原題 | Quand vient l'automne |
---|---|
制作年・国 | 2024年 フランス |
上映時間 | 1時間43分 |
監督 | 監督・脚本:フランソワ・オゾン (『すべてうまくいきますように』『わたしがやりました』) 共同脚本:フィリップ・ピアッツォ 撮影:ジェローム・アルメーラ |
出演 | エレーヌ・ヴァンサン、ジョジアーヌ・バラスコ、リュディヴィーヌ・サニエ、ピエール・ロタン |
公開日、上映劇場 | 2025年5月30日(金)~新宿ピカデリー、TOHOシネマズ シャンテ、大阪ステーションシティシネマ、なんばパークスシネマ、MOVIX京都、kino cinéma神戸国際 ほか全国公開 |
〜人生の秋を迎えたら…秘密を抱えたまま生きる覚悟と冬支度〜
フランソワ・オゾン監督の新作は、フランス・ブルゴーニュのしっとりとした風景のなかで紡がれる大人の寓話。寓話は時にどこかひんやりとして体温のぬくもりを感じさせないことがある。『すべてうまくいきますように』(2023)で安楽死に真正面から取り組んだオゾン監督。今作でも70代、80代の女優を起用し、老いにスポットを当てる。そこにはオゾン監督が憂う「高齢者が社会やスクリーンからあまりにも早く姿を消して行く現状」に一石を投じる意味もある。
ミシェル(エレーヌ・ヴァンサン)とマリ=クロード(ジョジアーヌ・バラスコ)は旧くからの親友同士。連れ立ってきのこ狩りをしたり、お互いの家を行き来したりと固い絆で結ばれている。その絆がどこからくるものかは追々明かされてゆく。それぞれに娘と息子がいるが、二人とも子どもの行く末に漠然とした不安を感じている。そして、あるとき二人は大きな秘密を抱えることになる。ミシェルの娘ヴァレリーを『スイミングプール』(2003)のリュディヴィーヌ・サニエが、マリ=クロードの息子ヴァンサンをピエール・ロタンが演じ、新旧オゾン組が揃い踏みの豪華顔合わせとなった。
それにしてもこの画の美しさはどうだろう。色づいた木の葉、苔むした切り株、倒木。抑えたトーンの中にも細やかな色彩の綾が画面いっぱいに広がる。レンズが家のなかに転じると娘と孫を迎えるために台所に立つミシェルのエプロンやテーブルクロス、壁紙も華やいでいる。柄と柄を合わせてもうるさくならないのは流石。花柄でも甘すぎず抑えた色調、なのに華やかなのだ。その後の、孫と森を散策するところも絵になるシーンの連続だが、牧歌的な雰囲気はここまで。ある出来事によって母娘関係に亀裂が入り、物語はサスペンス色を帯びてゆく。これぞオゾン作品の醍醐味だ。
おかしな例えかもしれないがマフィアの世界に似ている気がした。そこに描かれるのは一蓮托生という世界観だが、女同士にも似た絆はあると思ったのだ。最後まで観たとき一般的な感覚では説明できないものが描かれている。それは、生き方の問題かもしれないし、修羅場をくぐってきた者特有の処世術かもしれないが、ものごとの善し悪しではなく”ファミリー”は一蓮托生なのだと考えると一番しっくりきた。ここで言うファミリーは血縁に限らない。ヴァレリーがミシェルを受け入れられない最大の理由はそこにあるのかもしれない。
ミシェルの選択は議論を呼ぶところだと思うが、結末には落ち着くところに落ち着いた、というような不思議な感覚がある。割り算をしようとして、とうてい割りきれそうにない数字が連なっているのに、余りが出なかったような鑑賞後感だった。そして、導入から始まる映像美の極致がそこにある。
また、本作は瞳の演技が印象的だ。怒りに燃える目、探るように見つめる眼、哀しみを湛えた瞳、車のルームミラーごしに見かわす目と目。目は口ほどにものを言うとの諺そのものだ。とく終盤のソフィー・ギルマンの緑色の瞳は秀逸だ。この役を女性にしたのはオゾン監督にとって必然だったようだ。たしかにこの役が男性であったなら物語の見え方は違っただろう。彼女の存在が物語に複雑味と奥行きを与えている。
老女二人の佇まいがすばらしく、人間として年輪を重ねた二人が森に分け入ってゆく姿は大自然と一体化している。二人の競演が一風変わった筋立てにも説得力を与えた。美しくも力強い物語世界にぜひ身を投じてみてほしい。
(山口 順子)
公式サイト:https://longride.jp/lineup/akikuru
配給:ロングライド、マーチ
© 2024 – FOZ – FRANCE 2 CINEMA – PLAYTIME