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『42 世界を変えた男』

 
       

42-550.jpg 『42 世界を変えた男』 

       
作品データ
原題 42
制作年・国 2013年 アメリカ 
上映時間 2時間08分
監督 監督・脚本:ブライアン・ヘルゲランド
出演 チャドウィック・ボーズマン、ハリソン・フォード、ニコール・ベハーリー、クリストファー・メローニ、アンドレ・ホランド、ルーカス・ブラック、ハミッシュ・リンクレーター
公開日、上映劇場 2013年11月1日(金)~丸の内ピカデリー、大阪ステーションシティシネマ、なんばパークスシネマ、MOVIX京都、神戸国際松竹 他全国ロードショー

 

 


  

★アメリカ大リーグを“開放”した伝説の永久欠番「42」

  


 

 俊足巧打のスラッガー、寡黙で我慢強い、彼こそはアメリカの真の英雄だった…アフロ・アメリカン=黒人選手として史上初めて米大リーグ、ブルックリン・ドジャース入りを果たした男ジャッキー・ロビンソン。“自由の国”で人種差別と戦って道を切り開いた。凄絶な困難と戦う姿は「鳥肌立つドラマ」に偽りなし。これまで映画化されなかったのが不思議なほど、人間の尊厳と感動に満ち、野球好きの映画ファンには涙ものの実話だった。

42-2.jpg 時は1945年。第2次大戦が終わり、戦場で白人とともに戦った黒人選手たちも次々帰還する。彼らは白人だけの大リーグとは別組織の黒人リーグでプレーするしかなかった。そんな中、ドジャースのオーナー、ブランチ・リッキー(ハリソン・フォード)が「黒人選手を入れよう」と発案する。「チームを強くするため」、そして「金儲けのために」。数人の候補から選ばれたのは、大卒で軍隊経験あり、26歳と若く、優れた能力を持ったジャッキー・ロビンソン(チャドウィック・ボーズマン)だった。リッキーが彼に教えたのは「言葉でも暴力でも、同じレベルで戦わないこと。野球に没頭し他は無視する冷静さ」だった。

42-4.jpg ジャッキーは様々な嫌がらせに負けず好成績を残し、2年後の1947年にメジャーに昇格する。16球団400人(当時)の大リーガーは当然、全員白人。そんな中、たった一人割って入った黒人選手に人々はどう反応するのか? 予想は出来たが、観客、マスコミはもちろん、相手チームの選手、監督、公平であるべき審判まで彼を取り巻く周りはすべて敵だった。 味方はオーナーと愛妻レイチェル(ニコール・ベハーリー)、リッキーが雇った黒人記者スミス(アンドレ・ホランド)だけ。チームメイトさえ、最初はそろって「ジャッキー拒否」の嘆願書をオーナーに提出する。だが、ドローチャー監督は「すべては実力だ」とはねつける。オーナーは「カネのため」、監督は「勝つため」という理由は単純明快。それは本来、差別のない米社会の競争原理に違いなかった。

 一挙手一投足が注目されるジャッキー。周りの過剰反応と、それに耐え、ひたすら冷静に野球に打ち込む姿が見どころだ。彼が打席に立つだけで動揺する投手。四球で出塁し俊足を生かして二盗三盗、最後は投手がボークを侵して「何もしないのに」生還する、3Aデビューの冒頭から、痛快なシーンが続く。

 スタンドの猛烈な野次、というより罵詈雑言の嵐。幼い子供まで父親につられて野次るシーンに差別の根深さも見える。中でも強烈なのは敵チーム、フィリーズのベン・チャップマン監督だった。あからさまな人種差別、人格攻撃、さらにチームメイトへの誹謗中傷は今なら即退場になるほどえげつない。

42-3.jpg  数々の差別に耐えてきたジャッキーも我慢の限度を超えた。グラウンドではオーナーの期待通り耐え抜いたが、ベンチ裏で怒りを爆発させ、バットを叩きつけてしまう。

  圧倒的な周りの嫌がらせにじっと耐え抜く姿は、一時期人気を博した任侠映画の“我慢の美学”に通じる。任侠ヒーローは最後に殴り込んでカタルシスをもたらすが『42 ~ 』の主人公はバットで答えを出し、グラウンドで結果を残して見る者のうっぷんを晴らす。この姿勢こそがジャッキーの本質。彼の偉大さを称えて、全球団が「42」を永久欠番にする結果につながったのだった。

42-5.jpg  孤立無援の中、チャップマンの猛烈な野次に、同僚の白人選手がたまりかねて言い返す。最初は冷たかったチームメイトも、仲間としてジャッキーを認めた瞬間だった。ベンチでジャッキーが「ありがとう」と応えたり、あえて敵地でジャッキーと肩を組んだり…。懸命に戦う彼にチーム内から変化が起こる。それは人間の尊厳、アメリカの理念に基づく“奇跡”の光景だった…。

 

 


 

★たった一人で実践した公民権運動

 


 

  マーチン・ルーサー・キング牧師が公民権運動の指導者として全米で注目されたのは1963年。非暴力を貫いて1964年にはノーベル平和賞を受賞した。

  スポーツの世界の黒人ヒーローはプロボクサー、モハメド・アリが有名だ。彼がローマ五輪ライトへビー級で金メダルを獲得したのは1960年。プロ転向し世界統一ヘビー級チャンピオンになったのは1964年のことだ。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」といった達者な言動で“ホラ吹きクレイ(改名前)”の異名を取り、世界の人気者になるが、徴兵拒否、米国差別社会への批判など数々の物議をかもした男でもあった。

  キング牧師はもちろん偉大だし、モハメド・アリの活動も輝かしい。だが、彼らより20年近くも前にたった一人の黒人大リーガーが非暴力を貫いて根強い人種差別に風穴を開けた。その事実には驚くしかない。映画『42~』にもあるが、ジャッキー・ロビンソンの後に、どれほどの黒人選手が続いたか。彼は見事なお手本になった。

  “自由平等”はリンカーン大統領以来のアメリカの輝かしい理念。だが、リンカーンの奴隷解放宣言(1862年)から100年経っても、理念は絵空事でしかなかった。公民権運動を支持したケネディ大統領は63年、凶弾に倒れ、キング牧師も1968年に白人のならず者に射殺された。差別の根は深かった。

  国技と言われるほど野球好きな米国では当然、人気選手の映画は多い。ホームラン王、ベーブ・ルース、「打撃王」ルー・ゲーリッグ、変わったところでは反則すれすれのハードなプレーで知られるタイ・カッブ、年食った新人を題材にした『オールド・ルーキー』…。だが、黒人選手の映画は問題を起こしたサミー・ソーサぐらいしか記憶にない。

42-6.jpg  ジャッキー・ロビンソンは実働10年、ホームランは137本(通算打率3割1分1厘)。記録よりも記憶に残る選手だった。メジャー昇格から66年、前述の大選手たち以上に鮮烈な記憶に刻まれた「42」の映画化で、映画の世界でもようやくアメリカは平等の理念を実現した、と言えるのかも知れない。   

(安永 五郎)

 

公式サイト⇒ http://wwws.warnerbros.co.jp/42movie/

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