原題 | Fuocoammare |
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制作年・国 | 2016年 イタリア・フランス |
上映時間 | 1時間54分 |
監督 | ジャンフランコ・ロージ(『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』) |
公開日、上映劇場 | 2017年2月11日(土)~Bunkamuraル・シネマ、2月25日(土)~シネ・リーブル梅田、3月25日(土)~シネ・リーブル神戸、近日~京都シネマ ほか全国順次公開 |
~交わらない2つの世界が現実を突きつける~
国際列車が到着すると、見るからに疲れ切った人たちが続々とプラットホームに下り、警察官に誘導されて駅の向こう側へと消えていった。言い方は悪いが、戦争で捕虜になった兵士のように、みな重たい足を引きずるようにして歩いていた。一昨年、ライフワークの「ケルト」の取材で訪れたドイツ南部の大都会ミュンヘンの中央駅で目にした光景。翌日の新聞であの人たちはシリア難民だとわかった。おそらくしかるべき収容所に向かっていたのだろう。あのあと怒涛のごとく難民がドイツに押し寄せることになる。
市民も観光客も、そしてぼくもしばし立ち止まって遠巻きで眺めていた。「内戦さえなければ、ドイツくんだりまで来ることはなかっただろうに……」。ぼくはそんなことを考えていたが、他の人たちはどんな思いだったのか。日常の社会に全く異質な空気が入り込んだ感じで、息を押し殺して彼らに目線を送り、一種、重苦しい静寂が漂った。しかし一行の姿が駅構内から見えなくなると、みな何もなかったかのように動き出し、賑わいが舞い戻った。2つの世界が別個に存在している。本作『海は燃えている』を観ている間、あのときのミュンヘン中央駅の情景が何度も浮かび上がってきた。
映画の舞台はドイツならぬ、南欧のイタリア。それも地中海に浮かぶ最南端のランペドゥーサ島という人口約5500人の小さな島。地図を見ればわかるが、シチリア島よりもアフリカ大陸に近い。それゆえリビアに集結した難民・移民が船に乗って、一旦この島を目指し、そこからEU(欧州連合)諸国へと向かう。行き先の大半が富める国ドイツだ。いわば、ランペドゥーサ島はそうした人たちの「玄関口」であり、年間5万人が押し寄せてくる。しかし船内は劣悪な環境とあって病死したり、難破や沈没したりして、犠牲者は数知れず。新天地を求めての命がけの逃避行。そのことはニュースでしばしば報道されている。
地中海の島々はどこも同じ状況だという。4年前、ランペドゥーサ島の北東に位置するリノーサ島を舞台に島民とアフリカ難民のふれ合いを描いたイタリア映画『海と大陸』が公開された。その映画を観て、イタリアではもはや無視できない社会問題になっていることを認識させられた。本作は厳しい状況にあるランペドゥーサ島の素顔をドキュメンタリー映画で捉えた作品。普段、ぼくは予備知識なしに映画を観ているが、今回、チラシの難民船の写真に目が留まり、「これは覚悟がいるぞ」と腹を括った。
ところが冒頭から裏切られた。1人の少年が木の枝を切ってパチンコを作っているシーンが映される。あれっ、難民・移民と全然、関係あらへん。別にどうってことのない穏やかな少年の日常が描かれる。このあとはしかし、一転、サーチライトが照らされた夜の海のシーンに変わる。「250人いる。助けてくれ」、「現在地は?」、「ダメだ」、「現在地をどうぞ」、「あゝ、神様……」。切羽詰まった無線の声。それがいきなり途絶える。少年の暮らしぶりとはあまりにもかけ離れている。何という温度差! 戸惑ってしまった。
ナイジェリア、エリトリア、スーダン、ガンビア、コートジボアール……。収容所にはアフリカ各地から船に揺られてやって来た難民・移民が暮らしている。ここにたどり着けた人は幸運だ。みなサッカーに興じたり、雑談したりしていて意外とゆとりがある。それでも明日、強制送還されるかもしれないという先の見えない不安が彼らの虚ろ気な眼差しに宿っていた。ましてや家族を亡くした人たちの哀しみはいかばかりか……。
映画は、冒頭に映った12歳の少年の「日常」と難民・移民が押し寄せる別の「日常」を交互に映し出していく。同じ島なのに、全く対照的な世界が存在している。小さな島なので、映画のどこかで少年が難民・移民の人たちと出会ったりして、何らかのドラマが生まれるに違いない、とぼくは踏んでいた。しかし最後まで両者は交わることがなかった。島民は直接、彼らを目にすることもなく、地元ラジオを通じて、難民船の沈没のニュースをチラッと耳にするだけ。もちろん気の毒に思っているが、かといって何もしないし、何もできない。当たり前のように「日常」が過ぎていくだけ。
ここでふと思う。難民・移民の人たちも、内戦、紛争、独裁政治、政情不安などがなければ、島民と同じように穏やかに暮らしていたのだと。同様に第二次世界大戦中、ユダヤ人やロマでなければ、アウシュビッツ強制収容所に連行されることはなかったし、大航海時代、アフリカの黒人でなければ、奴隷として売られることもなかった。「~でなければ」という負の付帯条件があまりにも多いのが嘆かわしい。でも、それが現実なのだ。だからミュンヘンの中央駅で目にした情景を思い浮かべるのである。
唯一、難民・移民と接点を持つ人物がいた。島の診療所の医師である。負傷者の手当てや妊婦の検診のほか、犠牲者の死亡診断書まで担当している。おびただしい数の遺体を見てきた医師は仕事上の責務としてだけではなく、人間としてやらねばならない義務として彼らに向き合っていた。この人は無関心な島民を責めたり、不平をぶちまけたりはしない。粛々と仕事をこなしていくだけ。その姿がとてもまばゆく見えた。よくよく考えると、世界で難民・移民と繋がっている人たちはごくわずかだ。そう思えば、島民の中でこの医師だけが関わっているのも十分、理解できる。
本作はドキュメンタリー映画なのに、実写ドラマのように演出されているようにも感じられる。それはジャンフランコ・ロージ監督がランペドゥーサ島に移り住み、島民にしっかり寄り添って撮影していたからである。一見さんの「よそ者」でない。少年にしろ、彼の家族にしろ、医師にしろ、距離感が驚くほど近い。そのことがこの映画最大の持ち味であり、さらにはドキュメンタリー映画の理想的なかたちだと思う。さすがに難民・移民の人たちにはそこまで近づいていないけれど、それでもかなり迫っている。
映画の中で偶発的ながらも、ドラマ性を見せたシークエンスがある。左目が弱視と診断された少年が右目に眼帯をつけ、左目の視力を高めようと努力する。そのうちだんだん見えるようになり、右目の眼帯を外すと、以前よりも世界を広く見ることができるようになっていた。ロージ監督が言いたかったのはそこだ。視野を広めることによって、これまで見えなかったものが見えてくる。難民・移民問題だけでなく、社会に禍根を残しているさまざまな出来事も視界に入ってくる。ここでは「ヤラセ」でなく、実際、少年の身に起ったことが観る者への意識付けになったのだから、この映画は神っている!
あれだけ結束の固かったEUが、英国のEU離脱宣言に象徴されるように、増え続ける難民・移民によって土台が崩れかかってきている。彼らの存在が今やヨーロッパの命運を握っていると言っても過言ではない。アメリカでもトランプ新大統領の難民・移民の流入禁止措置が大きな物議をかもし出している。
日本にいると、それらはニュースでしか知り得ず、ほとんど実感が持てない。自分たちとは関係のない他人事だと思っている私たち日本人は、映画の少年のように、弱っている片目を強くさせる必要がある。もはや世界は両眼をしっかり見開いて見据えなければならないほど、大きな変革期に差しかかっている。
武部 好伸(エッセイスト)
公式サイト⇒ http://www.bitters.co.jp/umi/
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