原題 | 原題:Zgodbe iz kostanjevih gozdov 英題:Stories from the Chestnut Woods |
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制作年・国 | 2019年 スロヴェニア・イタリア/イタリア語・スロヴェニア語 |
上映時間 | 1時間22分 |
監督 | 監督:グレゴル・ボジッチ 脚本:グレゴル・ボジッチ、マリーナ・グムジ 撮影:フェラン・パラデス 音楽:ヘクラ・マグヌスドッティル、ヤン・ヴィソツキー |
出演 | マッシモ・デ・フランコヴィッチ、イヴァナ・ロスチ、ジュジ・メルリ、トミ・ヤネジッチ |
公開日、上映劇場 | 2023年10月7日(土)~シアター・イメージフォーラム、10月27日(金)~シネ・リーブル梅田、アップリンク京都、近日公開~元町映画館 ほか全国順次公開 |
スロヴェニア発、
忘れ去られた土地が放つ最後の輝きを映しとった詩のようなお話
第二次世界大戦の頃のスロヴェニアとイタリアの国境地帯、今はもう誰もいない場所のお話。<しみったれの大工マリオ><最後の栗売りマルタ><帰らぬ息子ジェルマーノ>の三部構成。実はこの原稿を書くにあたって通しで3回観たのだが、ぜんぜん飽きない。初っ端から、とにかく風景の美しさに圧倒される。
だしぬけに墓穴のようなものが映し出され、ミレーの「落穂拾い」から抜け出てきたような人々がそこへいがぐりを埋めている。頭の中に?が浮かびこれだけでグッと引き寄せられる。場面が変わり今度は木の根元に佇む一人の老人(マリオ)。傍らを鮮やかな斑点模様のとかげが二匹スススッと横切り、栗の花粉が縦横無尽に飛来する。まるで森ぜんたいが一つの生き物のようだ。
村唯一の移動手段である乗合馬車にマリオが乗り込み目を閉じると賭場のような場所にカメラは移る。指で数字を出し合うだけの単純なゲームに初老の男たちが目の色を変えて興じている。イカサマに遭いむしゃくしゃした気持ちを抱えて帰ると、妻のドーラが息も絶え絶えに不調を訴えるのだった。改めて書きだすと眠った村で死を待つような物語だ。なのに滅びの美学とでも言うのか、どうにも心惹かれるものがある。そして物語はマルタとの出会いへとつづく。
絵画的な画面作りはフェルメール、レンブラントなどのオランダ印象派やイタリアの画家からインスピレーションを得たという。光や構図である。灯りがもれる家の外観が夕闇に浮かび上がるショットや陽光に照らされる壁紙の柄、家具職人のマリオが箪笥を眺める場面も印象的だ。この土地での民話や伝承が脚本の元となったチェーホフの戯曲とうまく融合したというが、グレゴル・ポジッチ監督が栽培学の研究者であると聞きなるほどと思った。
過去のフィールドワークのなかで果物農家から見聞きした寓話や昔話が作品の根幹となったそうだ。画面に映し出される活き活きした生態系は、写真家と研究者、両方の目で捉えたものだったのだ。(映画を学ぶ前に写真を専攻していたらしい)虚構と現実とで35ミリフィルムと16ミリフィルムを使い分けるなど心惹かれるのにはちゃんと理由があった。それは丹念な準備と豊かな経験に裏打ちされたものだったのだ。
回想や夢にファンタジーが入るのは各地で見聞きしたお話の集大成なのだろう、神話の味わいもあり独特の世界観だ。単純に面白いからするする観られる。現実とのあわい表現がみごとで、祝宴でにぎわう人々の動きが次第に緩慢になり表情を失ってゆくシーンが心に残った。フレンチポップスの名盤「アイドルを探せ」が流れると、すすけた馬車で愚痴をこぼし合う主婦たちが艶っぽく踊りだすシークエンスもいい。一見無関係なシーンが違和感なくつながる奇跡にうっとり。魅力的なカットは挙げればきりがないが、とくに移民(大挙して移住してゆくイメージ映像)の表現が洒落ていた。それから栗が川を流れるシーンの楽しさと言ったら、もう。これはぜひ大きなスクリーンで観て欲しい。
マリオの面構えがいかにも職人じみて威張っているようでいて、もの言わぬドーラの存在感も負けていないという夫婦の綱引き。作品はそんなこんなもすべて包み込んで、あるがままを差し出す潔さだ。大枠は起こったことを振り返る構造なので、初めから終わりまでマリオの感傷とも言えるが不思議と湿っぽく映らない。余分なものがない、引き算の魅力なのかもしれない。最後に手紙が出てくるが、人と人とのやり取りはすれ違ってばかりだ。それなのに画面からはずっと情緒があふれ出ていた。
(山口 順子)
公式サイト:http://chestnut.crepuscule-films.com/
提供:クレプスキュール フィルム、シネマ サクセション
配給:クレプスキュール フィルム
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