原題 | DAFNE |
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制作年・国 | 2019年 イタリア |
上映時間 | 1時間34分 |
原作 | 原案:フェデリコ・ボンディ、シモーナ・バルダンジ |
監督 | 監督・脚本:フェデリコ・ボンディ |
出演 | ダフネ:カロリーナ・ラスパンティ、 ルイジ:アントニオ・ピオヴァネッリ、 マリア:ステファニア・カッシーニ、 ヴィオラ:アンジェラ・マグニ、 ジャック:ガブリエレ・スピネッリ、 カミーラ:フランチェスカ・ラビ |
公開日、上映劇場 | 2021年7年3日(土)~岩波ホール、7月16日(金)~アップリンク京都、7月23日(金)~シネ・リーブル梅田、7月30日(金)~シネ・リーブル神戸、全国順次公開 |
~わたしはわたし。十人十色、色とりどりのわたしたち~
「なってみたい人物は?」「ルネサンス時代の宮廷夫人になるわ」「私は女性初のパイロットになりたい・・・」ダウン症の娘と母親の会話だ。一緒になって空想の世界に想像をふくらませる姿が新鮮で昔読んだ本の一節が浮かんだ。”子に望むより子が望む親になる”あれはこういうことだろうか。
ダフネ(カロリーナ・ラスパンティ)はピンクや赤の花柄の衣装に身を包み、海辺の街で休暇を楽しんでいる。彼女をとりまく世界はカラフルだ。明るい母マリア(ステファニア・カッシーニ)と生真面目な父ルイジ(アントニオ・ピオヴァネッリ)、気の合う仲間や友人に囲まれ幸福感に満ちている。それがマリアの突然の死によって一転モノトーンになる。キーパーソンを喪い家族の歯車は狂ってしまったようだ。ルイジはこの先一人でダフネを支えていくという現実に押しつぶされそうになる。そんなルイジにダフネはある提案をする。マリアが眠るイタリア中部の村コルニオーロまで歩いて行こうと言うのだ。険しい山越えの行程に気乗りしないルイジだったが、ダフネの勢いに押され不承不承ついてゆく。
監督はフェデリコ・ボンディ。介護者と被介護者の関係を描いた前作『Mar Nero』はロカルノ国際映画祭で高い評価を得た。偶然見かけたダウン症の親子の姿から着想を得たという今作ではベルリン国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞した。ドキュメンタリーかファンタジーのいずれかに偏りがちなモチーフを音響や映像の緩急でテンポよく観せ、リアリティとドラマ性を両立させることに成功した。例えば、車中で慟哭するダフネに声はなくエンジン音だけが響いている。これだけで十分に伝わる上に哀しみが増幅している。マリアの死の描き方も然り。設定や状況を示すものは極力説明を省く代わりに要所要所で人物のアップをじっくり映しだす。これが独特の余韻を生んでいる。
主演のカロリーナはこれが初めての演技だが、ボンディに”カロリーナはダフネそのもの”と言わしめる存在感を示した。彼女はこの映画に出演する前に2冊の本を出版しており、ボンディはSNSを通じて彼女を知ったという。作品にカロリーナを寄せるのではなくカロリーナに作品を寄せていったと監督自らが語る通り、随所に彼女の魅力が光る。特にダンスシーンは活き活きとしてまるで水を得た魚のよう。その表情の変化にも注目したい。幼さやうつろさの残る前半の表情に比べ、後半の彼女の目には力が宿っている。信じて任せることが人を成長させる。監督の信頼を得たカロリーナとルイジを思いやるダフネの心情とがみごとに溶け合った。また、彼女の言葉は力強い。「私はいま泣きたいの!」涙を止める薬だと服用をすすめられたときダフネが放った一言だ。そう、泣きたいときは泣けばいい。この率直さもカロリーナとダフネの共通点なのかもしれない。
ラストシーンでは先に述べたアップのカメラワークが最も効果的に働いている。ダフネがルイジにある贈り物をする。それ以前にダフネは何気なくそれを取り出して眺めているのだが、そのとき私たちはそれが何を意味するのかわからない。受け取るルイジのいぶかしげな表情はそのまま私たちの思いだ。その意図が明かされるとき、驚きとともにルイジの気持ちと私たちの思いがシンクロし、静かな波紋が胸いっぱいに広がる。
(山口 順子)
公式サイト:http://www.zaziefilms.com/dafne/
配給:ザジフィルムズ
後援:公益財団法人日本ダウン症協会
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