「中国」と一致するもの

『オロ』 - 映画レビュー

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『オロ』岩佐監督、代島プロデューサーインタビューはコチラ

© OLO Production Committee

olo-s2.jpg(2012年 日本 1時間48分)
監督:岩佐寿弥
プロデューサー:代島治彦
音楽:大友良英 
絵・題字:下田昌克

© OLO Production Committee

6月30日~ユーロスペース(東京)、7月7日〜シネ・ヌーヴォ、(公開時期未定)京都みなみ会館
公式サイト⇒http://www.olo-tibet.com/

~少年オロの悲しみと明るさが心に刻みこまれる…~

チベットでは、中国政府の政策でチベット文化やチベット語の公教育が十分行われず、親たちは、インド北部のダラムサラにある「チベットこども村」(チベット亡命政府が運営)という全寮制の学校で勉学させるため、あえて子どもたちを人に託して、ヒマラヤを越え、亡命させる。少年オロもそんなふうに6歳の時、母から国外へと送り出された一人。映画の前半では、オロの学校生活や、友達の家族の姿が描かれ、家族が離散した悲しみや、友達が体験した亡命の苦労が語られる。後半は、岩佐監督ご本人が登場。オロは、監督とともに、チベット難民一世でネパールで暮らすおばあちゃん(監督の前作『モゥモ チェンガ』(2002年)の主人公)の家を訪ねる。

おちゃめで繊細な少年オロはじっと見守りたくなるくらいにかわいく、その表情にひき込まれる。オロを主人公としたドキュメンタリーでありながら、他のチベット映画の映像やアニメ映像も挿入され、撮影者である監督と被写体のオロとが映画について語りあうシーンもあり、自由な作風が魅力的。来阪された岩佐監督と代島プロデューサーから本作の魅力についてたっぷりとお話をうかがったのでご紹介したい。


■映画化のきっかけ

olo-1.jpg―――最初にチベットに魅かれたきっかけは何ですか。

監督「16年前、妻がトレッキングをやっていて、ガイドの方がネパール国籍を持つチベットの難民でした。妻たちが山に行っている間、僕は、彼が育った難民キャンプに行くようになりました。日本人と顔も感覚も似ていて、難民キャンプの空間も、僕の子どもの頃を思い出し、とても懐かしい、でもひとつ微妙な違いを感じていました。何だろうと思っていたら、こびへつらわない、卑屈にならないというのがあって、チベット文化が生み出すものだと思いました。チベット仏教が生活のひだまでしみとおるようにあって、そういう伝統の中から生まれてきた一つの人格という独特のものを、難民の人たちが外国へ行っても、とても大事にしているところに、とてもひかれました。

こびへつらうことは、威張ることの反対のようにみえますが、僕は一つのことだと思います。威張ることの裏返しがへつらうことで、威張りたい人は局面によってはすぐ卑屈になるし、卑屈な人は威張るチャンスがあれば威張りたがる。チベットの人たちにはそういうものがありません。日本人でも卑屈でない人はたくさんいますが、チベットの場合、子どもの時からそのようなものが育たないように育てられてきている感じがして、それがひきつけられた第一の理由です」

―――チベットの映画を撮ろうと思われたのは?

監督「チベットの人たちは、異国の地で、自分たちが持ってきた文化を抱きしめるように大切にしています。お寺もすぐつくるし、難民になってもお坊さんはいっぱい出てくるし、日常は全部祈りを中心に進んでいきます。衣装やお茶、生活の細かい様式で、強いられなくても自然に文化を保っている姿をみると、戦後私たち日本人が失ってしまったものがとても大事だったと考えさせられました。それで、最初は、そういった文化を一番守っているおばあさんの映画をつくりたいと思い、それから10年経って、今度は少年の映画をつくりたくなって、踏み出したんです」

olo-2.jpg―――なぜ少年を主人公にしたのですか。

監督「2008年の北京オリンピックの聖火リレーで、世界中あちこちの聖火が通る場所で人権デモがあり、チベットの置かれた状況についても広く知られるようになりました。その時、日本でもチベットのための運動が起きて、33年間監獄に入っていたバルデン・ギャツォ師という老僧が日本に来て講演をされました。僕は、壇上のそのおじいさんにずっと見入っていたのですが、その時ふっと横から少年が現れ、二人が対話を始めたというような幻がでてきて、“少年”と思ったのです。それからしばらくして、十歳位の少年を主人公にしたら、何かが生まれそうだと思ったのが、始まりでした」

―――オロが暮らすダラムサラはどんなところですか。

監督「北インドのダラムサラは、チベット難民に与えられた街で、インドの中のチベットです。1959年にダライラマ法王と一緒に亡命した難民たちに対し、翌年、インド政府がそこを与えることを決定しました。イギリス植民地時代のイギリス人たちの保養地、避暑地です。商売をするインド人もいますが、量的にも質的にもチベットの街で、当時のネルー首相が教育は大事だからと、チベットの学校もつくられました。

その頃チベットでは、中国政府の下、チベット文化の教育が全くなされず、そのことに耐えられない親たちが、ちゃんとしたチベットの教育を受けさせるため、子どもをインドに送り出すことが始まりました。年間何百人もの子どもたちが亡命したことも一時期ありましたが、今はそれほどではありません。お金を渡して、人に子どもを託し、ヒマラヤを越えてインドまで送りつける。そして、その人だけがチベットに帰ってくるということが秘密裏に行われていました。

映画に登場するホームの子は、警察に捕まるという典型的な苦労をしていますが、凍傷で足の指がなくなる子どももいます。生涯会えないかもしれないという不安があっても、親は子どもの教育が一番大事と考え、あえて亡命させるのです。中国の学校では差別があるでしょうし、チベット語で5、6歳まで育った子が、学校に行くと全然チベット語を使えないというのは、親にしたら、心配で見ていられないのではないでしょうか」

■少年オロの魅力 

olo-s1.jpg―――山で、オロがお母さんに向けて、しゃべりながら歩く場面がとても印象的です。

 

監督「お母さんに手紙を書くように語ろうかと丘の上でオロに言いました。それまで特に何も言ってなかったのですが、やろうと言ってから3分位で、あれだけ大人びた、しっかりした内容の言葉を頭の中で構築できるのは、驚くべき才能ですね。オロが特別ではなく、チベットの子はああいうことができるのです。日本の子とはえらく違います。でも、おやつをもらえなかったりした時、お母さんが恋しい、と子どもみたいなこともオロは言うでしょう(笑)」

―――映画の冒頭では、逆にオロが原稿を読むシーンがありますね。

監督「あれは真反対ですよね。映画の中でこれぐらいのことは言っておかないと筋道がわからないというのがあって、モノローグのナレーションをつけようと思って撮りました。録音機がなくて、カメラで録ったのですが、それなら写っていてもいいじゃないかということで、ライティング(照明)も何もせず、音を録るために撮っていた映像を、編集の時にそのまま使うことになりました。あのナレーションにどんな映像をあわせても、ちっともおもしろくなく、一緒に写された映像をそのまま入れると、言葉で説明しているオロがドキュメントされていて、非常に立体的になっています」

代島「あれは、オロ自身が、『音しか使わない』と言われてしゃべっていますから、表情を撮られているとは思ってなくて、ほとんど素なんです。だから、しゃべる緊張感とかしゃべり終わった後の開放感とか、一番オロらしい表情で撮れたところですね」

監督「観客に伝えなきゃいけないある程度の事実の説明もできるし、非常にうまくいったと思います。あれは『やらせてますよ』ということと、『やってますよ』ということと、そういう関係を、ずっと縄をよじるようにやってきて、映画の後半は、やらせていた人(監督)が、いつのまにか被写体となってくるとか、そういう意味もありますね」

代島「嵐がきて、外で撮影ができないということで、音も密閉されていない普通の部屋で録音しましたので、雷が鳴ったり、どんどん暗くなっていったのも妙にリアルでしたね。意図したわけではありません(笑)」

olo-s3.jpg―――オロがカメラをのぞきながら、監督に向かって「アクション、スタート」と言うシーンは、おもしろいですね。

監督「ああいう遊びは、放っておけば、するんですよ」

代島「オロはずっと撮られてるんですよね。ずっとそうだったから、逆のことをずっとやってみたかったんです。監督も長旅で疲れていましたが、オロにつきあってましたね(笑)」

監督「同じバスの中で、オロが、揺りかごのまねをするところも本当にかわいらしいですね。気持ちが自由なんですよ。小さな街から出て行ったこととか、いろいろ含めてちょっと気持ちもはしゃいでいて、バスの中の移動感も出ていて、あそこはよかったですね。オロというのは本名とは違うんです」

―――オロが、ネパールの難民一世のおばあちゃんと、チベットでの放牧の話をしているときの顔は、本当に生き生きとしていましたね。

監督「観た人の中で、あのシーンについて語ってくれる割合はものすごく高いです。二人はかなり長くしゃべっていますが、その長さがいいみたいな感じで、観客からのリアクションがあります」

―――明るくて屈託のないオロが、ネパールの難民キャンプで仲良くなった難民三世の姉妹に、亡命する途中の苦労について尋ねられて、初めて、つらい思い出を終始うつむき加減で答えるシーンがすごく印象的でした。

代島「オロがしゃべるのは、ある程度仲良くなって、好かれてるということがわかってるからだと思います」

監督「オロは僕たちにはああいうことはずっとしゃべりませんでした。全体として、オロは、特に思い出したくはないというのがあって、その中でやっと語ったということだと思います。その前に『いい人に拾われて』と言っていますが、そういうのも気を遣っているんだと思いますよ。朝、水をぶっかっけられて起こされた人だというのに、『いい人』と表現するなんて、矛盾しているおもしろさですよね。子どもが、しゃべりながら、状況に気を遣っているんです。彼女たちがかなり追求するみたいな形でしゃべるのは、映画の方から頼んでる面もあるんですけど、チベット人は聞き出したらずけずけ聞いていくところがあって、非常にチベット人らしいです」

―――亡命の途中、たった一人で迷子になってしまったオロがお店の人に雇ってもらうよう頼んだ時の言葉が「僕を買って」という訳になっているのが気になりました。

監督「きつい言葉なので、「雇って」という言葉に変えた方がいいのではないかと話し合いました。それで僕がチベット人に、ああいう時に「買って」と言うのかと聞いたら、それは言いませんとのこと。じゃあ、オロはどう言っているのかと聞くと、オロは「買ってください」と言ってます、と教えてくれた。それで、これは絶対僕は使いたいと思って、あえて、オロが言っているとおりに「買う」という言葉を訳に入れました。子ども心に、オロはそこまで追い詰められていたということなんですね」

―――最後にオロが、監督に向かって「ありがとう」というときの表情がすごいですね。

代島「チベットの人たちを代表して言ってる顔だねという感想がありました」

監督「オロはちゃんとだぶらせてますね。心のどこかで、チベットとしてありがとうと言っているのだと思います。本人はそんなことを計算しているわけじゃないですよ。でも、心の中は多分そうだろうと思います。本当にロケの最後の頃に撮ったシーンです」

■似顔絵と歌について 

―――映画の最後に出てくる似顔絵は、一枚一枚深みがあって、人生を感じました。似顔絵を使おうと思ったのはなぜですか。

 

監督「はじめ僕は成立するかなあと疑問に思っていたのですが、ものすごくよかったですね」

代島「似顔絵を描いた下田昌克さんは、チベットと出会うことで人生が変わった画家です。会社を辞めて放浪の旅に出て、いろんな絵や似顔絵を描いて、旅から帰って、その絵を気に入った編集者がいて、週刊誌に連載したりして絵描きになりました。この映画の気持ちがよくわかったのだと思います。

この映画は、監督の『ヨーイ、スタート』という掛け声から始まっていて、作り手のメッセージがあってもいい映画だと思っています。撮るということで、皆さんを引き込みながら映画をみせていく。フェイクしながらリアルをみせる。だから、最後にすごくリアリティがあるけど、『絵』というもの(フェイク)が入ってきてもいいんじゃないかと思いました。

映画は、学校の夏休み、冬休みと進んでいきますが、前半の物語と後半の物語とに分かれていますよね。映画の最後に、物語の総体というか、最初からの全体を感じてほしかったんです。そのとき登場人物の一人ひとりがどういう思いを抱えて生きているのか、ということを思い出してほしい。そこに岩佐監督の大好きなオロの歌「きっとまた会おう、兄弟たちよ」という歌を重ねたい。あの登場人物一人ひとりにも会いたい人がいるし、皆が会いたい。じゃあ、人間を出したいという中で、似顔絵を出そうという発想が出てきました」

監督「あの歌には『チベットでみ仏と会うことができますように』という歌詞が何回も出てきますが、チベット人は“み仏”というのを“ダライラマ”だと思って歌っているんです。でも、翻訳の人に、具体的に“ダライラマ”と言ってるのかと聞くと、いや、“み仏”と言ってると言われました。ダライラマ法王は観音菩薩の化身なんです。それを“み仏”といって歌にしていますが、心は具体的には“ダライラマ”なんです。ただ、歌の訳を“ダライラマ法王”と書いたら、日本人からみたら全然違うイメージになる。結局、言葉として言っているのは、“み仏”だから、“み仏”という訳にしようということになりました。

僕は、頑張ってチベット人と同じ気持ちになって、あれが“ダライラマ”だと思って歌っていると想像して、あの画面を観てると、ぐーっと迫ってきて、涙が出てきました。チベットの人たちにしたら、“ダライラマ法王”にチベットに帰ってきてほしいんです、そして、自分たちもチベットに帰って、あそこで会いたい、そういう歌なんです。ダライラマを慕って、一緒に国外に亡命した人もたくさんいますし、中国政府に禁止されているのを承知でダライラマの写真を大切に持っている人もいます」

―――観客の方へのメッセージをお願いします。

監督「チベットが中国にいじめられているという概念ではなく、映画を楽しもうという気持ちで、構えないで、観てほしいと思います」


オロが乗り越えてきた苦しみ、悲しみを知り、驚きながらも、今、目の前に映っているオロの明るさ、賢さ、たくましさに、未来への希望を感じずにはいられなかった。最後に、監督にお礼を言う時のオロの表情は、少年と大人が同居しているような、あどけなくて深みのある顔で、その成長ぶりに息をのんだ。ぜひ映画館へオロに会いにいってほしい。

少年オロの姿をとおして、未来がみえない不安の中でも、人とつながっていること、人との絆を感じることで不安を乗り越えていけるし、しっかりと前を向いて歩き続ける勇気がわいてくることを教えられた気がした。

 大阪シネ・ヌーヴォXでは、本作の公開にあわせ、「チベット映画特集2012」と題し、『モゥモ チェンガ』(2002年)をはじめ、チベット映画4本も上映される。ぜひこの機会に観に行ってほしい。

(チベット映画特集2012⇒http://www.cinenouveau.com/sakuhin/tibet/tibet.htm

(伊藤 久美子)

 

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 318-7.jpg『捜査官X』 (武侠/WU XIA)
ゲスト:ピータ・チャン監督

(2011年 香港・中国 1時間55分)
監督:ピーター・チャン
出演:ドニー・イェン、金城武、タン・ウェイ、ジミー・ウォング
2012年4月21日(土)~新宿ピカデリー、大阪ステーションシティシネマ、なんばパークスシネマ、MOVIX京都、神戸国際会館、ほか全国ロードショー
公式サイト⇒
http://sousakan-x.com/
 (C) 2011 We Pictures Ltd. Stellar Mega Films Co., Ltd. All Rights Reserved.


   第7回大阪アジアン映画祭のクロージング作品「捜査官X」が18日夜、中之島のABCホールで上映され、満員の盛況で映画祭を見事に締めくくった。これに先立ち、来日したピーター・チャン監督が記者会見した。

 sousakanx-1.jpg●中国伝統の武侠映画へのオマージュが感じられるチャン監督
(武侠)映画には小さいころから影響を受けてきた。中国で「武侠」というタイトルが物議を醸した。中国では6~7割がこのジャンルだから「ちょっと違うんじゃないか、と言われた。
 (武侠映画は)若い頃は好きなジャンルだったが、最近はあっちこっち飛んだりするだけ。実際の武術はどんなものだったのか、私は(拳が)当たった時にどうなるか、考えてみた。違う取り上げ方をした。
『武』は文字通りアクションだが『侠』には犠牲的精神の意味がある。この映画では主人公は犯罪者だし、犠牲心はどこにあるのか、と言われた。白黒はっきりしない、すべてがグレーだから。中国ではマーケティングでミスしたかな、と。
アクションとして武術の美しい動きはあり、ファンにはスーパーヒーロー的な側面があったと思う。私は武術が美しく見えるよりも打撃が体にどういう影響を与えるかを描いた。
私はこれまで、一見商業的な映画を主に作ってきたが、すべて人間ドラマを作ってきた。「武侠」というタイトルでもその点は同じ。日本の「捜査官X」はいいタイトルだと思う。

 318-8.jpg● 共演の(ドニーの妻役)タン・ウェイが印象的だった。
チャン監督 中国の美人女優の中で彼女はテンポがずれている人、奇妙な女優さんでね。常に不安感を抱えている。彼女が台所で働いているところにフラっとドニー・イェン が現れる。彼女は「どうしたらいい」と聞いてきたので「自分の好きなようにやってみたら」と言ったらうまくいった。(ドニーは)彼女の知らない人なのに、 夫として暮らし知らないのに知ってるような不思議な演技、スリラーっぽい演技になった。


●最後に日本でもなじみの深いジミー・ウォングが登場して死闘を繰り広げるところは感慨深かったが。
チャン監督 ドニーも私も「片腕ドラゴン」を経験していた。セリフでは何度も(黒幕として)登場するが本人は最後だけ。映画出演は13年ぶりだったが「出てほしい」とお願いしたら快諾してもらった。

● 最後のドニーとの戦いでドニーが片腕なのは「片腕ドラゴン」ジミーへのオマージュか?
チャン監督 結果的にオマージュになった。ドニーとは毎日ブレインストーミングした。最後をどう盛り上げるか、ドニーは困っていた。その結果「ジミー・ウォングしかいない」と結論した。遊び心もある。楽しさを満喫出来た。


● 監督は金城武とは何度もやっているが、やりやすいのか?
チャン監督 彼は出演するに当たり(役柄について)何度も質問される。それによって役が深まっていく。いつも映画が仕上がった時に満足出来る役になっている。もっと彼の演技が評価されていいと思う。


【STORY】
 山奥で起こった殺人事件の調査に当たった天才捜査官シュウ(金城武)は殺されたのが凶悪犯2人だったことから疑問を抱き“村の英雄”になっていた男ジン シー(ドニー・イェン)を取り調べを始める。彼の“正当防衛”には不可解な謎があることに気付く。丸腰の職人がなぜ苦もなく無頼漢を倒せたのか、彼には深 く謎めいた過去があった…。 (安永 五郎)

(C) 2011 We Pictures Ltd. Stellar Mega Films Co., Ltd. All Rights Reserved.
 


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大阪アジアン映画祭のオープニング作品『道 ~ 白磁の人 ~ 』で高橋伴明監督(右)と主演の吉沢悠。
(C)2012「道~白磁の人~」フィルムパートナーズ

 michi-1.jpg   『道~白磁の人~』

(2012年 日本・韓国 1時間58分)
監督:高橋伴明
出演:吉沢悠、ペ・スビン、塩谷瞬、黒川智花、近野成美、
    チョン・ダス、チョン・スジ、市川亀治郎、堀部圭亮、
    田中要次、大杉蓮、手塚理美
2012年6月9日(土)~新宿バルト9、梅田ブルク7、T・ジョイ京都、TOHOシネマズ西宮OS ほか全国ロードショー
公式サイト⇒ http://hakujinohito.com/


 ●第7回大阪アジアン映画祭スタート
 大阪アジアン映画祭が9日夜、大阪・梅田ブルク7で日韓合作映画「道~白磁の人~」の上映からスタート、高橋伴明監督と主演の吉沢悠が初日舞台あいさつを行った。


 michi-3.jpg 「~白磁の人」は激動の大正初期、朝鮮半島に林業技師として渡り、朝鮮の伝統工芸・白磁に惚れ込んでその芸術的価値を多くの人に知らせた浅川巧の生涯を描いた“現代へのメッセージ”。
 上映前に会見した高橋監督は「アジアがもっと強くならなきゃならないと思ってた時にオファーがあった。日本と韓国が手を結んでいくことが大事。8割以上 韓国人スタッフで、撮影から仕上げまでほぼ全部韓国でやった。新たなことが出来た」と韓国で映画を完成させたことに満足げ。


 韓国人俳優・ペ・スビンと熱い友情を育む主役を務めた吉沢も「“道”で韓国のスタッフ、キャストと仕事するという有意義な経験が出来た。浅川さんの活動に共感出来るし、アジアにこれだけ素晴らしい 人がいたんだとアピール出来たと思う」。
 裁判映画「BOX袴田事件」、京都造形芸大の学生とのコラボ映画「MADE IN JAPAN こらっ」など一作ごとに意欲的な映画作りが話題を集める高橋監督にとって、アジアン映画祭オープニングは「自信を持って投げ込んだストレート作品」と自信 を見せた。

 michi-s4.jpg――  韓国での撮影は困難が多かった?
高橋監督: 「いきなりセットが豪雨で流され、別のオープンセットを使わなければならくなる試練がに見舞われ たが、日韓のスタッフがいろんな工夫をすることでひとつになれた。韓国は絵コンテで撮影を進めていくけど、僕は(絵コンテを)書かないのでそれを説明する のに時間がかかったかな。現場は1日で慣れた。天候は不順で雨にたたられたけど、雨の時はこうしよう、といつも考えていた」。

――伝説的な実在の人物・浅川巧の映画化だが
高橋監督:かつて芸術系の雑誌(芸術新潮)で読んでどんな人かは知っていた。(浅川さんの作品は)候補に上がった時に見せてもらって、自然の中に置きやすい、自然との共存が感じられるナチュラルな人だと思った。
吉沢:浅川さんは知らなかった。小説読んで、素晴らしい活動をした人だと知り、日記も読んでお茶目なところもあると知ったり、僕自身が浅川さんに近づいていこうと思った。ロケで感じるところもありました。監督からは“吉沢とペ・スビンが友情を育んでくれたら”と言われていた。
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 ――役作りは?
吉沢:浅川さんは好奇心があった人。朝鮮半島の文化をあの時代に受け入れた。映画は韓国で公開されることも決まっているので、こういう日本人がいたことを日本でも韓国でももっと知ってほしい。

――韓国人スタッフやキャストについては?
高橋監督:プライドの高さ、謝らないことなど、日本人が見習うべきことも多い。ごめんなさいと言わないこともあるが、自分の意見をきちっというのは大事なこと。細かいことまで監督にジャッジを求めてくる。

 ――大阪アジアン映画祭のオープニング作品だが
 
吉沢:大阪の友人に会って、大阪の人が行きやすいイベントに、韓国も中国も入っていて、ラインアップに『道』が入っている。そのオープニングなんて光栄です。
高橋監督:そういう意識は持ってなかったが、アジアン映画祭で初めて見ていただける意義は感じています。コンペ部門で反応を知りたいぐらいです。

●舞台あいさつで
高橋監督:結婚して30年、監督やめようと思ったこともあるが、(恵子夫人から)“私は映画監督と結婚した”と言われて続けてきた。今回はストレート投げました。どのように感じてもらえるか、楽しみです。
吉沢悠:言葉の壁は最初はあった。CDで韓国語を勉強していったが、スタッフ間では映画人の心と心のつながりがありました。ペ・スビンとは英語で話した。 彼は釣りが趣味で、夜に内緒で釣りに行ったりもしました。
 



※第7回大阪アジアン映画祭は10日から18日まで、大阪・梅田ガーデンシネ マ、ABCホール、シネ・ヌーヴォ、HEP HALLなどで行われ、台湾、韓国、中国、香港、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、日本などアジ ア各国の映画が上映される。問い合わせは06-6373-1225アジアン映画祭運営事務局へ。 (安永 五郎)                        
 

carol.jpg  第7回大阪アジアン映画祭のコンペティション部門出品作品、香港映画祭上映作品となったキャロル・ライ監督の『二番目の女』。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2002で審査員特別賞を受賞した『金魚のしずく』、日本で劇場公開されたカリーナ・ラム、リゥ・イエ主演の『恋の風景』と女性監督ならではの繊細な描写に定評があるキャロル・ライ監督の最新作が海外初公開され、大いに会場を沸かせた。

  双子の美人姉妹と二人が愛してしまった男をめぐるラブサスペンスを、現実と劇中劇を交錯させながら美しくもミステリアスに描いた本作。一人二役に加え、舞台劇でも二役をこなしたアジアンビューティー、スー・チーの熱演や、舞台劇もこなしシリアスな演技を披露したショーン・ユーの新しい魅力を堪能できる作品だ。

  第7回大阪アジアン映画祭および香港映画祭のゲストとして来阪したキャロル・ライ監督に本作の着想や、香港映画界の今について話を伺った。


━━━本作の着想はどこから得たのか。
私には双子の友達がいるのですが、お互いの友達が間違えるので、最終的に二人とも間違えられても「そうよ。」と答えるようにしているという話を聞いたのです。その状況が面白いと思い、本作の構想が浮かんできました。

劇中劇を取り入れたのも、舞台の話と現実の話の二つがあって、舞台のストーリーが二人の状況に繋がっているので両者を融合させました。女優が何かを「演じる」ということが主題にもなっています。

 RIMG1108.JPG━━━劇中劇は元々ある作品なのか。
『再世紅梅記』という越劇(広東オペラ)で、香港人なら誰でも知っている有名な作品です。古典作品なので、せりふ回しを現代風にアレンジし、北京語に変えています。

━━━スー・チーの一人二役ぶりが見事だが、出演するにあたってのエピソードは?
脚本を見せた時点で面白そうだと思ってもらえました。山口百恵が双子の姉妹を演じた『古都』(80市川崑監督作品)をスー・チーさんに見せ、こんな感じで演じてみてはどうかと打診したところ快諾してもらいました。

━━━どのようにして双子姉妹のキャラクターを作っていったのか。
もともと細かく姉妹の設定をしていました。姉は優しい性格で妹を大事にしているし、妹は奔放で野心が強い。スー・チーさんはトップクラスの女優で理解力も高いので、設定を読み込んでご自身でキャラクターをしっかり作り込んでいきました。

━━━ラブストーリーでのショーン・ユーのシリアスな演技が新鮮だったが、
ショーン・ユーさんは見た目は現代的ですが、時代劇にもマッチするルックスです。本作では時代物の劇中劇を披露するので、時代物の装束をつけてもかっこいい彼を起用しました。

━━━ 一貫してモノトーンな姉妹や劇中劇の衣装が印象的だが、衣装、美術に関するこだわりは?
本作では美術、衣装にもこだわっています。衣装担当には「シンプルで、かつ華麗な感じ」と指示をしました。キーカラーを赤、黒、ゴールド、白の4色に決め、そこからあまり離れることのないようにしました。

基本的には無地の衣装が多いですが、冒頭で姉が着用する花柄のワンピースが登場します。水中シーンにも使われているのですが、ここでは水の中でも写りのいいワンピースを衣装担当がわざわざ選んでくれました。

━━━今の香港映画界はどんな動きになっているのか。
今の香港映画界は大陸と合作の作品ばかりになっています。香港だけで作っている作品はほとんどない状況です。ジョニー・トー監督やイー・トンシン監督もしかりですが、香港市場が小さくなっているので、合作でないと成り立たないのです。また、大陸では審査があるので、どうしてもそれに合わせた描き方になってしまいます。

━━━大陸ではどんな映画が望まれているのか。
私もまだ模索中です。『2番目の女』は香港に先駆けて大陸で公開したので、すでにネットで評判が出回っており、高尚な趣味の方には受け入れられているようです。大陸の観客の大半は、まだ映画を見る水準が一定のところまで達していません。香港人だと音がいい、映像がきれいといった部分まで見ますが、大陸の人はまだストーリーとセリフに重きを置いていると思っています。

━━━最後に本作で監督が描きたかったことは?
女性の微妙な心理を描いています。そして常に誰かと比較してしまうような、人間としての微妙な心理を描いているのです。(江口 由美)


nibanme.jpgのサムネイル画像『2番目の女』 (The Second Woman)
~人の心こそ,この世で一番ミステリアス~

(2012年 香港,中国 1時間45分)
監督:キャロル・ライ
出演:スー・チー,ショーン・ユー,チェン・シュー,シー・メイチュアン,チャン・ナイティエン


姉フイシャンと妹フイパオの双子の姉妹を巡る映画だ。スー・チーが一人二役で姉妹に扮した。最初は外見だけでなく性格も2人の違いが明瞭になるように演じているが,次第に区別が曖昧になりミステリアスな色が濃くなる。監督は,イカ墨が流れ広がるシーンに姉の心の暗闇をイメージしていたと言う。イカ墨がどす黒い血のような感触で,何か悪いことが起きそうな予感がする。実際に姉の行為が原因となって姉妹の間に不和が生まれる。

妹は,舞台女優であり,同じ劇団の俳優アナンと付き合っている。ところが,姉がアナンと惹かれ合う気配を感じ,猜疑心に満ちた眼で姉を見る。そのシーンがホラー風で,姉妹の間に流れる不穏な空気を映すようだ。また,姉が体調を崩した妹に成りすまして舞台の代役を務めるが,その後で妹が「別人のようだった」と絶賛の拍手を浴びる。そのときの妹は驚き困惑した様子で,姉との確執を深めていく。なかなかサスペンスフルな展開だ。

広東オペラを舞台劇に改編した「紅梅記」が劇中劇として上演される。3年前に死んだフイシャンが彼女と瓜二つのチャオロンに憑依し,恋しいペイランに会いに来るという話のようだ。劇団の看板女優に扮したチェン・シューが劇中劇で一人二役を演じ優美な所作で魅せる。赤と白の衣装は情熱と清明を感じさせる。ペイラン役のアナンの前で,フイシャンがフイニャンと,チャオロンがフイパオとシンクロし,壮絶とも言える結末を迎える。

フイシャンがフイパオに付いて裏山に行った後,フイパオが戻ってきてフイシャンが行方不明となる。舞台での立ち位置,湖で発見された上着等を用い,もしかしたら逆かも知れないと思わせる。一方が他方に殺されたのではないかという疑問も浮かぶ。母親でさえ区別が付かないミステリアスな展開の中,クライマックスでは戻ってきた方が劇中劇のヒロインを演じる。妹と同じ男を愛した姉の心には暗闇が広がり,自身をも呑み込んでいく。

(河田 充規)

 


 

mugon3.jpg(2010年 香港=フランス=ベルギー 1時間49分)
監督:ワン・ビン
出演:ルウ・イエ、シュー・ツェンツー、ヤン・ハオユー、リー・シャンニェン他
2011年12月17日~ヒューマントラストシネマ有楽町、12月24日~テアトル梅田、2012年1月7日~第七藝術劇場、京都シネマ、1月神戸アートビレッジセンター他全国順次公開
公式サイト⇒http://www.mugonka.com/


全3部545分に及ぶ、衰退する軍需工場と街や労働者を描いた『鉄西区』で山形ドキュメンタリー映画祭最高賞をはじめ世界の映画賞を獲得し、その存在を知らしめた中国のワン・ビン監督。初の劇映画となる『無言歌』全国順次公開、および全作一挙上映企画に合わせて初来阪し、未だ中国のタブーである反右派運動をテーマにした『無言歌』のインタビューに応えてくれた。

━━━『無言歌』のテーマである反右派闘争は監督が生まれる10年ぐらい前の話ですが、かなり以前から興味を持っていたのですか?

この映画を撮る決定的な動機となったのが、ヤン・シエンホイさんの小説『夾辺溝の記録』を読んだことです。この小説で書かれていた様々な人物や運命に大変感動を覚えました。実は小説を読む以前にも反右派闘争について知っていました。自分の身の周りにも、1970年末から1980年初頭にかけての文化革命時の右派が存在しています。

そして、この映画を撮るきっかけが立ち上がってから様々な準備を始めました。主に夾辺溝事件と呼ばれるこのときの事件について、様々な資料集めをし、数多くの人にインタビューしていきました。生き残った人たち、家族の人や当時の収容所の看守の人たちのインタビューを通じてより具体的に当時の事件を知ったのです。

反右派闘争のプロセスについては、90年代はじめから約10年間にわたって、右派分子と呼ばれた人が、当時の反右派闘争を振り返って書いた本が多数出版されました。映画の準備に入ってからこれらの書籍を読み、だんだんと反右派闘争の映画が撮れると自信を持ったわけです。

━━━.今回ドキュメンタリーではなく、劇映画として撮った意図は何ですか?

劇映画とドキュメンタリーに分かれてはいますが、学校ではほとんどフィクションを勉強しました。撮り方もフィクションの勉強をしたのですが、卒業してからフィクションを撮るような資金はなかなかなかったので、比較的資金がなくても撮りやすいドキュメンタリーに入っていきました。03年ぐらいですが『鉄西区』を撮ったあとで、『無言歌』ではない別の劇映画を撮る企画があり、その脚本を書くつもりでパリに飛ぶ飛行機でこの『夾辺溝の記録』を読んだのです。小説にとても感動したので、前の企画は置いて、この『無言歌』を撮ろうと決めました。

━━━反右派闘争は中国でタブー視されているようですが、原作の『夾辺溝の記録』の出版時の状況はどうだったのですか?

原作『夾辺溝の記録』は、出版されたとき苦難に見舞われました。短編集ではなく、短編をポツリポツリと時間を置いて一作ずつ文学雑誌に発表する方法をとりました。19の短編を集めて出版されたときは発禁になりましたが、出版社を変えてまた出版したのです。このテーマについて中国政府は、70年代末から80年代初頭にかけて「反右派闘争は拡大化されすぎた」という歴史的な結論を出しました。反右派闘争を何らかの芸術的方法で描くことについて完全に禁止はしないが、あまり歓迎はしないという態度をとっています。

━━━映画化や撮影に関して苦労されることはなかったですか?

『無言歌』の出資は香港・フランス・ベルギーで中国の制作会社は入っていません。このテーマで中国の映画館で公開されることはありえないのです。その反面、中国の映画館で公開されることを念頭に置かないために自由度がかなり高まり、あまり制限をつけないで済むので、自分たちの好きなように計画して撮ることができました。

中華人民共和国ができて最初の30年の間に様々な芸術作品の中で当時の状態をリアルに反映させることはなかなかできない時代でした。まだその最中にあった、歴史的には空白の時代です。今の時代は完全な自由ではないけれど、一定の自由度はあります。昔と比べると自由度がある分、描けなかった過去のことを描くということです。

撮影については、期間は長かったのですが、スタッフやキャストを絞って、具体的に何が行われているかを知られないように、決して宣伝せず密かに進めていきました。撮影の途中に面倒なことはなかったです。

━━━現状は、『無言歌』を中国の人に見てもらえないのでしょうか?

『鉄西区』以降の自分の作品は、国内では正式に上映されていません。この『無言歌』も中国で上映されることはないのですが、そういう状況をどうしても変えなければいけないとは思っていません。インターネットの時代となり、マスメディアの状況は変わっています。様々な方法によって多くの中国人が僕の作品を見てくれます。『鉄西区』のDVDは、海賊版が正規のDVDよりよく売れています。また『無言歌』もフランスのTVで放映されたのをDVDにコピーした海賊版が出ていて、これも売れ行きがいいそうです。営業的な観点から見ると全く利益がなく困ることなのですが、映画自体にとっては多くの観客が見てくれる、観客が数多くいるということが重要です。

━━━実際に反右派闘争の生存者や遺族の方にインタビューされて、監督が感じたこと、また作品にどのように反映されようとしたのでしょうか?

原作となった小説は19の短編からできていますから、それをどういう風に映画に撮っていくかを考えなければなりませんでした。数ヶ月の間さまざまな角度から考えたのですが、例えば資金面の問題やどれだけ自由に撮れるかといったことを考えた末に、夾辺溝事件で収容所に送られた右派の人たちの3年間から最後の3ヶ月だけを残すことにしたのです。教育農場にいた人たちが明水(ミンシェイ)に移された後の3ヶ月、解放され家に帰れるまでの3ヶ月に焦点を当てて撮ることにしました。そうなると、ヤン・シェンホイさんの小説の中のディテールだけでは足りないことが非常に多く。その部分をもっと詳しくインタビューする必要があったわけです。インタビューをすることで、様々なことが明らかになり、一次資料を手に入れることができました。例えば、ペニンシュルという場所に着いたばかりの2枚のスナップ写真。それから右派のある人が死ぬ前に家族にあてて書いた手紙(映画ではその一部が名前を変えて使用)も見つかりました。

━━━作品を作る過程やインタビューの中で、監督が心がけたことは何ですか?

重要だったのは、この物語をどういう方法で撮るかということでした。歴史に対する物語をどう語るのかを探っていったわけです。普通の歴史映画と違うものを目指していたので、それは突き詰めれば監督である自分がどう歴史に向き合うか、また自分が向き合った歴史を観客がどう捉えるか、そこを考えていました。普通の歴史物にあるようなある一人の人物を川の流れのように語るやり方ではなく、この映画では様々な人の記憶の断片、その瞬間、その場所を描くこと。いろいろな人の体験を集めて、その断片を重ね合わせて物語を構成するスタイルにしました。

多くの人にインタビューをする中で、既に50年前の話ですから鮮明に覚えているわけではないけれど、彼らが何について忘れないで覚えているか、何が彼らにとって強い記憶として残っているか、それがカギになると思いました。彼らにとって強力なものを取り出してきて、未だ解けない謎だと思っているようなことを掴む、それで映画のスタイルができあがってくるのではないかと。そこを重要視してインタビューを進めていきました。

━━━監督にとって、一番印象に残ったインタビューを教えてください。

ラストシーンとも関係あることですが、インタビューする中で最初から多くを語ってくれない人がいました。一ヶ月後再訪して一緒にご飯を食べたりしていると、突然シーンとなって彼の感情を制御できない雰囲気で僕に訴えてきたのです。それは「初めて死体を埋めたときの自分の感覚が君に分かるか。」と。当時死体を埋める役目を担っていたわけですが、ある人が亡くなると布団から取り出し、布団も衣服も剥いで裸体のまま運び、谷間に埋めるのです。二人組で裸体を運んで埋めるとき、鳥の声にはっとして自分たちが運んでいるのは人なんだと、これは決して羊や他の動物ではないのだと、その感覚は忘れられないのだと語ってくれました。


「中国では上映されないことで制限なく自由に撮れる。」と逆転の発想で、反右派闘争の歴史に向かい合ったというワン・ビン監督。「政治映画ではない」と言い切り、今だから光を当てることができる歴史に監督自身が向き合った作品を、我々がどう捉えるのか。110人ものインタビューから忘れざる瞬間を明らかにし、時を経て甦った「生きた証」の記憶を見逃すわけにはいくまい。 (江口 由美)

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