赤い城
黒い砂 |
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『赤い城 黒い砂』
〜現代劇のような時代劇から浮かぶのは”今”〜
脚本:蓬莱竜太
演出:栗山民也
出演:片岡愛之助(ジンク)、 中村獅童(カタリ)、 黒木メイサ(ナジャ)
南沢奈央(ココ)、 馬渕英俚可(カイナ)、 田口守(ヨム)、
中嶋しゅう(モト)、 中山仁(クジャ王)
2009年4月3日(金)〜5日(日)京都南座
2009年4月11日(土)〜26日(日)日生劇場
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一体いつの時代のことだろうか。地球上では,赤い国と黒い国が戦争を繰り返していた。「黒い国の獅子」であるジンクとカタリは,従兄弟同士で無二の親友だ。彼らは,戦場で「赤い国の魔女」と呼ばれる王女ナジャに出会ったことで,愛憎や欲望を深めていく。人と人が戦場で相まみえる時代は終わろうとしていた。赤い国のクジャ王は,武器商人モトから買った新兵器を使用する。黒い国は焦土と化して,ジンクとカタリは牢獄に囚われる。
回り舞台を活用した流れるような場面展開の中,この3人が牢番の娘ココを巻き込みながら,戦いに絡め捕られた運命を突き進んでいく。黒木メイサは,自分の意思と無関係に動く世界で王女として懸命に生きるナジャの孤独を見せる。片岡愛之助は,正にジンクとして,愛憎から過去を捨て,変貌を遂げていく。自分の意思を素直に表出する中村獅童のカタリは,南沢奈央扮するココの心を捉え,彼女を戦に明け暮れる地上の世界へ連れ出す。
シェイクスピアがジョン・フレッチャーと共同執筆した悲喜劇「二人の貴公子」を基にした戯曲で,2人のうち1人が王女と結ばれる結末にも改変が加えられたそうだ。これにより,ナジャをめぐるジンクのカタリに対する葛藤が一層深まったと思う。ジンクはナジャを本当に愛していたかどうかは必ずしも明らかではないが,ラスト近くのジンクの台詞にその愛の対象を見た思いがする。”愛”が深ければ深いほど憎しみも増していくようだ。
舞台のセットは,戦場になったり牢獄になったりと色々な様相を見せる。シンプルなようで工夫が凝らされている。インドやアラブを思わせる衣装も印象に残る。その色彩も赤と黒に限らない。武器商人の青は,ラストで登場する青い国へと連なり,頭上にそびえる巨大な存在に見えてくる。ココの純粋無垢さを表現する白は,儚げだが,人の世を浄化するようなイメージがある。彼女に嫌いだと言われた人が次々とこの世から消えていくのだ。
京都南座で演じられたのに花道が十分活用されなかったのは惜しい感じがする。だが,戯曲のスケールには,劇場に相応する大きさがあった。ラストが近付くに連れて,人がこの世に存在する限り戦いが避けられないことの悲しみが増していく。武器商人の歪んだ中立性が不気味だ。クジャ王は,自らの墓を掘らせることに余念がない。ナジャは戦いから抜け出せず,その衣装は緑から赤へと変わる。いつしか舞台の上には今の時代が現れていた。 |
冬の絵空 |
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『冬の絵空』
〜舞台の醍醐味,虚実ないまぜの面白さ!〜
作:小松純也
演出・上演台本:鈴木勝秀
出演:藤木直人(沢村宗十郎)
橋本じゅん(大石内蔵助/犬男頭)
中越典子(おかる/老尼)
中村まこと(浅野内匠頭長矩/他)
松尾貴史/粟根まこと(吉良上野介/他)
加藤貴子(順)
生瀬勝久(天満屋利兵衛) 2008年12月6日(土)〜16日(火) サンケイホールブリーゼ
2009年1月12日(月)〜2月1日(日) 世田谷パブリックシアター
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新生サンケイホールブリーゼの柿落とし公演は,師走の定番・忠臣蔵だ。旧暦で元禄14年2月4日の江戸城は松の廊下での刃傷沙汰から元禄15年12月14日の赤穂浪士らによる討ち入りに至る物語。これまでも仮名手本忠臣蔵を始め,歌舞伎,映画,TVドラマ等で色々な角度から取り上げられてきた。今回の舞台は”本当は討ち入りをしたくなかった大石内蔵助”だ。内蔵助を演じた橋本じゅんが劇団新感線の舞台とは違った味わいを出している。
もともと忠臣蔵そのものが史実の再現ではない。上述の討ち入り事件に基づく創作である。本作のプロローグとエピローグでは,この世ともあの世ともつかない妖しい空間が現出する。彼岸と此岸,生きているものと死んでいるものの狭間だ。人間のようで犬のような犬男が群れ,その中心に目の見えない老尼が座っている。彼女は目が見えなくなった経緯を語り始める。物語全体が彼女の主観的な視点で包括され,真偽不明の世界が生まれた。
物語の内容自体,豪商・天野屋利兵衛の発案した大芝居として展開される。演じるのは人気役者・沢村宗十郎。舞台上の出来事は全て虚構だ。それが美しければ美しいほど観衆は歓び,満足度が高まる。ウソが限定された舞台から世間という大きな空間に飛び出したとき,ウソと本当の境界が見えなくなる。両者の関係が見事に逆転したときの醍醐味は忘れられない。しかも,本作では,流れに取り残された本物に漂う寂寥感が胸に迫ってくる。
おかるは,内蔵助を演じる宗十郎を見て,宗十郎ではなく,内蔵助に惚れる。本当は生きていた浅野内匠頭は,実は影武者かも知れない。内匠頭自身,本物だという証しを立てられない。赤穂浪士らは,本物かどうかはともかく,内蔵助という旗印の下に討ち入りを敢行する。もはや内蔵助が本物かどうかはどうでもよくなっている。宗十郎の演技によって作り出された時代の大きな流れには誰も抗えない。その怖さは,いつの世も変わらない。
また,堀部安兵衛とその妻・順の討ち入り前のシーンが良い。いろは歌の最後の5文字を書き上げる。その静けさは,2人が覚悟を決め,言葉を交わさなくても思いが通じ合っていることを映し出す。ここには,その後の展開を予感させるものがある。おかる/老尼は,偽物の内蔵助と連れ立って舞台の奥へと姿を消す。行き場を失ってひとり佇む内蔵助/犬男頭が哀しい。このとき降りしきるのが雪か桜かは,もはや何の意味も持たないのだ。
【 おまけ
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いろは歌を7文字毎に区切って一番下の文字を並べると,「とがなくてしす」(科なくて死す)になる。安兵衛と順のシーンは,これを意識していたのだろうか? |
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イザナキとイザナミ〜古事記一幕 |
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『イザナキとイザナミ〜古事記一幕〜』
〜シンプルでダイナミックな男と女の物語〜
作・演出:橋口幸絵
出演:榮田佳子(劇団千年王國)
福井岳郎(スタジオ・ティンクナ) (2008年10月5日 14:00〜in→dependent
theatre 1stで観劇 )
★劇団千年王國とは?
1999年に旗揚げして札幌で活躍する劇団
http://www.cubeinc.co.jp/stage/info/fuyunoesora.html http://sen-nen.org/index.htm
★ティンクナとは?
南米アンデス地方の民族音楽フォルクローレをベースとした
日本語のオリジナル曲を演奏するグループ |
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大阪初体験となる札幌の劇団千年王國による音楽劇だ。基本的には女優の一人芝居だが,音楽家とのコラボレーションでもある。舞台はシンプルなもので,上手にいくつかの楽器,下手に二段ほどの箪笥が置かれているだけだ。その中で,女優は,白い衣装と長い黒髪という出で立ちで,二人で一つだった幼年時代から思春期を通過して子供を次々ともうけ,最後には黄泉の国に至るという四つの時代を表現していく。1時間余りに凝縮された一生だ。 |
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いきなり上手から登場した男が発するドーンという大きな音と同時に舞台が暗転し,風のような音が聞こえ,やがて人の声になる。ヒトが誕生する瞬間に立ち会ったような感覚が湧く。箪笥から取り出された切り絵は昔話の雰囲気を生み出す。そして,細長い大きな紙が広げられ,筆に墨を付けて何かが記されていく。日本列島が出来上がるのかと思っていると,古事記という文字が浮かび上がった。その瞬間の感動は小劇場ならではの味わいだ。
このように色々な小道具が巧く使われている。圧巻は白く大きな四角い布だ。最初は女優が腰に帯のように巻いている。それを扇風機の風で大きく膨らませて巨大化した妊婦の腹部に見せるシーンは,その後の展開を暗示しているようで不気味でさえある。実際にそこから赤い布が飛び出してくるときの衝撃は大きい。自らを生んだ母親をも焼き殺してしまった火の神の迫力が,舞台いっぱいに広がる。このダイナミックな演出が実に魅力的だ。
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音楽家も,単なる演奏者ではなく,時には女優と共演する。セリフはないのに実に雄弁だ。人の声も音楽の一部か,あるいは楽器がセリフを発しているのか。音楽家と女優との掛け合いが鮮やかで,これこそ正に音楽劇と呼ぶにふさわしい。また,楽器そのものも役者のように劇に参加する。壺太鼓が赤ん坊の役割を果たすシーンは何とも微笑ましい。柔軟な発想と豊かな表現力が印象に残る舞台だった。ぜひまた大阪で公演して欲しい劇団だ。 |
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SISTERS |
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『SISTERS』
〜無性に哀しくて透き通るようなエンディング〜
(2008年 日本 2時間20分・休憩なし)
演出:長塚圭史
出演:松たか子(尾崎薫)、鈴木杏(神城美鳥)、田中哲司(尾崎信助)、中村まこと(三田村優治)、梅沢昌代(真田稔子)、吉田剛太郎(神城礼二)、堂ノ脇恭子(三田村操子)、
2008年8月23日(土)18:00〜シアター・ドラマシティにて観劇 |
薫の「お父さん,どうしてナツキなの?」「どうして私じゃないの?」という悲痛な心の叫びが胸にこたえる舞台だ。松たか子と吉田剛太郎のバトルのような舞台が展開する。薫の攻撃をのらりくらりかわしていく礼二。礼二の年齢に相応する狡猾さと不相応な屈折した心の暗部。一方,薫の心は混迷を深めていく。少しずつ,絶妙の間合いを保ちながら,核心に切り込んでいく呼吸が実に鮮やかだ。
ここに至るまでのサスペンスの盛り上げ方も巧い。礼二の妹・操子は,夫経営のホテル内で突然自らの生命を絶ったという。その後精神のバランスを失ったという梅沢昌代扮するホテル従業員・稔子が不気味な雰囲気を醸し出す。鈴木杏扮する礼二の娘・美鳥は純粋性を保っているように見えて,どこかにアンバランスな不安を内包して違和感を覚えさせる存在だ。日常から隔たった異空間で方向感覚を失ったような不安感に舞台全体が満ちている。映画監督をも経験した長塚圭史が今ここで1つの到達点を示した名作だといえよう。
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薫は夫にも明かしていない過去を抱えているようだ。美鳥は父親と10年間ホテルの一室で暮らしてきたという。様々なナゾを残しながら,舞台は休憩のない2時間20分を疾走する。薫と美鳥は,遠い遠い親戚で,血のつながりはない。薫は,美鳥と接することにより,まるで蟻地獄にでも落ち込んだような抗拒不能の状態に置かれ,自らの過去へと引きずり込まれていく。薫の封印してきたピュアであると同時にドロドロとした過去の愛憎が少しずつ露わになってくる。それは彼女にとって前進なのか,それとも後退に過ぎないのか。
途中の場面転換が鮮やかだ。映画のように舞台上で2つの空間が瞬時に入れ替わったり,オーバーラップしながら入れ替わったりする。時間も瞬間的に現在から過去へ移動する。また,まるで鈴木杏が二役を演じているように,松たか子扮する薫がときどき美鳥の姿に妹ナツキの存在を見ていることが分かる。それを明確かつ瞬時に伝える演技と演出は並外れたものといえる。薫が少しずつ少しずつ正気から狂気へと足を踏み入れていく。1幕から2幕にかけて少しずつしみ出してきた狂気が,3幕で美鳥と交錯し,そしていよいよ黒幕的存在ともいえる礼二と対決するとき,一気に噴き出してくる。正に圧巻というほかない。
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クライマックスでは舞台いっぱいに水面が広がっていく。足首辺りまである水が人々の足元に絡みつき,足枷のようなイメージが生まれる。そして,水面の揺らめきが光と影となって舞台に設けられたホテルの一室の壁に反映する。揺らめいているのは水面なのか人々の心なのか。また,その揺らめきが幻想性を醸し出して,現実と非現実との垣根を取り払う。正気と狂気の境が失われる。夫の「帰ろう」という呼び掛けに「ハイ」と答えた”幼い”薫の言葉が重いオリのように広がって,劇場全体を覆い尽くしてしまうのだ。これこそ正に衝撃的なラストと呼ぶにふさわしい。 |
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