制作年・国 | 2016年 日本 |
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上映時間 | 2時間 PG12 |
監督 | 監督・脚本:赤堀雅秋(『その夜の侍』) |
出演 | 三浦友和、南果歩、新井浩文、若葉竜也、田中麗奈 |
公開日、上映劇場 | 2016年6月18日(土)~新宿バルト9、梅田ブルク7、T・ジョイ京都 他にてロードショー! |
★“普通”だった…無差別殺傷犯の父親
父親・三浦友和の存在感に圧倒される“反家庭劇”。その圧倒的な存在感が発する“抑圧オーラ”が惨劇の元凶だった。先ごろ、松竹映画『クリーピー 偽りの隣人』(6月18日公開)でドラマの背景である「家庭崩壊」と「地域社会の喪失」に触れたら、まるで「続編」のように「崩壊家庭の行き着く映画」が現れた(無関係だが)。ぶっ壊れ家庭は悲劇を生む…。
もの凄い壊れっぷりだ。葛城家の“期待の星”だった長男・保(新井浩文)はリストラされたことを誰にも言えず自殺、美しい妻・伸子(南果歩)は精神のバランスを崩し、「ダメ男」と父親に罵られ続けた次男・稔(若葉竜也)は駅構内で無差別殺傷事件を引き起こす…。絵に描いたような家庭の不幸が、一見普通の両親、普通の家庭から生み出されたことが衝撃だった。
平和に見える住宅街、主の父親・葛城清は「バラが咲いた」を口ずさみながら壁にペンキを塗る。壁には「人殺し」や「出て行け」の落書き。“平和な光景”は“惨劇余波の後始末”だった。清は親が始めた金物屋を継いで細々と営み、念願のマイホームも完成、妻との間には2人の子供もいて、思い描いた“理想の家庭”だった。どこで何が狂ったのか?
小さい頃から従順な優等生の長男・保は無口で本音を明かさず。堪え性がなくアルバイトも長続きしない次男・稔は「いつか一発逆転」を夢見ている。浮かび上がるのは圧倒的な父親・清の存在。覇気なくショボい金物屋のオヤジが、家庭ではいるだけで“抑圧の塊”として君臨する。もちろん、家族の親和感も温かさもなく、マトモな話も出来ない妻・伸子は思考停止に陥って、ある日突然、不満を爆発させ稔を連れて家出する。だが、清は伸子たちのアパートを見つけ、部屋に乗り込んで家族は修羅場を迎える…。
“理想の家族”を夢見た清は「よくいる」父親像だろう。高度経済成長期、企業は安定し、みんな家を建て良い家庭を作るのが人生の目標だった。金物屋を親から引き継いだのも当然の道。清の間違いは、理想を追いすぎて時代の変化を読めなかったことではないか。
★“理想の家族”の執着はホラーの題材
理想への期待、執着は、家族にはプレッシャー。それが清には分からない。高度経長はとっくに終わり、長く深い不況、就職難、リストラ、終身雇用の崩壊など、将来展望のない子供たちには生きにくい時代。家の中だけで君臨する父親は“ただのモンスター”に過ぎなかった。清は、アルバイトをやめた稔にいつものように小言を言う。稔は「店を継いでもいい」と返すが「いや、それはダメだ」と清。次男の状態を思いやる情愛のかけらも見えない。
死刑を宣告された稔の前に「死刑廃止の立場」から星野順子(田中麗奈)が現れ、稔と獄中結婚する。だが、稔が心を開くことはなかった…。
“理想の家族”への強い思いは古くから悲劇を招く原因だった。封建思考やしきたりが残る戦前までは、格式高い家では家族からはみ出る(出す)ことが許されず、悲劇的な映画になった。何度も映画化されている『絶唱』や『野菊の如き君なりき』(後に『野菊の墓』など。「家」の概念が衰退した今では考えられないことだが。
アメリカ映画では“理想の家族”を追う父親はホラーの題材だ。名作『W/ダブル』('87年、ジョセフ・ルーベン監督)。それをリメイクした『ステップファーザー 殺人鬼の棲む家』('09年)は理想への執着が一家皆殺しにつながるから恐ろしい。家族に迎え入れた一見優しそうな継父が、実は恐ろしい凶悪殺人犯だったというサスペンス・スリラー。継父が執念を燃やして作り上げようとしたのは“完璧な家族”。「今回は失敗した」と家族を皆殺しにし「次の家族を探しに行く」と出ていくラストはまさに恐怖だった。
『葛城事件』のもとになったのは13年前の劇団THE SHANPOO HAT」の舞台。現実の事件をモチーフにしており「映画化に当たって、もっと様々な事件を調べ複合化した」と赤堀監督。東京・秋葉原や大阪・池田の小学校など近年、頻発する無差別殺傷事件、その原因に踏み込んだ画期的な社会派映画だ。
1970年~80年代までは映画は社会の出来事(事件)に敏感に反応した。だが近年、題材は劇画やコミックが多く、現実解離が目立つ。先に挙げた秋葉原の無差別殺傷事件は廣木隆一監督が『RIVER』('11年)で映画にしているが、社会問題(事件もの)の映画化は近年では日航ジャンボ機墜落を新聞社から描いた『クライマーズ・ハイ』('08年)と航空機会社から描いた『沈まぬ太陽』('09年)、それにオウム真理教関連の何作かが際立つぐらいか。
戦後、映画は独立プロを中心に現実の社会問題を描いてきたはずだった。社会で起きている問題に対して「時には怒り」「時には涙した」それが映画だった。「映像の主役」はテレビに譲りはしたが、社会に正面から向き合えないことも“映画衰退”の証明ではないか。
(安永 五郎)
公式サイト⇒ http://katsuragi-jiken.com
(C)2016「葛城事件」製作委員会