原題 | Lumiere! |
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制作年・国 | 2017年 フランス |
上映時間 | 1時間30分 |
監督 | 【監督】ティエリー・フレモー(カンヌ国際映画祭総代表) 【脚本】ティエリー・フレモー |
出演 | 【フランス語版ナレーション】ティエリー・フレモー 【日本語吹替版ナレーション】立川志らく |
公開日、上映劇場 | 2017年12月1日(金)~テアトル梅田、京都シネマ、OSシネマズミント神戸 他全国順次公開 |
~映画の原点シネマトグラフのめくるめき輝き~
今年は日本で映画の興行が始まって120年目の節目。明治30年(1897年)2月15日~22日、大阪・難波の南地演舞場で、フランス・リュミエール商会のシネマトグラフによる映像が有料で一般公開された。南地演舞場は、現在、髙島屋百貨店の真向かい、TOHOシネマズなんばが入る東宝南街ビルが建っているところにあった。1階エレベーター乗り場の壁に「映画興行発祥地」の碑文を彫った銅製プレートがはめ込まれている。まさにそこから日本の映画の歴史が刻まれた。
写真は動かないものと思っていた人たちが「動く写真」を目にし、さぞかしビックリ仰天したことだろう。そのシネマトグラフが今日の映画の原点である。「今日の映画」と断ったのは、スクリーン投影式であるということ。「動く写真」の原初的なものは、アメリカの発明王トーマス・エジソンが1891年に発明したキネトスコープだった。それはしかし、1人でしか観ることのできない「覗きからくり」で、「今日の映画」とはほど遠い。
そのキネトスコープを参考にし、スクリーンに映像を投影して大勢の人が一緒に楽しめるようにしたのがシネマトグラフ。発明者はルイとオーギュストのリュミエール兄弟だった。当時、兄弟はフランス中東部の都市リヨンで写真乾板や印画紙を製造する工場を経営していた。1895年2月にシネマトグラフの特許を取り、その年の12月28日、パリで一般公開した。これが世界で初の映画興行となった。
シネマトグラフの装置は大きさが縦横各約30センチ、幅約15センチの木箱に収まっており、重さが5キロとコンパクト。何よりも映写だけでなく撮影もできるという超優れものだった。リュミエール商会は撮影・映写技師をフランス国内のみならず海外にも派遣させ、各地の風俗や景色、珍しい映像をフィルムに焼きつけた。そういう技師がルイ・リュミエールをはじめ30~50人いたといわれている。
日本では、シネマトグラフを持ち帰った稲畑勝太郎(稲畑産業の創業者、大阪商工会議所の第10代会頭、1862~1949年)と共にやって来たコンスタン・ジレルとのちに来日するガブリエル・ヴェールの2人のカメラマンが当時の日本各地を活写した。東京国立近代美術館フィルムセンターに『明治の日本』というコレクションがあり、その中に彼らの映像が27本保存されている。
リュミエール商会は1895年~1905年の10年間に1422本の映像を製作した。そのうち4Dデジタル(高解像度)処理した108本を一挙公開したのが本作である。1895年3月19日、リュミエールの工場から勤務を終えて帰る従業員を撮った世界最初の映画『工場の出口』、観客の度肝を抜かせた『列車の到着』(南仏マルセーユ近郊のラ・シオタ駅)、ほほ笑ましい『赤ん坊の食事』(オーギュストの息子)、『スフィンクスとピラミッド』、『セーヌ川から望むエッフェル塔』、『ベトナムの村の少女』……。日本では、京都で撮影された『日本の剣術』が入っている。これは黒澤時代劇の代表作『七人の侍』(1954年)へのオマージュらしい。
わずか1分ばかりの短い映像とはいえ、どれも驚くほど鮮明で、カメラ・アングルと構図がしっかりしている。『工場の出口』はいくつかのバージョンがあり、「右の人、もう少し早足で!」といったカメラマンの声が聞こえてきそうな感じ。このように明らかに演出している作品が少なからずある。船、チンチン電車、エレベーターなどに装置を乗せて撮った移動撮影(パノラマ)、逆回しや人物が突然、消えるトリックを駆使した作品やドラマ性のある映像も見受けられる。
いわば、今日の映画で使われているテクニックがすでに導入されていたのは驚くべきことだ。その意味でシネマトグラフは、間違いなく映画の原点と言える。さらに約120年前に撮影された映像は人類の記録として極めて重要だと思う。当時のパリの雑踏、列車に乗り込む人たちの服装、ニューヨークの賑わい、アジア・アフリカの民族衣装……。これは本当に貴重な記録だ。
エジソンものちに同じような撮影機(キネトグラフ)を開発したが、映像の質的にはシネマトグラフに及ばなかった。映写機についてもヴァイタスコープが一時、シネマトグラフと張り合ったものの、装置が大きく、電動式だったのが欠点で、シネマトグラフを真似するようにすぐに手動式のコンパクトな映写機に変えている。
本作の監督・脚本・編集・製作を務めたリュミエール研究所(リュミエールの工場跡)の所長ティエリー・フレモーさんが京都ヒストリカ映画祭へのゲスト出演と本作のキャンペーンのために来日し、日本で初めてシネマトグラフが試写上映された京都の旧立誠小学校(中京区木屋町蛸薬師角)で記者会見に臨んだ。その会見にお邪魔させてもらった。
10数年前、ぼくがケルト文化の取材でリヨンを訪れたとき、同研究所に併設されたリュミエール博物館を見学したことがあるので、妙にこの人に親近感を抱いた。そのことを伝えると、ニコッと笑みを浮かべてくれた。以下、フレモーさんの発言要旨。
「リュミエール(主に弟のルイ)が優れた映画作家だったことを証明したかったのです。演出面、美的な観点、そして映画作家として代表的な作品を選び、1時間半の〈冒険〉でそれらの全てを語りたい、それが製作意図です。私はリュミエール兄弟の3番目の弟になった気分です」
「おそらくベニスのゴンドラの映像が最初の移動撮影と思われます。それが評判を得ると、他のカメラマンに移動撮影を指示していました。他のテクニックもそんな風に広まっていきました。リュミエールの功績がフランスではジョルジュ・メリエス、ゴーモン、パティといった映画製作会社に引き継がれました」
「シネマトグラフが発明されたのは、リュミエール兄弟の力だけではありません。エジソン、マレエら多くの発明者がいてたからこそです。1人でしか観られないキネトスコープを作ったエジソンは映画の最初の発明者になれませんでしたが、21世紀の今日、エジソンが正しかったかもしれません。なぜなら、アイフォン(スマホ)の画像をみな1人で観ていますからね(笑)」
「あと300本の映像を修復し、できればダウンロードできるようにしたいですね。第2弾は『ここ、京都で』から始まります!」
会見終了後、日本でのシネマトグラフの初興行地である南地演舞場、現在の東宝南街ビル、碑文の写真(コピー)をフレモーさんに手渡すと、「トレビアン!」と大喜び。ぼくとのツーショットにも気軽に応じてくれた。
武部 好伸(エッセイスト)
公式サイト⇒ http://gaga.ne.jp/lumiere!/
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