画『The Other Half of the Sky: A China Memoir』(75)では監督を務め、アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた。さらに、スピリチュアルな思想を持つことでも知られ、自身の神秘体験を基にした「アウト・オン・ア・リム」(83)が世界的なベストセラーとなった他、数々の著作を発表するなど、80歳ながらも精力的に現役バリバリで活躍できる秘訣を聞いた。
 


 
「正直に、率直に生きなければいけないわ。ありのままの自分にウソをつかないことが大切よ。私は、いつも今の瞬間を生きているから。私は、1日1日を生きていくだけ。過去や未来に心をとらわれることなくね。ただ、今を生きるの。」と語る。また、女優という職業については、「私は撮影現場が好き。撮影現場独特の親密な雰囲気が好きなの。現場でいろいろ工夫を凝らすのも、他の俳優たちとコラボレーションするのも。他に、やることを思いつかないの」と女優という仕事に熱中していることがシャーリー・マクレーンの人生を楽しませているようだ。さらに「やればやるほど、外見を気にしなくなったわね。もう鏡なんか全然見ないし、自分がスクリーンでどう見えるかなんて、気にしない。」と断言!外見を気にしないというのは、どれほど楽で心地よいのだろうか。。。。。

生涯女優でいる限り、彼女自身はずっと輝き続け、さらに私たちを楽しませてくれるに違いない。誰が見てもとびきりチャーミングなエルサを魅力たっぷりに演じている映画『トレヴィの泉で二度目の恋を』を観て、生涯女優のシャーリー・マクレーンにさらに期待してほしい。
 


 監督:マイケル・ラドフォード 
出演:シャーリー・マクレーン、クリストファー・プラマー、マーシャ・ゲイ・ハーデン、クリス・ノース 
2014年/アメリカ/英語/STEREO/シネスコ/97分/
原題:ELSA&FRED (C)2014 CUATRO PLUS FILMS, LLC
提供:リヴァーサイド・エンターテインメント・ジャパン 
配給:アルバトロス・フィルム www.torevinoizumide.com

2015年1月31日(土)~Bunkamuraル・シネマ、2月7日(土)~テアトル梅田、京都シネマ、2月14日(土)~シネ・リーブル神戸 他全国順次公開

(プレスリリースより)

kano-550.jpgKANO〜1931 海の向こうの甲子園〜

tigris-550.jpg『イラク チグリスに浮かぶ平和』綿井健陽監督インタビュー

(2014年11月5日(水) 大阪セブンシアターにて)

(2014年 日本1時間48分)

監督・撮影:綿井健陽
出演:アリ・サクバン

2014年12月6日(土)~12月26日(金)大阪・第七藝術劇場
2015年1月9日(金)~1月15日(木)神戸アートビレッジ

公式サイト⇒ http://www.peace-tigris.com/
(C)ソネットエンタテインメント/綿井健陽


 

★イラクの“戦後10年”、崩壊家族を訪ねて

 

衝撃的なドキュメンタリー映画『Little Birds イラク 戦火の家族』(05年)から10年、映画監督でフリージャーナリストの綿井健陽監督が撮った“続編”『イラク  チグリスに浮かぶ平和』が完成、12月に公開される。先ごろ来阪キャンペーンを行った綿井監督に聞いた。

tigris-di-1.jpg―――“続編”の製作構想はいつから?
綿井監督「去年、2013年がイラク戦争10年なので、メディア的な発想だけど、そこで公開したかった。そのために2011年ぐらいにイラクに入って、と考えて、実際エジプト経由でリビアへ行くチケットを取っていたが、丁度飛び立つ日に(東日本)大震災が起きて、翌日に福島へ行った。そのため1年遅れた」。

―――結局、撮影に入ったのは?
綿井監督「去年3月から4月にイラク入りして撮影した。顔写真いっぱい持って行って、前回の撮影で知り合った友人たちを訪ね回った」。

―――実際には2007年ごろまでイラクに行っている。
綿井監督「2008年から2013年まで5年は、ビザの問題もあって行けなかった。外務省がイラクの大使館に“フリーランスは入れないように”と言っていたようで、2005年にはヨルダンのイラク大使館で発給拒否されました。スタンプまで押してるのに。政府としては、フリーが勝手に入って、捕まったり処刑されたりしたら責任問題になる、ということでしょう。そういう事件も実際にあったし。フセイン政権崩壊後はビザなしで良かったけど、2007年からビザが要るようになった。だから入国ルートを探しました」。

tigris-7.jpg―――続編を作って感じることは?
綿井監督「Little Birds~は1年間の映画だけど、続編は10年間というスパンでとらえた。前作にも登場した友人のアリ・サクバンが亡くなっていたのには驚いた。2008年に亡くなっていたのに5年間、知らなかった。知るタイミングが遅すぎた。イラクでは、家族、親族の誰かが亡くなっている。実はイラクの死者の公式データはない。英国のNGOが毎日のニュースを調べて集計していて、それによると、少なくとも15万人以上が死亡している。イラクの人口は国連調べで3000万人から3500万人。その5%が死んでいることになる。こんな異常事態が日常化している」。

―――映画に登場するフセイン大統領の銅像をみんなで引き倒す場面で、自由を得たと青年が語っていたが、10年後には「何も手にしていない」と分かる。
綿井監督「銅像を引き倒した瞬間は私もそこにいた。イラク市民たちが銅像を足蹴にしていた。だけどその後、何も変わらず、よけいにひどい状態になった。アリ・サクバンの家族はほとんどが亡くなっていた。イラクは家族が多い。10人兄弟もいて、5 ~ 6人兄弟は普通。サクバンの家は12人兄弟。親族も合わせると30人以上になる。そのほとんどが命を落としている」。

tigris-4.jpg―――10年前はこれで平和になる、という希望もあったが、この映画ではやりきれなさも感じた。
綿井監督「この11年間、爆弾テロや宗派対立がり、武装グループが市民を殺していた。フセイン政権を倒した後、この国はさらに混乱がひどくなった。自由にも民主主義にもなっていない。最悪の結果になった。死んだ人がどうして死んだのか、生き抜いた人はどうして生き抜いたのか、また、死んだ人も生きていたらこうなっていただろう、というところまで表現したかった。足を切断したサッカー選手の話の中で、イラク-シリアのサッカー大会の映像はそんな意味をこめた」。

tigris-6.jpg―――アリの家を訪ねて会った父親は綿井監督を見て「息子を思い出す」と言って悲しんだ。アリの義兄の「みんな平和を望んでいるだけなのに、アメリカが壊した。中東を支配するために」という言葉が重い。   
綿井監督「父親はだれもいなくなった部屋で自殺したいと言った。映画にある通り、私は生きて下さい、と言うしかなかった」。

―――イラクの混乱は分かりにくい。
綿井監督「イラクはフセイン大統領のスンニ派が約2割と少ないが、世界的にはスンニ派が圧倒的に多い。民主化されたイラクではシーア派が逆転し、権力抗争が起き、武力闘争が起こった。いったん戦争が起きると、果てしなく広がっていく。イラクは憲法も国会も出来、形だけは民主国家になって、駐留米軍もいなくなったが…」。

 


 

★激動の90年代、フリーで活動

―――原点の話になるが、綿井さんは映画監督かジャーナリストか、どっち?
綿井監督「ジャーナリストであり映画監督。どちらかと言えばやはりジャーナリスト」。

tigris-di-2.jpg―――大学(日本大学芸術学部)でも放送学科だった。
綿井監督「学生だった90年に湾岸戦争が起こった。89年には天安門事件(中国)もあり、92年にはPKOのカンボジア派遣もあった。カンボジアはベトナムとリンクしていて、ベトナム戦争については、カメラマン、記者の体験記などを読んでいた。学生時代に(ジャーナリストの)原型が固まった。記者志望で新聞、テレビ、雑誌ほとんど全部受けたが、1社を除いて通らなかった。一般企業に就職する意思はなかったので、フリーで活動を始めた。知人に誘われて98年からフリージャーナリスト集団アジア・プレスに入った。ギャランティは最初はなかった」。

―――イラクの仕事で知られるが、様々な事件現場に行っている。
綿井監督「ウーン、好きだから、ですね」。

―――イラクの仕事がいったん決着ついて、次のターゲットは?
綿井監督「今はこの映画に全力ですが、来年は戦後70年の節目の年。テレビ、雑誌、写真も活字も含めて、問いかけたい」。


 (安永 五郎)

 

babel-s550-2.jpg『バベルの学校』
La Cour de Babel

監督:ジュリー・ベルトゥチェリ
出演:ブリジット・セルヴォー二
2013/フランス/89分/ビスタ/5.1ch 配給:ユナイテッド・ピープル
2015年年始公開

© Pyramide Films




babel-2.jpg フランスには、”Classe d'accueil”と呼ばれるクラスが学校に設けられている。他国からフランスに移住してきたフランス語を母語としないこどもたちが、不自由なくフランスで生活し、フランスで教育を受けることができるよう、フランス語学習を強化した特別クラスだ。ジュリー・ベルトゥチェリ監督は、このクラスの日常を、自然なかたちでカメラにおさめた。年代は11歳〜15歳。アイルランド、セネガル、ブラジル、モロッコ、中国……出身国も違う、言語も違う、宗教も違うといった、さまざまな事情を抱える24人の生徒たちと、彼らの自立と成長を見守るブリジット・セルヴォニ先生との交流、そのありのままの姿が、8ヶ月にわたって語られる。

 テレビのドキュメンタリー番組を数多く手がけるベルトゥチェリ監督は、初の長編映画『やさしい嘘』では、2003年度カンヌ国際映画祭の国際批評家週間で大賞を受賞するという経歴も併せ持っている。 

 上映終了後にジュリー・ベルトゥチェリ監督と、ブリジット・セルヴォニ先生の二人が登壇、東京国際映画祭プログラミングディレクター・矢田部吉彦さんの司会で、Q&Aが行われた。
 



babel-s2.jpg――― 監督の映画を観るのは、『やさしい嘘』、『パパの木』に続き、今回が3回めになります。どの作品にも「命の大切さ」という共通のテーマが感じられます。この『バベルの学校』では、フランス語が話せなかったらフランスで生活ができず、自分の国に帰ると今度は命が危険にさらされてしまうこどももいましたが・・・?

ベルトゥチェリ監督:常に死と生を考えてはいますが、今回は特に意識はしませんでした。ただ、この作品にはつらい経験をしてきたこどもたちも登場し、必然的に『死』は反映されていると思います。試練を乗り越えたこどもたちから、そんな命の大切さを感じていただけたとしたら、嬉しいです。

――― ブリジット・セルヴォニ先生に質問します。毎週土曜日、外国にルーツを持つこどもたち(小学生〜高校生)の学習支援をしている者です。『バベルの学校』はフランスの映画ですが、日本も同じような状況にあると感じます。両親と離ればなれで暮らしていたこどもが、ようやく親から呼び寄せられたり、将来のことを考えて母国から離れてやってくるこどもたちが日本にもいます。そんな生徒たちに接するにあたり、どのようなことを心がけ、どのように接していけばよいか教えていただけますか?

babel-s3.jpgセルヴォニ先生:第一に、生徒たちの声を聞くことです。そして、生徒を励ますこと。その子の価値を引き出して自信を持たせてあげること、この3つが大切なことです。

ベルトゥチェリ監督:ブリジット(セルヴォニ先生)は、決して成績の良し悪しにはこだわりません。テストの点が悪かった場合は、教師の説明が悪かったからと考える人です。そして2−3週間後にもう1度テストをし、それでも悪ければ3回めをする。そして3回の中でいちばん高い点数を成績に反映するという方法を取っていました。そういうところがすばらしいですし、教育とは本来そういうものだと思います。

―――(司会の矢田部さんより質問)映画の中で、生徒たちが宗教について語るシーンがありましたね?

セルヴォニ先生:フランスでは、宗教を教育の場に持ち込むことを禁止しています。しかし、生徒たちの中から今ある問題を引き出し、異なる宗教を持つ人を理解できるようになってほしいと考えました。喧嘩ではなく、議論をすることによって相手の立場を考え、一緒に生活していくにはどうしたらよいか学んでもらおうとして、このような方法になりました。

babel-1.jpg――― 生徒たちの表情がとても自然でした。カメラの前でプレッシャーはなかったのでしょうか。監督はどのように撮影されたのですか?

ベルトゥチェリ監督:まず、自分のことを話し、生徒たちと信頼関係を築くことから始めました。監督である私自身が肩にカメラを乗せ、生徒と適度な距離をとりながら撮影しました。ドキュメンタリーは、被写体から自然にわき上がってくるものを撮るものと思っているので、インタビューは行わずに、自然発生した動きを私が拾っていきました。

――― 2年前に撮影されたかと思うのですが、生徒たちとは、その後も連絡は取り合っているのでしょうか?

セルヴォニ先生:生徒と先生の絆が強いクラスなので、卒業後も連絡を取り合っています。また、生徒たちも勉強を続けています。

 フランスにいてさみしいといっていた子も幸せな生活を送り、落第しかけた子も進級できた。3人ほど、故郷の国に帰ったこどもたちがいたが、生徒同士も、FacebookやEメールで連絡を取り合っているという。

「10年後の彼らを撮りたい」と、ベルトゥチェリ監督は語り、Q&Aは終了した。



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 初めて教室でカメラを回したときは、戸惑いがちの生徒もいた。しかし、10月からの8ヶ月間、週2-3回のペースで学校に通いながら、ベルトゥチェリ監督は、生徒たちとの信頼関係を少しずつ築き上げてきた。自分自身のこと、どのような作品をめざしているかなど、監督は生徒たちに根気よく説明をした。生徒たちがカメラの前でも自然に振る舞えたのは、このような日常があったからだ。

 ある朝、ブリジット先生から電話が入る。「急に転校することになった生徒がいる」と。ベルトゥチェリ監督は朝食の支度を中断し、カメラをかついで学校に向かった。感動的なシーンの数々は、ブリジット先生の理解と協力があってこそだった。ブリジット先生のこんな気配りは、本編にちりばめられたさまざまなシーンからも容易に知ることができる。そして、映画祭上映後のQ&Aで、「生徒たちへどのように接するべきか」という観客からの問いに対する、先生の答えが心に残る。「生徒の話を聞くこと。生徒を励ますこと。その子の価値を引き出して自信を持たせてあげること、この3つです」。

『バベルの学校』は2015年新春、日本での順次公開が予定されている。

(田中 明花) 

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seadragon-550.jpg『ライズ・オブ・シードラゴン  謎の鉄の爪』

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『浮城』 - 映画レビュー

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