制作年・国 | 2016年 日本 |
---|---|
上映時間 | 1時間59分 |
監督 | 満田康弘(KSB瀬戸内海放送) |
公開日、上映劇場 | 2016年11月19日(土)~第七藝術劇場、12月3日(土)~12月9日(金)神戸アートビレッジセンター ほか全国順次公開 |
★“泰麺鉄道の捕虜虐待”贖罪の一生
『アラビアのロレンス』(‘62年)などで知られるデヴィッド・リーン監督は「歴史を画面に焼き付けた巨匠」として映画ファンに知られる。『アラビアのロレンス』やロシア革命を一人の医師の目からとらえた『ドクトル・ジバゴ』(‘65年)などは“映画史上の傑作”として名を残している。『アラビアのロレンス』以前、リーン監督が歴史に材を取った最初の映画が『戦場にかける橋』(‘57年)だった。原題は「ザ・ブリッジ・オン・ザ・リヴァー・クワイ」(クワイ河にかかる橋)。1942年、破竹の勢いの日本軍はタイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設に着手した。インパール作戦のため、インド方面への陸上補給路を確保するのが目的で、工事には英、豪、オランダなど連合国捕虜6万人余と25万人以上の現地のアジア人労務者が動員された。
日本軍の悪行は世界中で知られるが“泰麺鉄道の捕虜虐待”も歴史に残る。険しい山岳地帯に加えて、コレラなど伝染病多発地帯として知られるタイ・ビルマ国境。「10年はかかる」と言われながら、1年3か月で415キロもの距離を完成させたのだから、どれほど過酷な工事だったか、想像できる。
最大の難関が国境を流れるクワイ河上にかける鉄橋工事。建設期間中に約1万6千人の連合軍捕虜が飢餓と病気、虐待のため死亡した、という。アジア人労働者の死亡数は裁判がなかったため明確ではないが、4~7万人と推定されている。戦後「捕虜虐待責任などの戦争法規違反」で収用所関係者が起訴され、英軍、オーストラリア軍のBC級戦犯として裁かれた。
泰麺鉄道の難工事を描いた映画『戦場にかける橋』で一番記憶に残っているのが、働かせようとする収用所長(早川雪洲)と捕虜の英軍大佐(アレック・ギネス)の対決だった。「捕虜の使役はジュネーブ協定違反」と拒否する大佐は、独房に閉じ込められても誇りを失わず、毅然とした態度を崩さない。その凛とした姿勢が“英国軍人魂”を感じさせた。一方、この収用所を脱走した米軍少佐(ウィリアム・ホールデン)は、ようやく完成したクワイ河鉄橋の爆破を計画。スリリングなクライマックスへと盛り上げていく。歴史的な事件を壮大なスケールでスペクタクル大作に仕上げて見せるリーン監督のこれが原点だった。
“死の鉄道”とまで呼ばれた「泰麺鉄道」は映画とBC級戦犯裁判だけでは終わらなかった。60年近く経った経た2013年には英国人捕虜エリック・ロマックスの自伝を原作とした『レイルウェイ 運命の旅路』が映画化された。虐待された英国軍人を主役にした『戦場にかける橋』の裏側。この映画では、真田広之が日本人通訳・永瀬隆を演じた。
★永瀬さん夫妻、贖罪の旅135回
戦後71年目の今年、当事者が登場する「クワイ河にかかる虹」は、陸軍通訳・永瀬隆さんの“贖罪”の歩みを追ったドキュメンタリーである。永瀬さんは、戦後まもなく、連合軍が派遣した「墓地捜索隊」に同行し、自らが関わった悲劇の全容を知る。以来「鉄道建設の犠牲者」の慰霊のために生きる決意を固める。そこに戦後の日本人が成し遂げた“贖罪の真摯なありよう”が見えてくる。
一般人の海外渡航が自由化された1964年以来、妻の佳子さんと二人で始めた慰霊のタイ訪問は135回に及んだ。費用は全額自己負担、国から受けた費用は一切ない。1976年には現地クワイ河鉄橋上で元捕虜と旧日本軍関係者との“歴史的和解”の場を設けた。その名は旧連合国にも知られるようになった。
戦後生まれの団塊世代に、日本人や日本軍の“戦争責任”を語る資格はないかもしれないが、『クワイ河に虹をかけた男~』の永瀬さんを見ると、日本の謝罪は不足していると感じざるを得ない。日本が戦争に敗れたのは小学校でも学び、様々な資料や映像で知っている。だが「敗れたのをいいことに“敗戦”に甘えてきた」のではないか。この映画はそんな痛烈な問いを投げかける。
広島、長崎への原爆投下、東京、大阪などへの大空襲…。激しい攻撃を受け、日本も一般国民が甚大な被害を被ったのは事実だ。だが戦後、日本映画も反戦や戦争犯罪を描いてきたが、木下恵介監督の国民的名作『二十四の瞳』に見られたように、「日本人も被害者として苦労した」という“回顧的側面”があったのも否めない。ズバリ、贖罪は足りなかった。
永瀬さんのように、一生をかけて償った人がどれほどいたのか? 中でも特筆すべきは「活動の柱がタイへの恩返し」だったことだ。終戦後、タイ政府は連合軍に内密に、飯ごう一杯の米と中蓋一杯の砂糖を、復員する日本軍将兵全員に支給したという。普通なら出来にくいそんな恩義に報いるため、永瀬さんは1965年からタイの留学生を自宅に受け入れ、1986年には「クワイ河平和基金」を設立、学生に奨学金を贈り続けた。こうして元留学生や奨学生と築いた絆は現在も生きている。そこには戦後処理を放置してきた日本政府への怒りも滲む。
「日本の戦争責任」などと言うと、一部勢力から「自虐史観」として攻撃する空気も根強い。安保法制や自衛隊の海外派遣に躍起になる時の為政者には到底理解出来ない生き様だろう。永瀬さんの行動を、地方の民間テレビ、瀬戸内海放送(KSB)が1994年から20年余も追い続けたドキュメンタリー。全国ではテレビ朝日系「テレメンタリー」で放送されたものを再編集して118分の劇場版にした労作。
永瀬さんは2009年に135回目の“巡礼の旅”を終え、2011年6月、93歳で亡くなった。当事者として、戦中派として複雑な心情を抱えながら続けた長い旅路の記録から、日本人は今一度学ぶ必要があると思う。「いつかたどった道を再び歩かないために」。
(安永 五郎)