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★ 第15回大阪ヨーロッパ映画祭★(2008年)

 ソフィアの3つの運命
『ソフィアの3つの運命』(仮題)
〜都会に働きに出てきた少女達の姿をリアルに描く〜

英題:「Steamstresses」 (2007年 ブルガリア 1時間24分)
監督・脚本:リュドミル・トドロフ
出演:アレクサンドラ・サルチャジエヴァ、エレン・コレヴァ、ヴィオレタ・マルコフスカ、アセン・ブラテチキ、フィリップ・アヴラモフ、ゲルガナ・ストヤノヴァ
http://www.oeff.jp/1830-Sivacki.html
ヨーロッパ映画祭で初登場のブルガリアからの作品。

【ストーリー】
 ブルガリア東部の小さな町からお針子の仕事を求めて首都ソフィアに出てきた仲良し三人娘のドラ、エレナ、カティヤ。仕事が見つからず困っていたところを、面倒見のよいイーナに助けられ、同じアパートでの共同生活が始まる。ドラとエレナは肉屋で、カティヤはカフェでウェイトレスの仕事に就く。しかし仕事の違いが三人の間に亀裂を生みはじめる。売春の斡旋屋の愛人となり、派手な衣装をまとうカティヤ、彼女を嫉妬しイーナの夫の誘いに乗り、三角関係となってしまうドラ、二人の仲をとりもとうと懸命なエレナ。果たして三人の仲は・・?
 イーナを演じたゲルガナ・ストヤノヴァさんと、プロデューサーの一人、ヴラディミル・シシュコヴさんが来阪。観客からの質問に答えた。

Q:ブルガリアの20歳代の若い女性たちは、経済的にどんな状況に置かれていますか?

A(ゲルガナ。以下Gと表記):映画を観てもらったとおりで、若い人が皆、三人と同じというわけではありませんが、毎日食べていくために苦労しています。

一つの職業だけでは食べていけないので、私も女優だけでなく、プロデューサーやジャーナリストとして、ドキュメンタリーをつくったり、テレビに出たりしています。ヴラディミルも、プロデューサーだけでなく、監督や画家でもあり、アニメ映画もつくっています。皆、いろいろなことをしながら生計を立てています。

Q:このあと三人がどのように成長していくと想像されますか?

A(G):監督だけが知っていることですが、皆さんの想像におまかせします。私が演じたイーナは、夫が三人の女の子の一人と関係をもつという難しい状況にありますが、とてもクールな女性です。
一つおもしろい逸話があるのでご紹介します。イーナが三人の女の子のことを話しながら夫とセックスするシーンを撮影したのですが、最終的にはカットされて使われませんでした。編集の時に監督からカットすると言われ、理由を尋ねると「イーナはクールな女性だから」と言われました。思わず「クールな女性がセックスしないなら、ハリウッドスターの女優たちはトイレに行かないの?」と聞いてしまいました。監督は「役柄の性格について考えなければいけない。イーナはクールですてきな女性だから、身体のことよりも、性格のことだけを考えてほしいと思ってカットした」と答えました。皆さんはどう感じますか?
Q:この映画を撮ろうと思ったきっかけについては?
A(ヴラディミル):これは実話に基づいていて、実在する三人の少女の物語をつくりたいと監督から聞きました。

Q:この映画を通して観客に伝えたいことは?
A(G):学校を卒業して豊胸手術をする女の子はたくさんいます。カティヤのように身体を使ってキャリアを探そうとすることは確かにありますが、本当の仕事、本当のキャリアを身につけるためには、きちんと教育を受け、そのための投資をしてほしいと思います。
Q:三人の少女は、皆、髪の色や肌も違いますが…?
A(G):三人の少女を演じた女優は、皆、演劇・アートの専門学校を卒業したところで、才能があって、主役に選ばれました。髪や肌の色は様々で、典型的なブルガリア人の色というのはありません。

街の公衆電話から仕事の紹介先に電話したものの、うまくいかず、路頭に迷う少女たち。近寄ってきたのは売春の斡旋屋の男。怪しげなモデルの仕事を紹介され、きっぱりと断わるが、思いどおりの仕事は見つからず、二人は肉屋で、一人は夜のカフェで働くことに……。
 1989年まで共産党政権だったブルガリアは、2007年のEU加盟時には最貧国。地方から仕事を求めてやってきた少女たちが苦悩し、模索する姿が、リアルに描かれている。姉妹のように仲のよかった三人が、ささいな誤解や嫉妬がもとで、仲違いしてしまう。現状に苛立ち、自暴自棄になっていく勝気なドラの姿が痛々しい。そんなドラを心底心配し、カティナと仲直りさせようとするエレナの真摯な姿が救いとなる。故郷になかなか帰ることができず辛い中で、故郷に電話をし、寂しさをかみしめるエレナ。そんな彼女のことを暖かく気遣う同じアパートの音楽家の男のユーモアが笑いを誘う。不倫や嫉妬といったトラブルをはらみながらも、弱い者たちが互いに守りあう小さな巣でもあるアパート。そこで繰り広げられる人間模様が淡々と描かれる。ひとりぼっちになったエレナがそっとダンスのステップを踏む、あどけない表情が可愛らしい。
  女性にとって何が幸せなのか。三人の女優の等身大で生き生きした演技がすがすがしく、心に残る。なかでも、優しさとまじめさを持ち続け、肉屋で働きながら友を待つエレナの美しい瞳には心打たれた。 
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 永遠のこどもたち 
『永遠のこどもたち』
〜息子への深い愛の力で、恐怖を乗り越えた母の姿〜


(2007年 スペイン=メキシコ 1時間48分)
監督:J・A・バヨナ
脚本:セルシオ・G・サンチェス
出演:ベレン・ルエダ、ジェラルディン・チャップリン、フェルナンド・カヨ、ベル・リベラ
原題EL ORFANATO 英題THE ORPHANAGE

公式ホームページ→
作品紹介→
 昨年秋に大阪で行われたヨーロッパ映画祭に、J・A・バヨナ監督が来場。短編映画、ミュージックビデオの監督として長いキャリアを持ち、本作で初長編デビュー。低予算映画で、長編作品は初めてというスタッフも多かったとのこと。上映後、会場の観客からの質問に、丁寧に答えてくれました。その主な内容をご紹介します。
【ご注意!】 物語の結末に触れている部分がありますので、ご了承ください。鑑賞後に読まれることをお薦めします。)
Q:映画冒頭の、数を数える遊びは日本にもありますが、スペインでは何というのですか?
A;日本でもそうだと思うのですが、地方によって呼び方が異なります。「1、2、3、ノック・オン・ユア・ウォール(1、2、3、壁を叩きなさい)」と呼ぶのが一番多いと思います。

Q:長編映画を初監督されたということですが、苦労や工夫された点は?
A:短編映画をつくるのと長編映画をつくるのとでは、ルールも違ってきます。長編でストーリーを語ることにすごく興味があり、ずっとやりたかったことです。私のミュージックビデオを観ていただいたらわかると思うのですが、短編映画のような感じがすると思います。私はカメラを使って物語を語ることにすごく興味があり、おもしろいと思っていました。
Q:最後のシーンですが、母はこどもと一緒に葬られているのでしょうか?
A:過去を葬る墓というよりも、思い出のための記念碑という感じです。こどもが急にいなくなってしまうというのは本当に大変なことで、この映画で語るに際し、大変慎重になりました。バルセロナで、家族が突然いなくなったという人たちと話をしましたが、いなくなった人たちがあちら側の世界からサインを送ってくれる、という経験について聞き、とても興味をもちました。また、こどもが行方不明になったという親たちの会があり、こどもが一体どこに行ったのかわからず、つらさに終わりがない、そういうことを表現したいと思いました。


Q:母親のラウラが最後、悪に勝ったようにも思えるのですが…?
A:この映画の中に悪人とか悪魔は出てきません。老女ベニグナも、悪人のようにみえたかもしれませんが、すぐ死んでしまいます。自分たちの内面に悪を見るところに焦点を当てたかったのです。このストーリーの中では、こども時代への回帰、怖いものがいっぱいある“こどもの時代”に戻り、その怖いものを克服してくれるのが、母の愛だ、ということを描きました。

Q:ジェラルディン・チャップリン(喜劇王チャップリンの娘)が出演することになったきっかけは?
A:彼女は70年代のスペインの映画に何本か出演していますが、変わった映画が多く、少し怖いイメージでしたし、こどもがいる母親の幽霊の役をしている作品があり、とてもよかったので、キャスティングしました。
実際に会ってみると、とてもユーモアのある、おもしろい人でした。たとえば、こんなエピソードがあります。彼女が部屋に入ってきて「こどもが見える」と語るシーンがあります。私は、助監督に、ベッドの下に隠れて撮影中に彼女の足に触ったらどうかと聞いたら、彼女はスターだからやってみたらどうかと言われました。私はベッドの下に隠れ、10分か15分待って、撮影が始まり、彼女の膝に触ったら、彼女は泣き出してしまいました。撮影が終わってから、謝りに行ったら、「触ったの?知らなかったわ」と言われたのです。
QスペインではHIVの問題は深刻化しているのですか?
A:スペインでも、他の国と同様にHIVは80年台後半から大きな問題になってきています。この映画でシモンがHIVに感染していることにしたのは、ラウラが、新しいビジネスを立ち上げたり、病気のこどもがいたり、夫もいて、といろいろなことに対応していかなければならない中で、幸せなこども時代に帰りたい、少し逃げたいという気持ちになったりするわけで、それでHIVという設定にしました。スペインではHIVに感染したこどもを養子にすることは割とよくあることなのです。

Q:こどもを思う女性のタフなイメージがありましたが、逆に、夫は冷静で冷めた目で見ているようでした。監督は女性の方が怖い存在とお考えですか?
A:女性は怖いと思っています(会場笑)。
確かにこの映画の中で女性は強いですが、私は、ラウラが女とか男というよりも、人間だと思っていますし、人間的なことを描こうと思いました。実際、この映画の中に母親が幾人も出てきます。ラウラもベニグナも母親ですし、ジェラルディン・チャップリンの役もラウラに対して母親のような存在です。でも、母親といっても一人一人違っていて、ひとくくりにはできません。
ラウラは、どういうふうに母親としてふるまったらいいかわからないでいますが、最終的には、こどもであることと、母親であることのバランスを見つけていくわけです。一方、ベニグナはこどもを亡くし、バランスを見つけられず、精神的に難しい問題を抱えてしまいます。私はこの映画で母親であることを描きたかったのです。
 スペイン映画界のアカデミー賞に当たるゴヤ賞で、脚本賞、新人監督賞、美術賞など7部門で受賞した本作。ホラーの要素をたっぷり含んだサスペンスでもあり、家族愛を描いたファンタジーでもある。母親のラウラが、何が何でも息子のシモンを見つけ出そうとする強さに圧倒される。単に恐怖を乗り越えるだけでなく、ラウラが自分の少女時代を思い出し、自分の過去と向き合いながら、謎を解いていこうとするところが興味深い。美しくも、どこか不気味な映像世界は、きっと観客の心をとらえて放さないにちがいない。
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 いのちの戦場

(C) 2007 LES FILMS DU KIOSQUE - SND - FRANCE 2 CINEMA
『いのちの戦場−アルジェリア1959−』
〜誰も知らなかったアルジェリア独立戦争〜

(2007年 フランス 1時間52分)
監督:フローラン=エミリオ・シリ
出演:ブノワ・マジメル、アルベール・デュポンテル、オーレリアン・ルコワン、マルク・マルベ、エリック・サヴァン、
モハメッド・フラッグ
早春〜テアトル梅田、京都シネマにて公開

配給:ツイン
公式ホームページ→
 
 1959年,アルジェリア北西部のカビリア地方の山岳地帯。開巻早々,その風景が映し出される。幾何学模様のような冷たい静けさに包まれている。不穏な空気を漂わせる光景が視野いっぱいに広がり,そこには体温が全く感じられない。だが,突然何かが動く。それが何人もの人間の姿であることが明らかになっていく。彼らはフランス軍の兵士だ。そこでは,見えない敵・アルジェリア民族解放戦線(FLN)とのゲリラ戦が展開されていた。

(C) 2007 LES FILMS DU KIOSQUE - SND - FRANCE 2 CINEMA
 この導入部では,アルジェリア独立戦争の特徴が端的に視覚化されている。中尉が”運が悪くて”戦死する。その後任が主人公テリアン中尉だ。敵の姿が見えないことの恐怖や不安に覆われたゲリラ戦では情報の入手が死活問題となる。拷問も情報を入手するための重要な手段だ。テリアンは,戦場での体験に当惑したり怒りを覚えたりしながら,生き残るための”学習”をする。ここでは平和な社会で培われた価値観が簡単に崩れ去っていく。
 独立戦争は1954年から1962年まで続いた。モロッコやチュニジアとの違いは何か。アルジェリアの西隣と東隣の両国は1956年に独立した。アルジェリアは,1830年にフランスの植民地とされ,1881年から直轄領としてフランスに編入される。モロッコの44年,チュニジアの75年の植民地支配と量的にも質的にも異なるものがあったようだ。本作では,第二次大戦にフランス軍として戦ったアルジェリア兵の複雑で微妙な立場も描き込まれている。

(C) 2007 LES FILMS DU KIOSQUE - SND - FRANCE 2 CINEMA
 ベテラン兵ドニャック軍曹が本作に厚みを与えている。彼は,自らの戦場での体験をテリアンに教えることでその苛酷さを際立たせると共に,冷徹にテリアンの心理状態を観察している。一方,観客は,テリアンと同じ視点からその心情を体験すると共に,ドニャックの目を通してテリアンを客観視する立場に置かれる。その結果,ドニャックが最後に選択した行動とテリアンが最後に見た人物が衝撃的であると同時に納得できるものとなった。
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 ジョジーの修理工場
『ジョジーの修理工場』(仮題)
〜孤独で無垢な男の魂〜

原題:Garage(2007年 アイルランド 1時間22分)
監督:レナド・エイブラハムソン
脚本:マーク・オハローラン
出演:パット・ショート、アンヌ・マリー・ダフ、コナー・ライアン

http://www.oeff.jp/article1716.html
 舞台はアイルランドの片田舎。ジョジーは、町外れのガソリンスタンド兼修理工場で、一人で働く、気立てのよい中年男。あまりの純朴さと生真面目さゆえに、町の人々からは物笑いの種にされることもしばしば。ある夏、15歳の無口な少年デビッドが現われ、一緒に働くことになる。仕事が終わってから一緒に缶ビールを飲んだり、二人は次第に打ち解けてゆく。育まれつつある友情に喜ぶジョジーの何気ない好意が、彼に悲しい運命をもたらすことに……。
 脚本のマーク・オハローランさんが来阪。上映前の舞台挨拶では、アイルランドの田舎の風景を撮っており、とてもアイルランド的な映画、とコメント。

 上映後の質疑では、作品のテーマに迫る質問も相次ぎ、映画をより深く理解し、豊かなイメージを受け取る助けとなるような、充実したものになった。
Q:アイルランドは、宗教的に、罪に対する罰が厳しい国と聞いています。悲しすぎるラストには、何か意図するものがあったのですか?
A:アイルランドでは、子供の安全についてパニック的な状況になったり、公共の場で子供たちが害を受けたりすると、社会的に眉をひそめられることがある。行政の対応も時に厳しく、不公平なときもあるので、そこも描きたかった。

Q:会話の間がすばらしく、昔の日本映画のようでした。ジョジーが自殺するのは自分の愛や友情がことごとく拒絶されたことに絶望してのことと感じましたが、ラストシーンに馬が現われたことの意味は?
A:最後は、線路のずっと向こうに馬がいるシーンを撮るつもりでした。しかし、馬がスタッフから餌をもらうのに慣れてしまい、馬がカメラを見て、こちらに近づいてきてしまいました。全く偶然、意図しないことで、馬がじっとカメラの方を見ていました。それを見て、なぜか私は涙がこぼれてきてしまいました。馬が、カメラを通して、観客や、我々に向かって、一体君達は何をしたのかと、どこか怒っているような気がしたので、このシーンを使うことにしました。
Q:『Garage』というタイトルに込めた意味は?
A:得に意味はありません。(注:garageは、日本では車庫のことだが、英語では、修理工場、ガソリンスタンドという場所を指す)ごく普通のgarageという場所を示す以外には、何の意味も示さない、そういう普通の言葉を使いたかった。ジョジーと同様に、garageという言葉も、とるにたらない、人の記憶からすぐ消えてしまうような、ごくありきたりの言葉を使いたかったのです。
 アイルランドで映画がつくられるようになったのは、比較的最近のこと。15年程前にはまだつくられておらず、映画といえばアメリカ映画やイギリス映画でした。そこでは、アイルランド人は、酔っ払いや滑稽なイメージで描かれることが多く、私自身、田舎で生まれ育ってきたが、そういう、他人によってつくられたイメージが嫌でした。アイルランド人も、他の国の人達と同様、まじめで深刻で同じなのだということをまず描きたかった。 また、幾つか作品をつくった後には、コメディのようなものにも挑戦したいとは思っていますが。
Q:脚本が中心に据えられた骨太な作品で、子犬が捨てられるエピソードに、作品の象徴的なイメージが出てきたように感じました。ジョジーのような人が子犬のような運命にならざるをえないことへの怒りや悲しみが、脚本段階で込められているような気がしたのですが?

A:ご指摘のとおり脚本中心の映画だと思います。この映画は私自身の子供時代の思い出の映画でもあり、当時、隣に住んでいた女性が、いつも犬をいじめるのを見ていたので、ジョジーの運命や、このエピソードとも重ねあわせて、カジュアルな形での残酷さというものを描きたかった。

Q:イタリア映画などでは、太った男性が女性にもてたりして楽観的なイメージがある。この作品では、太っているという身体的特徴が悲観的な感じで描かれており、この違いは?
A:アイルランドの、特に田舎では、太った人が出てくると、少し道化的な役割を担うことが多く、皆が笑ったりする。ちょっと太った滑稽な人が出てきて、可笑しなことをして退場してゆく。私は、そういう、外見的に、道化的なイメージ、身体的特徴をもった人についての、シリアスな映画を撮りたかった。外見的には可笑しくみえても、その人の内面には、外見とは全く違った魂、心があることを描きたかったのです。

Q:私も西アイルランドで農業を営むおじさんがいます。彼は一晩中パブで飲んで、いつも午後に起きてきて、と一人暮らしの孤独な人ですが、非常に頭もよく、コミュニケーションや他人と関わるのも上手い。今、若い人たちが孤独感から罪を犯したり、自殺したり、世界的に社会問題になっていると思います。こういう国際的な意味での孤独感のようなことについても考えて、脚本を書かれたのですか?

A:孤独感については、世界中にあるし、ご指摘のとおりだと思います。女性はすぐグループをつくって、孤独感を癒していきやすいが、男性、特に田舎に住む男性は、孤立しやすく、孤独感が強いという気がします。アイルランドの田舎の男性は特に。
だから、国際的な見地とかではなく、田舎の小さな町の一人の孤独な男性を描くことにより、その物語が世界中で共感を呼ぶものであればいいという気持ちで脚本を書きました。
Q:風景のシーンがとても効果的でしたが、脚本段階で意図したのと、できあがった作品とでは、どうでしたか?

A:映画の舞台となった地域は、私の生まれ育ったところ、子供の頃の故郷です。この映画をつくることになり、監督を連れて行って風景を見せましたが、監督は本当に美しい風景として描いてくれ、すばらしかった。彼はアイルランドでもベストの監督で、作品については全く心配していませんでしたし、私の脚本以上に、魔法のように美しい風景を描いてくれました。
 人がよくて、おっとりしたジョジーが、家から修理工場までを行き来する道中の、森や草原、自然豊かな中を歩いていく風景が実に美しい。同じ町の神経質な男に、パブで嫌がらせをされても、決して怒らず我慢する。他人を傷つけるぐらいなら、傷つけられる側にいる、そんな彼の優しさに、癒される女はいても、惚れる女はいない。ずっと孤独な生活をしてきたジョジーにとって、森で会う飼い馬だけが心を許せる唯一の友だったのだろう。サラブレッドとは違い、足が短く胴が太くて、柔和な表情の馬に林檎をあげたりする時の寂しそうな表情が心に残る。

  ジョジーを演じるパット・ショートは、アイルランドで有名な喜劇役者で、シリアスな作品はこれが初めてとのこと。落ち着いたたたずまいから、心の底に抱えている寂しさが、しみいるように伝わった。
ジョジーがした他愛のない行為は、全く悪意もないのに、わずかな思慮を欠いたばかりに、彼を罪人にしてしまう。ひょっとしたら、たまたま明るみになったのはジョジーだけで、警察も、市民のヒステリックな通報をもとに、力弱きジョジーに、いわばスケープゴート的に、罪というレッテルを貼ったのかもしれない。独りの生活を慎ましやかに送ってきたジョジーにとって、田舎の小さな町でのこの事件は、あまりに辛く、耐え難いもので、ジョジーの心は耐えられなかった。と同時に、最後に彼がとった行動は、自責の念と彼なりの謝意の表現であったのでは、と思うにつけ、ジョジーの無垢で優しい魂を守ることができなかったことに、深い悲しみを感じる。

  いずれにせよ、この示唆に富んだ結末を受け止めるのは観客自身。ぜひとも日本での一般公開を期待して、心待ちにしたい。
(伊藤 久美子)ページトップへ
 ザ・ウェーブ
『ザ・ウェーヴ』(仮題)
〜ファシズムの体験授業が招いた悲劇〜

監督・脚本:デニス・ガンゼル(2008年 ドイツ 1時間43分)
原題「Die Welle 」
原作:モートン・ルー「ザ・ウェーブ」
出演 ユルゲン・フォーゲル、フレデリック・ラウ、マックス・リーメルト、ジェニファー・ウルリッヒ、クリスティアーネ・パウル

http://www.oeff.jp/article1720.html
 1969年に実際にアメリカのカリフォルニア州の高校で起きた事件を、ドイツに舞台を変えて映画化。「独裁制」を課題にした1週間の実習授業で、ファシズムを実体験した生徒たちが、いつしか熱狂的な集団に変わってしまう怖さをリアルに描く。教育について深く考えさせる秀作。
 高校教師ライナーは、課題授業で「独裁制」を担当することに。独裁制というものを実体験してもらおうと、ライナーは、生徒のアイデアを生かしてクラスを「ウェーヴ」と命名、教室で全員足を揃えて足踏みしたり、服装を決め、独自の敬礼、規律をつくる。ウェーヴのシンボルマークやホームページもでき、生徒たちの団結心は一気に高まってゆく。
 かつあげしていた生徒も、されていた生徒も、移民の生徒も、ウエーヴの授業を通して、互いにかばいあい、守りあうようになる。生徒たち自身が、ウエーヴに参加し、同じ集団に属することに喜びを感じる姿が鮮やかに浮き上がる。

 同じ服装をせず、仲間の反感を買った女生徒ローリーがクラスからのけ者にされたり、他校との水球の試合の応援を通じて一体感を増していく姿など、ファシズムによって、人の心がいかに容易に操作され、変わってしまうかが、丹念に描写される。なかでも、数人の生徒達が、ライナーを崇拝する熱狂的なグループになってしまい、他の外部の集団に対し攻撃的・暴力的になり、分別を見失ってゆく姿は恐ろしくもリアルだ。
 クライマックス。生徒たちに、「独裁制」の問題点、怖さを教え、実習は終了、ウエーヴは解散とうまくいくはずだった。しかし、一発の銃声が全てを変えてしまう。人の命をいとも簡単に奪う拳銃の恐ろしさを、観客は目の当たりにする。「ぼくにとってウエーヴは命だった」と号泣する少年を前に、もはや言葉が出ない。
 ライナーは、ウエーヴの危険性についてローリーから訴えられ、かすかな不安を抱きながらも、真剣に対処することなく、生徒を信頼し、楽観的であったがゆえに、最悪の事態を招いてしまう。ライナー自身は、反体制派の考えを持ち、独裁性よりもアナーキズムの課題授業を希望していたこと、短大卒の体育教師というコンプレックスを抱えていたという設定が痛切。

 若いということは、純粋でもあり、未熟ということでもある。自由奔放な若者たちのエネルギーは、簡単に操作され、加速し、暴走し、歯止めがかからなくなる。教育というものが、思慮に欠けた場合、ありようによっては、子供たちを煽動する恐ろしいものになりうることを、映画は、わかりやすく、身に迫る体験として教えてくれる。あまりにも怖く、しかし、現実味のある作品だ。
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