制作年・国 | 2015年 日本 |
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上映時間 | 1時間45分 |
監督 | 監督・脚本:佐々部 清 共同脚本:橋本剛実 |
出演 | 桐山 漣、升 毅、宮崎美子、杉野希妃、安田聖愛 |
公開日、上映劇場 | 2015年8月29日(土)~シネ・ヌーヴォ、9月12日(土)~元町映画館 ほか全国順次公開 |
~癒され許される、ふるさとの大きな懐~
10年ぶりに帰ってきた故郷は、とめどなく優しく、すべてを受け入れてくれる、かけがえのない“心の住み処”だった…。佐々部清監督が鹿児島県を舞台にした映画『六月燈の三姉妹』に続いて撮った心温まるご当地映画。ふるさとの景色、両親や友人たちがどれほど人を癒してくれるものか、しみじみとつむぎあげた繊細な作品に、生真面目な佐々部監督のハートを感じた。
「家業を継ぐのがいや」で好きなミュージシャンを目指し故郷を後にした若者・佳幸(桐山漣)は、勘当同然だった父親・年男(升毅)から「体調が悪い」と連絡を受け、驚きながらも複雑な思いでギターを抱えて群馬県に帰郷する。母親・明子(宮崎美子)は相変わらず陽気で元気。高校生になっていた妹・幸恵(安田聖愛)だけは佳幸に厳しかったが、友人たちは身を固めてはいても変わりなく、10年の歳月を感じさせない。何よりも仲の好かった美しい同級生・唯香(杉野希妃)は彼の影響で小学校の音楽教師になっていて「私が教師になれたのは佳幸のおかげ」と今も感謝している。
何ら変わることないふるさとの姿に苦闘の10年を振り返る佳幸だったが、父親の病気は「ガン」。明子や妹には言えず、真相を聞いたのは佳幸だけ。手術は3日後に迫っていた…。
ふるさとを捨てるように上京した佳幸の“帰郷する風景”が実にうらやましい。「ふるさとは遠きにありて思うもの」という言葉は「ふるさとだけは変わりなくあってほしい」という故郷を遠く離れた人々に共通する願いだろう。
佳幸は、父親の頼みを受けて、地元の「ねぷた祭り」に参加。児童の合唱を指揮する唯香の依頼で、曲を作り、祭りで自ら熱唱もする。帰郷→祭り→恋人との再会は“ふるさと映画”の定番でもある。そんな願望通りに存在していたふるさとは、夢かはたまた幻か、おそらく佐々部監督にとっても憧れ、ある種、ファンタジーなのではないか。下関出身の佐々部監督の「ふるさと」は想像するしかないが、故郷への思いは分かる気がする。
私事で恐縮だが筆者の「ふるさと」は大阪・梅田のど真ん中。かつては下町だったが、今は当然様変わりして、生まれ故郷は今「川の流れる街」、梅田・三番街の大きな水槽になっていて熱帯魚が泳いでいる。だから、ふるさとは知らず、佳幸のような体験はない。 だが、まことに勝手ながら、ふるさとこそは人間の成長に必要不可欠なもの、と言えないか。政府与党方針ではないが「地方再生」という国家あげてのテーマとは別に、東京、大阪などの大都市に限らず、今日本が殺伐としてしまったのは“ふるさと喪失”が原因ではないか?
帰郷に始まる”同窓会”映画は、たくさんあり、ポスト青春映画の定番にもなっているが、最もふるさとに迫ったのは山田洋次監督。タイトルもズバリ『故郷』(72年)は高度経済成長の余波で運搬船の仕事を失った夫婦の姿を描いて、美しい風景と工業化社会を対比させた。それ以上に“ふるさと喪失”の痛恨を描いた傑作が『家族』(70年)だ。こちらは長崎の小さな島を出て、一家あげて北海道の開拓部落へ向かおうとする5人家族の物語。家族の結束は固いが、途中で祖父が死に、幼い子供も急死する。希望へと向かいながらも、家族が欠けていく無残な道行は、故郷喪失の無念をしみじみ感じさせた。この家族の旅の途中、万博景気に沸く大阪・梅田の地下街が登場し、一家が迷子になる場面が実に象徴的だった。
地方は今、「シャッター通り」の言葉が象徴するように、疲弊し産業も希望も見えにくい時代だろう。地元(地方)に絶望して、夢を抱いて上京する佳幸のような青年がいっぱいいる現実は変えられるものではない。だけど、その代わりに青年たちは何を得たのか、また何を失ったのか。佳幸青年は、たまたま故郷で両親や友人の温かさを再認識して“東京にかけた夢”に見切りをつけることが出来たが、それは映画だけの偶然の“やさしさ”なのかもしれない。だが、数々の陰惨な事件を耳にするたびに、故郷喪失がもたらした心の欠落はもう取り戻せないという深い絶望感にかられる。
(安永 五郎)
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