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『杉原千畝 SUGIHARA CHIUNE』

 
       

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作品データ
制作年・国 2015年 日本 
上映時間 2時間19分
監督 監督:チェリン・グラック  脚本:鎌田哲郎/松尾浩道  音楽:佐藤直紀
出演 唐沢寿明、小雪、ボリス・シッツ、アグニェシュカ・グロホフスカ、ミハウ・ジュラフスキ、ツェザリ・ウカシェヴィチ、塚本高史、濱田 岳、二階堂智、板尾創路、滝藤賢一、石橋 凌、小日向文世
公開日、上映劇場 2015年12月5日(土)~全国東宝系にてロードショー

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~ヒューマニズムの賜物、「命のビザ」~

 

sugihara-takebe-500-2.jpg杉原千畝――。「日本のシンドラー」と呼ばれている御仁。ひと昔前はほとんど知られていなかったのに、今や学校の教科書に載っているくらいだから、かなり知名度が高い。第2次世界大戦中、バルト海に面したリトアニアの日本領事代理として、ナチス・ドイツの脅威からこの国に逃れてきたユダヤ人に対して、「人道的に無視できない」、「私を頼ってくる人を見捨てるわけにはいかない」と本国外務省の指示に背き、独断で日本の通過ビザを発給し続けた。その数、約6000人分。スティーヴン・スピルバーグ監督作品『シンドラーのリスト』(1993年)の主人公オスカー・シンドラー(ドイツ人実業家)によって命を救われたユダヤ人が約1200人だったので、いかに杉原の功績が大きかったかがわかる。


sugihara-takebe-240-2.jpgこの人の伝記や評伝を調べると、言語中枢が非常に発達していたようだ。なにせロシア語、英語、中国語、ドイツ語、フランス語の5か国語を自在に操っていたというのだから。表向きは外交官だが、その秀でた語学力と新聞記者顔負けの取材力を活かし、諜報活動で本領を発揮していたようだ。とりわけロシア語が完璧とあって、ソ連をターゲットにし、幾多の機密情報を入手していた。当時、満州(中国東北部)に進出していた日本にとって、ソ連は仮想敵国。当然、彼はソ連当局から「好ましからざる人物」と睨まれていた。


映画では冒頭から、杉原(唐沢寿明)が白系ロシア人女性(アグニェシュカ・グロホフスカ)を協力者にして、機密事項を探る諜報員としての姿を濃厚にあぶり出していた。このプロローグ的なシークエンスのあと、一本調子な性格が災いし、希望していたモスクワ大使館への赴任の道が断たれ、大戦勃発の3日前(1939年8月28日)、ソ連の実効支配下にあったリトアニアの領事館へ着任した。


sugihara-500-1.jpgこの国はしかし、小国とはいえ、戦雲急を告げるヨーロッパにおいて最大のカギを握るドイツとソ連という二大強国にはさまれており、両国の動きを察知するにはうってつけの地だった。日本人が誰1人いないのに、新たに領事館を設けたのはそんな事情があったから。映画では、運転手として雇ったポーランド人男性(ボリス・シッツ)を助手に日々、杉原が諜報活動に専念していた。


映画を観ていて残念に思ったのは、杉原が英語ばかり話していたこと。ロシア人もドイツ人もポーランド人もそうだった。これは白けた。ロシア語が堪能なのに、どうしてロシア人相手に英語で喋る必要があるのか。描かれる世界は虚構だが、そこに映し出されるモノは本物でないと。それが映画の根幹だとぼくは思っている。きちんと事実を踏まえ、〈現地語主義〉にのっとって描いてほしかった。スピルバーグ監督も『シンドラーのリスト』ではすべて英語で通し、あろうことかSS隊員(ナチス親衛隊)に「ファックユー!」と吐かせていた。70年前、そんな汚い英語はありまへん。ハリウッドの英語至上主義には呆れ返る。


sugihara-500-4.jpg閑話休題――。開戦1か月余でポーランドの西部がドイツに、東部がソ連に占領(分割)された。その前後からポーランドに暮らしていた、総人口の1割に相当する約300万人のユダヤ人がナチスの迫害を恐れ、各国に分散した。そうした国々で第三国の通過ビザを受給すれば、そこからアメリカやオーストラリアなどへの移住が可能になる。リトアニアにやって来たユダヤ人は、シベリア鉄道を使ってはるか極東の日本へ向かい、そして主にアメリカを目指そうとした。そんな彼らと対峙したのが杉原だった。近々、日本と軍事同盟(日独伊三国同盟)を結ぶことになるドイツとの関係悪化を避けるべく、日本政府はユダヤ人の保護には消極的であったという状況を踏まえておかねばならないだろう。


sugihara-takebe-500-3.jpg領事館は当時、リトアニアの首都カウナスにあった(現在、首都はヴィリニュス)。6年前、リトアニア、ラトヴィア、エストニアのバルト三国を気ままに旅し、その途中、杉原千畝が執務していた旧日本領事館を見学するためにカウナスを訪れた。それは街の東部、カウナス駅からほど近い閑静な住宅地にあった。この辺り、ロシア系住民が多い。戦時中、独ソ間で激しい市街戦が繰り広げられたのに、杉原記念館になっているその建物はあのころとほとんど変わっていない。運よく戦災を免れたのだろうか。門柱に掲げられた「希望の門、命のヴィザ」という日本語の文字を目にしたとき、思わず身体が固まった。


sugihara-takebe-240-1.jpg室内はすべて再現されていた。1階の南端にある執務室は比較的、こぢんまりしている。デスクの上にはタイプライターと電話の受話器、そしてラベルに「4001」と赤く印字された1本の洋酒ボトルが置かれていた。茶色っぽい液体だが、ウイスキーではない。見たことのない代物だ。おそらくリキュールだと思うのだが……。おそらく愛飲酒だったのだろう。展示ケースの中には、ビザをはじめ外交文書や書簡などが陳列されてあった。ビザの発給時に記した署名はかっちりした字体で、生真面目な人だというのがよくわかる。


sugihara-takebe-240-3.jpgドイツとソ連との密約(モロトフ=リッペントロップ秘密協定)により、1940年6月、リトアニアは完全にソ連に制圧された。ソ連政府から日本領事館員の退去命令が出されていた7月18日~8月31日の46日間、杉原は領事代理であるにもかかわらず、日夜、領事館に詰めかけるユダヤ人にビザを発給し続けていた。それがこの執務室だったのかと思うと、胸が熱くなった。カウナスを去る直前まで、束の間滞在したホテルの一室や駅のプラットホームでビザを出していたという。その姿が映画でしっかり映し出されていた。


杉原がリトアニアに滞在したのはわずか1年余(1939年8月28日~1940年9月4日)。世界大戦が起き、ヨーロッパが戦火に巻き込まれた、まさに激動の時期だった。在任期間の大半が、いわば諜報員として働き、最後の最後に本来の外交官に戻り、幾ばくかの尊い命を救った。それがこの人の実像だった。旧日本領事館を訪れ、ヒューマニズムの計り知れない強さをぼくは改めて実感し、勇気とは何かを考えさせられた。


sugihara-500-5.jpg余談だが……。バルト三国は開戦直後、ソ連軍に占領され、1941年に独ソ戦が始まるや、今度はナチス・ドイツの支配下に置かれた。戦後はソ連に組み入れられ、長らく社会主義体制を強いられたが、ソ連崩壊をきっかけに1991年に念願の独立を果たした。ヒトラーとスターリン。2人の強烈な独裁者によって夥しい数の犠牲者が生まれ、その慰霊碑やモニュメントがそこいらに建っている。旅の最中、大国に翻弄される小国の悲哀をまざまざと感じさせられたけれど、そういった「負の歴史」を乗り越え、バルト三国は着々と国づくりに励んでいる。

武部 好伸(エッセイスト)

公式サイト :www.sugihara-chiune.jp

(C)2015「杉原千畝 スギハラチウネ」製作委員会

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