原題 | La loi du marche |
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制作年・国 | 2015年 フランス |
上映時間 | 1時間32分 |
監督 | 監督・脚本:ステファヌ・ブリゼ 共同脚本:オリヴィエ・ゴルス |
出演 | ヴァンサン・ランドン、イヴ・オリィ、カリース・ドゥ・ミルベック、マチュー・シャレール、グザヴィエ・マチュー |
公開日、上映劇場 | 2016年8月27日(土)~ヒューマントラストシネマ渋谷、9月10日(土)~シネ・リーブル梅田、10月~シネ・リーブル神戸、近日~京都シネマ ほか全国順次公開 |
希望の見えない明日をそれでも生きていくために、
折り合いをつけなくてはならないとしても。
ある日の電車。若い女性が、同世代とおぼしき男性に会社のグチをこぼしている。盗み聞きするつもりはないが、隣に座ってしまったので仕方がない。女性は同僚の男性Aさん(上司のようだ)が、エクセルもろくに使えない、彼の「スキルの低さ」が信じられないという。テンションの上がり気味な女性に同調はせず、かといって諌めるふうでもなく相槌をうち意見をはさむ男性はおおむね女性の考え方に同意していた。世の中、まったく使えないやつが多すぎる。それで正社員なんだからなぁと。よくあるグチ話なのだけれど、2人が下車する時、視界の端にとらえた男性の髪型に目がいく。右側だけ刈り上げられているアシメトリーで、敢えて言うならパンク風だった。話ぶりとのミスマッチ感に少し驚いたことはさておき、スキルの低い私には耳が痛いどころか、思わぬ場面で逆パワハラを疑似体験した気分。
スキルとは本来「教養や訓練を通して獲得した能力」のことだが、技能の優劣が物を言うネット社会は未開のジャングルそのものに映る。強い者しか生き残れない。で、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の「人を押しのけてまで…」というくだりが頭をよぎる…。
映画「ティエリー・トグルドーの憂鬱」の主人公ティエリーは51歳。リストラされて1年半が経ったいまも再就職できずにいる中年男。新たな職種クレーン操縦士に挑むため資格を取得したものの採用には至らず、無駄に時間と労力を費やす結果に終わったことをハローワークの男性職員に訴えるが、不満を口にしても現実の厳しさに変わりはない。さらに、不当解雇を裁判で争おうと動き出す元同僚たちと距離をおく。生活は追いつめられる一方で、もう一刻の猶予もないからだ。妻と障がいのある高校生の息子のために、なんとしても、どんな仕事でも見つけなくてはならない。彼の切実な望みは、ただ人並みの暮らしを守りたいだけなのに、それさえ分不相応な贅沢なのか。
スカイプでの面接に応じ、ハローワークのレクチャーに参加する若い求職者からは、あれこれダメだしされる。経験も人格も否定されてしまったようでいたたまれない。そんな中年男のやりきれない胸のうちを、諦念を浮かべた顔、部屋の窓から世間を見つめる後ろ姿ににじませるヴァンサン・ランドン。この父の視線は伏し目がちだ。息子を風呂に入れ服を着替えさせる、妻の気晴らしに付き合うダンス教室でも。仕事が見つからない現実に打ちのめされ、ささやかな家族の暮らしを見守る気力さえ底をついてしまうのか。
見得も外聞も無くして、ようやく大型スーパーの警備員として働く職を得た彼は、いつ万引きをはたらく犯罪者になるかもしれない客を監視し、同僚のレジ係にも注意しなくてはならない。そんな仕事によって、家族の暮らしが死守できるのだという現実のなかで、やり切れない思いが再び、頭をもたげ始める。人間としての誇りを捨ててまで、しなくてはならない仕事があるとすれば、それはなにか?そして、家族を守っていると誇りを持って言える生き方をするためには? 主人公の再就職が決まったとき、正直ほっと胸をなでおろした。まんじりともしないでドラマの行方を見つめていたからだ。だが、そこからが映画の核心だったとは……。不条理な社会のシステムに組み込まれもがくうちに、知らぬ間に下流へと追いやられてしまうのだと思うほど、不安はいや増すばかり。
映画はティエリーが「ある決断」をして終わるが、その決断は安易な同調も否定も寄せつけない。シネスコ・サイズ、主人公の心情を見据える長回し、あるいは実際に役柄と同じ職場で服務する素人を配してドキュメンタリー調に仕立てたステファヌ・ブリゼ監督の意図も、その点にあるのだろう。
(映画ライター:柳 博子)
公式サイト⇒ http://measure-of-man.jp/
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