topへ
記者会見(過去)
旧作映画紹介
シネルフレバックナンバー プレゼント
 
 ★ 2010年 1月公開
 おとうと
 パチャママの贈りもの
 Dr.パルナサスの鏡
 海角七号 君想う、国境の南
 ヴィクトリア女王 世紀の愛
 (500)日のサマー
 カティンの森
 誰がため
 ドキュメンタリー 頭脳警察
 エル・カンタンテ

 サヨナライツカ

 かいじゅうたちのいるところ

2009年12月公開ページへつづく
 
新作映画
 おとうと
『おとうと』
〜家族という、かけがえのない絆〜

(2010年 日本 2時間06分)
監督・:山田洋次  脚本:山田洋次・平松恵美子 音楽:冨田勲
キャスト:吉永小百合、笑福亭鶴瓶、蒼井優、加瀬亮
2010年1月30日(土)〜梅田ピカデリー、なんばパークスシネマ、 MOVIX京都、神戸国際松竹ほかにて全国ロードショー  
舞台挨拶レポートこちら
公式サイト⇒ 
http://www.ototo-movie.jp/
 “家族”だから、過ちも受け入れることができるし、“家族”ゆえに、信頼が裏切られた時には強い憎しみを抱くこともある。それでも切れないのが家族。時の流れの中で、いつしか許しあえるようになることも…。『男はつらいよ』シリーズ、『学校』シリーズと、市井の人々が懸命に生きる姿を描いてきた山田洋次監督が、今、あらためて、家族をはじめ人と人のありようを見つめ直す。
 姉・吟子の一人娘・小春の結婚式の会場に、長らく音信不通だった弟の鉄郎が、ひょっこり現れる。かつて、吟子の夫の十三回忌で、酔っ払って大暴れした鉄郎の登場に、家族の不安は的中。へべれけになった鉄郎のために、折角の披露宴も台無しになってしまう。何かと厄介ごとを持ち込む鉄郎に、さすがの吟子も我慢がならず、絶縁を言い放ってしまう。季節がめぐり、冬のある日、鉄郎が病院に運ばれたという連絡が大阪から入る…。
 姉と弟…、どんなに喧嘩をしても、幼い時から一緒に育ち、思い出を共有するからこその深いつながりは、なけなしの愛情で結ばれているはず。吉永小百合のソフトな佇まいは、問題児の弟に対し、複雑な思いを抱きながらも優しさを失わない吟子にぴったり。弟を見つめる慈愛たっぷりの眼差しは、鉄郎を演じる笑福亭鶴瓶の軽妙な可笑しみと哀しみに満ちた存在感とともに心に残る。
 そんな姉弟の仲を温かく見守る吟子を囲む家族がいい。とりわけ、自分の結婚式を台無しにした叔父の鉄郎と一度は大喧嘩をしながらも、母の思いを汲み取って、叔父への眼差しが徐々に変わっていく小春を蒼井優が繊細に演じ、気持ちの揺れやささやかな決意がリアルに感じられ、共感できる。小春の幼なじみで、何かと小春のことを気にかけている大工の長田を加瀬亮が演じ、いつも小春を見守りそっと支える、もの静かで地味だけれど頼りがいがある青年を好演。若い役者コンビの活躍が光る。
 鉄郎が身を寄せる大阪の民間のホスピスで、それぞれに事情を抱え、孤独で弱った人達を、優しく包み込む温かなスタッフの姿も印象的だ。そこには、看取る人と看取られる人とが、互いに信頼し、大切にしあう関係があった。

  家族の最期をどんなふうに看取れるのか。誰もが向き合うはずの人生の一場面が描かれ、あらためて家族について考えさせられる。厄介者だったという過去にとらわれることなく、今、目前にいるその人のありのままの姿を受け入れ、精一杯の愛をもって接することができるかどうか…。きちんと看取り、別れることができれば、その人の思い出を胸に、新たな気持ちで、明日に向かって踏み出せるにちがいない。山田監督は、残された家族の姿を希望とともに温かく描いた。人と人とのぬくもりのある関係が失われつつある今だからこそ、ぜひ、本作から、家族ゆえの深い愛を感じてほしい。
(伊藤 久美子)ページトップへ
 パチャママの贈りもの
『パチャママの贈り物』
〜大自然と心豊かな人々の愛情に育まれ〜

(2009年 日本・アメリカ・ボリビア合作 1時間42分)
監督:松下俊文
音楽:ルスミラ・カルピオ

1/16から公開中、第七藝術劇場、
1/30〜京都シネマ、ワーナー・マイカル・シネマズ加古川、
2/27〜神戸アートビレッジセンター

公式サイト⇒ http://www.pachamama-movie.com/
 標高3,600m、南米ボリビアのウユニ塩湖。その面積は四国の半分に相当するだけあって、どこまでも白い大地が広がり、視界をさえぎるものもない。遥か遠くにアンデス山脈がみえ、空はどこまでも青い。
塩湖の堆積した塩を、氷のようにブロックに切り取り、数十頭のリャマ(コブのないラクダ科の動物)の背に載せて、山里の部落に届け、代わりにトウモロコシやカボチャ等を手に入れる。年に一度、3か月に及ぶ塩キャラバンに、父と一緒に初めて出る13歳の少年コンドリの物語。少年をはじめ出演のほとんどが、インカ帝国の末裔、アンデス先住民、ケチュアの人たちで、言葉もほぼケチュア語。
 前半、コンドリの家族の日常が情感豊かに描かれ、家族の間の睦まじい愛情に心温まる。コンドリが父を手伝って黙々と働く姿や、畑で働く祖母の体を心配する姿、妹のために落とした人形を捜しに走る姿など、美しい映像で印象的だ。パチャママとは、先住民の言葉で“母なる大地”のこと。コンドリは、祖父母から、パチャママなる大自然への感謝と怖れの気持ちを教えられ、生活の知恵を身につけてゆく。
 旅先では、皆、父とコンドリとを「1年ぶりだね」と満面の笑顔で迎え、料理や酒をご馳走する。人と人との素朴なつきあいのぬくもりが嬉しい。父も、道中で、ぬかるみにはまったバスを押し上げるのを手伝ったり、熱を出して泣き喚く赤ん坊を抱く女性に薬草をあげたり、他者に対して優しい。コンドリはそんな父の背中をみて学ぶ。映画は、旅での出会いを通して成長していくコンドリを、彼自身の目線で描いていく。
 松下監督は兵庫県加古川市生まれ。NYでCMやドキュメンタリー番組を中心に制作していたが、2001年の同時多発テロ後に訪れたウユニ塩湖の美しさに驚き、ここを舞台にした映画制作を決意。本作は6年の歳月をかけて撮りあげた初長編劇映画。アンデスの美しい風景が映像におさめられ、塩湖を走るコンドリ、ゆっくり進むキャラバンといい、ロングショットが限りなく美しい。逆光でとらえた人のシルエットや、様々な場所から撮られた夕陽と、アンデスの大自然への監督の思い入れが映像に結実した。カラフルな飾りをつけたリャマのユニークな表情や、鳴き声にも心がほころぶ。
 監督は、アンデスの風をフィルムに捉えたかったという。35フィルムでの上映にこだわったわけがわかった。ぜひとも劇場でこの美しい風景に浸り、風を感じてほしい。帰り道で、きっと主題歌の優しいメロディを口ずさんでいるにちがいない。
(伊藤 久美子)ページトップへ
 Dr.パルナサスの鏡
『Dr.パルナサスの鏡』
(原題:The Imaginarium of Dr. Parnassus)

〜人の心を映し出す迷宮へようこそ〜

(2009・イギリス・カナダ/124分)
監督・脚本: テリー・ギリアム
出演: ヒース・レジャー、 クリストファー・プラマー、
     ジョニー・デップ、 ジュード・ロウ、 コリン・ファレル、
     リリー・コール、 アンドリュー・ガーフィールド
2010年1月23日(土)〜TOHOシネマズ 有楽座ほか全国ロードショー
公式サイト⇒ http://www.parnassus.jp/index.html
 2008年1月22日に急逝したヒース・レジャー。彼の死によって一時は製作中止に追い込まれるも、ジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルらヒースの盟友が代役を務めることで、復活・完成した作品がついにベールを脱ぐ。
 舞台は現代のロンドン。1000歳の老人・パルナサス博士が率いる旅芸人一座は、各地を訪問しながら巡業を続けていた。出し物は、博士が所有する魔法の鏡を使った摩訶不思議な体験。博士の導きにより一歩鏡の中へ足を踏み入れると、自分の欲望が具現化された夢のような世界を経験できるのだった。
 そんな折、博士の娘・ヴァレンティナは橋に吊るされた記憶喪失の青年・トニーの命を救う。彼が加わることで一座は活気づくが、博士だけは何かに怯えていた。かつて博士は“不死”と引き換えに、娘を差し出す約束を悪魔と交わしていたのだ。タイムリミットは、ヴァレンティナの16歳の誕生日。やがて、期限の3日前に姿を現した悪魔は、意気消沈する博士に「勝てば娘を見逃してやる」と、さらなる勝負をもちかける。その賭けとは、鏡の向こうの世界で先に5人を獲得すること。事情を聞いたトニーは、博士の勝負に協力を申し出るが…。




 映像・役者・物語、すべてが期待以上。安易にパラレルワールドを体験させるだけでなく、テリー・ギリアム監督のアクの強い作家性や、アーティストとしての苦悩、誘惑に弱い人間の心の闇が盛り込まれた奥の深い作品となっている。あまりに吸収することが多すぎて、一度の鑑賞では“物足りない”と思わせるほどだ。

 面白いのは、鏡の中で正しい選択を見誤ると悪魔に制裁され、元の世界に戻れなくなるという設定。これは、博士と悪魔の関係性からも分かるように、欲にかまけ理性を失うと人生の破滅が待っているという教訓を表している。全体的に内容や美術は童話チックだが、所々に毒を盛り込む辺りが「本当は怖いグリム童話」のようで、ひねくれた大人のイマジネーションを刺激する。

 謎めいた男・トニーを演じるヒース・レジャーは、惜しくも現実世界を撮り終えた直後に急死した。そのため、鏡の中に入ると、観客の願望によって容貌が変わるという設定がもうけられた。トニーは3度鏡の中へ入ることになるのだが、客の理想をジョニー・デップ、トニー自身の願望をジュード・ロウ、ヴァレンティナの希望をコリン・ファレルがそれぞれ演じている。このアイデアは、ヒースを亡くしたギリアム監督の苦肉の策であるが、まるで初めからこう描くことが決まっていたかのように、摩訶不思議な迷宮の魅力に拍車をかけている。

 さらに、ヴァレンティナ役に扮したスーパーモデル、リリー・コールのどこまでもドーリーな佇まいと、『Boy A』で英アカデミー賞主演男優賞を受賞した若手注目株、アンドリュー・ガーフィールドの母性本能をくすぐる完璧な子分キャラも必見だ。

 ギリアム監督は、本作で幸せとは何かを突きつめ、想像力が世界を救うという希望を投げかけているようだ。近頃、巨匠たちがこぞって異空間ファンタジーをテーマに選ぶのはどうしてなのだろうと疑問に思っていたが、「想像×創造」の力は心の豊かさの原点に通じているからなのかもしれない。Dr.パルナサスのミラーマジックは、迷宮に見せかけたより良い未来への道しるべなのかもしれない。
(中西 奈津子)ページトップへ
 海角七号 君想う、国境の南
『海角七号 君想う、国境の南』
〜「野ばら」の合唱にそれぞれの想いが結晶〜

(2008年 台湾 2時間10分)
監督・脚本:魏徳聖(ウェイ・ダーション)
出演:范逸臣(ファン・イーチェン)、田中千絵、中孝介、林暁培(シノ・リン)、梁文音(レイチェル・リャン)

2010年1月9日〜梅田ガーデンシネマ、
順次京都シネマ、神戸アートビレッジセンター にて公開

公式サイト⇒ http://www.kaikaku7.jp/
 海角七号、それは台湾の最南端の町、恒春の今は存在しない、日本統治時代の住所。送られることのなかった7通のラブレターが、60年の時を経て、届けられ、今、現代を生きる若者たちの思いとともに、歌に結晶する。
 
  故郷、恒春に帰って来た阿嘉(アガ)は、郵便配達のバイトで、日本からの海角七号あて郵便物を見つける。それは、台湾が日本統治下にあった1940年代、敗戦でひとり帰国する日本人教師が、恋に落ちた台湾人の教え子に当てて綴った手紙だった。
 台北でミュージシャンになる夢に敗れた阿嘉は、日本人歌手のコンサートの前座として結成された地元バンドに加わることになる。バンドのスタッフの日本人の元モデル友子と阿嘉とのほのかな恋を主軸に、寄せ集めのバンドで、ばらばらだったメンバーが喧嘩し、ぶつかり合いながらも、次第に心を一つにしてゆく様が、阿嘉と友子の、海角七号というあて先探しの試みと並行して描かれる。
 老若男女さまざまで個性的なバンドのメンバーが、皆生き生きとしていて魅力的だ。茂(ボー)じいさんは、月琴では国宝級の腕前だが、現代バンドと伝統楽器の月琴とはどうしたってミスマッチ。頑固者で目立ちたがり屋だが、本音を隠さぬ老人の存在はユーモアにあふれ、楽しい。バイク店の修理工、通称カエルの、店長の奥さんへの切ない恋と、メンバーそれぞれが挫折をした経験をもち、互いを尊重し、譲り合う優しさが、本番のコンサートの最後の最後の歌で、思わぬハーモニーを生み出し、感動的だ。
 映画は、60年前、日本人教師の青年が船上で手紙を綴る姿や、手紙の朗読を、現代のシーンの合間に挿入していく。愛の苦悩を綴った手紙がどんな少女にあてられたのかはっきりと示されないが、手紙の美しい言葉から少女への深い愛が切々と伝わってくる。そして、クライマックス。手紙の宛名の当人が見つかり、今は老婆となった女性の元に届けられる。少女と青年との別れの回想シーンも描かれ、観客はあらためて手紙に込められた思いをかみしめなおす。悲恋に終わったとはいえ、青年が少女を誠実に愛していた思いが、コンサートの「野ばら」のメロディーに重なり、観客の胸に迫ってくる。
 台湾で爆発的大ヒットしたという本作。夢を抱き続ける若者たちの舞台での輝きを焼き付けるとともに、日本人青年の深い愛が、数十年の歳月を経て、台湾に残された少女に伝えられる奇跡を、そっと歌に重ね合わせた監督の手腕が光る。
(伊藤 久美子)ページトップへ
 ヴィクトリア女王 世紀の愛
『ヴィクトリア女王 世紀の愛』 (原題:The Young Victoria)
〜理想のカップルができるまで。
        若き日のヴィクトリア&アルバート〜

(2009年 イギリス・アメリカ 1時間42分)
監督:ジャン=マルク・ヴァレ   脚本:ジュリアン・フェロウズ
出演:エミリー・ブラント、ルパート・フレンド、ポール・ベタニー、
     ミランダ・リチャードソン
2010年1月16日(土)〜梅田ガーデンシネマ、京都シネマ、神戸国際松竹、他、TOHOシネマズ西宮OSにて順次公開
公式サイト⇒  http://victoria.gaga.ne.jp/

 新春にふさわしい英国王室を舞台にした豪華絢爛な映画がやってきた。しかも、イギリスが「太陽の沈まぬ国」と称せられるほど急発展を遂げた頃の女王・ヴィクトリアが主人公。ドイツの貴公子アルバートと出会って恋をして、良き伴侶として絆を深めていくというお話だが、そこには孤独な少女の苦悩や女王としての責務の重大さ、そして花婿との確執などが綴られ、知られざる若き日のヴィクトリア女王の人間性に迫る秀作である。
【STORY】 ウィリアム国王の姪のヴィクトリアは第一王位継承者で、彼女をコントロールして権力を握ろうとする母の個人秘書コンロイに摂政政治を承認するよう強く迫られていた。だが、父親を心から敬愛していたヴィクトリアは、母と親密な関係にあるコンロイを嫌い、断固拒否した。大国の女王の花婿の座を狙って各国の王侯貴族が婚姻を画策する中、ヴィクトリアはベルギー国王の甥であるアルバート公と出会う。そして、ベルギー国王の差し金と分かりつつも、アルバート公の容姿端麗で気品に満ちた聡明で誠実な人柄に惹かれていく。そんな矢先ウィリアム国王が亡くなり、ヴィクトリアは18歳で王位に就く。二人はどのようにして信頼を深めていくのか・・・・・・
 女王になるべくして生まれた少女の気持ちって分かりますか? イントロで語られる少女の孤独な生い立ちや、温もりのない宮殿という環境。母親でさえも他人のような存在で、心から信頼し甘えられる状況ではなかったようだ。そんな彼女が18歳で即位し、議会と調和を計りながら国を統治していく様子は、若い身空で女王としての重責を担い、自由の利かない日常のなんと過酷なことか、と驚かされる。そんな彼女の心の支えとなったのがアルバート公。プロポーズは女王の方からしなければならなかったようで、恥じらいながらも喜びと緊張で顔を紅潮させてプロポーズの言葉を口にする表情のなんとウブで可愛らしいこと!
 最初ヴィクトリア女王の役をエミリー・ブラントが演じると聞いて驚いた。『サンシャイン・クリーニング』(‘09)であのヤンキーなねぇちゃんを演じていた…!? だが、そんな心配などこのプロポーズのシーンで一変に吹き飛んでしまった。若き日の繊細なヴィクトリアを丁寧に演じて、女王の内面をリアルに見せてくれた。改めて、彼女の芸域の広さに驚いた。
 一方、アルバートを演じたルパート・フレンドも、貴公子としての気品と美貌を兼ね備えた文字通りの美男子。『縞模様のパジャマの少年』(‘09)で冷徹なドイツの若き将校を演じていたので、一目置かれた方も多いのでは? イギリス出身のイケメンといえば、ジュード・ローやオーランド・ブルームなどを思い出すが、昔から貴公子を思わせるような男優は多かった。ヒュー・グラントやコリン・ファース、ダニエル・デイ=ルイスなども、かつてイギリス映画がブームだった頃の人気俳優だ。オーランド・ブルームの背を高くしたようなこのルパート・フレンド―この映画をきっかけに人気に火が付くに違いない!

 また、「王室を描くために欠かせなかった」というイングランド・オールロケと、サンディ・パウエルの女王の心情を表現しているような素晴らしい衣装も本作の大きな魅力だろう。本物の宮殿だからこそ奥行きのある重厚さを楽しめるというもの。 (ロケ地巡りしたくなってきた〜♪)
 ヴィクトリア女王は、在位歴64年(1837〜1901年)と歴代の王の中でも最も長く、夫君のアルバート公との間には9人の子宝に恵まれ、イギリス王室の中でも一番のおしどり夫婦と言われた。アルバート公が出身地のドイツから取り寄せたツリーをバックに王室一家がクリスマスを祝う様子を描いた絵画が広まり、国民から理想的な家庭像として広く親しまれ、大英帝国のシンボル的存在だった。クリスマスには家庭でツリーを飾る習慣ができたのもこの頃からだという。
 18世紀のハプスブルク家絶頂期の女帝・マリア・テレジア(マリー・アントアネットの母君)も夫・フランツとの間に16人の子供を産んでいる。どうやら、子沢山の女帝の御代には国が栄えるらしい。ところが、アルバート公が腸チフスに罹り41歳の若さであっけなく逝去してしまうと、ヴィクトリア女王はその後亡くなるまでの40年間喪服で通したという。(『Queen Victoria 至上の恋』(’97)は、女王の晩年を描いている)。また、夫に先立たれたマリア・テレジアも喪服で通したらしいので、二人には共通する点が多いようだ。
(河田 真喜子)ページトップへ
 (500)日のサマー
『(500)日のサマー』
〜センスのいい映像とチャーミングなキャストで綴る
                     恋愛ラプソディー〜

(2009年 アメリカ 1時間36分 PG-12)
監督: マーク・ウェブ
出演: ジョセフ・ゴードン=レヴィット、
     ズーイー・デシャネル、 ジェフリー・エアンド
2010年1月9日(土)〜シネ・リーブル梅田 シネ・リーブル神戸 
    2月27日(土)〜京都シネマ 

公式サイト⇒
 http://movies.foxjapan.com/500daysofsummer/
 「男女間の友情は成立するorしない?」「友達以上、恋人未満の関係は、アリorナシ?」「特定の恋人を作るor作らない?」こういった問いへの答え次第で、本作への共感度が大いに変わってきそうな異色ロマコメ。真実の愛を信じており、ガッツリと恋愛したい男子・トムと、運命論に否定的でフランクな付き合いを好む女子・サマー。2人が出会って別れるまでの500日間を“男目線”でユニークに語る。
 グリーティングカードを制作する会社に勤めるトムは、新しく入社した秘書のサマーにひと目ぼれ。出会って4日目、ロックバンド「ザ・スミス」をきっかけに急接近した二人は数回のデートで距離を縮め、やがて自然と結ばれる―。ここまでは、通常誰もが経験する恋愛の序曲だ。しかし、トムとサマーの間には決定的な価値観の違いがあった。
 サマーを運命の女性と疑わず有頂天になるトムを尻目に、愛を信じないサマーは“友だち”関係でいることを強調する。「好きだけど、真剣に恋人としては付き合えない。それでもいい?」サマーの思わぬ提案に絶句しつつ、“気軽”な関係を受け入れたトム。だが、彼女への愛が深まるにつれ、もどかしい思いが大爆発。誰が見ても恋人同士のはずなのに、肝心のサマーだけは頑なに付き合いを否定する。
 両思いなのか、片思いなのか。困惑顔で彼女のフリー恋愛に振り回されるトムを、チャーリー・ブラウンが大人になったような“フツー男子”ジョセフ・ゴードン=レヴィットがチャーミングに演じる。一喜一憂するたびに表情がコロコロ変わり、恋に恋する夢見がちな20代男子の生態をリアルに捉え、甘酸っぱい気持ちを見事に体現した。
 一方、少し奇抜な恋愛観をもつサマーに扮したのは『ハプニング』や『イエスマン“YES”は人生のパスワード』に出演するズーイー・デシャネル。下手すると“お高くとまった女”と嫌われかねない役も、透き通った青い瞳をもつズーイーが演じるとキュートに変わる不思議。まさに“天然小悪魔”的オーラ全開で、男を翻弄していく。その言動は時おり、女性の理解をも超えるもので、普段から女心が分からないと嘆いている男性には不可解極まりないものだろう。

 そんなキャラ設定を踏まえてか、本作はロマンチックなエンディングに着地しない。風変わりなヒロインが、男の一途な思いにほだされ「運命って本当にあるのね」と心を震わす…、そんなハッピーエンドなんてあるわけないさと言わんばかりに、トムは悲惨な振られ方をする。脚本家コンビのスコット・ノイスタッターとマイケル・H・ウェバーは、トムの絶望を通じて「運命と直感した相手を失っても、愛を信じていられるか?」「そもそも、運命なんてあるの?」「愛はまやかしか?」という失恋時に感じる疑問を徹底的に洗い出したかったと言う。観客はトムと一緒に“2人の500日”を客観的に見つめることで、愛とは何かを学び、喪失から再び心に余裕を取り戻していく術を知る。本作はズバリ、ラブストーリーに見せかけた「フラレ男の失恋回想録」なのだ。思い出を整理して立ち直ったトムが、新たな一歩を踏み出すラストシーンにとても勇気づけられる。

 そのほか、時間軸を往来して主人公の気持ちを効果的に語る、男女の温度差を2画面で同時に見せるなど凝った語り口と、センスのいい映像表現にも注目。

(中西 奈津子)ページトップへ
 カティンの森
『カティンの森』 (原題:Katyn)
〜葬られた歴史を紐解き、
      ポーランドの人々の戦後に想いを馳せる〜

(2007年 ポーランド 2h02分)
監督・脚本:アンジェイ・ワイダ
出演:マヤ・オスタシェフスカ、アルトゥル・ジミイェフスキ
2010年1月9日(土)〜シネ・リーブル梅田、シネ・リーブル神戸、京都シネマにて公開
公式サイト⇒  http://katyn-movie.com/pc/

 1989年のベルリンの壁崩壊後、それまで社会主義政権下にあった国々の隠蔽された歴史が次々と明らかにされている。その中でも、第二次世界大戦中に起こった「カティの森事件」については、ソ連がポーランドを制圧しやすいように、知識層でもあった軍の上層部や教師や宗教関係者などを虐殺したという様に聞いていた。だが、その詳細や事件が及ぼした影響についてはあまり理解できていなかったように思う。本作は、自らの父親もこの事件の犠牲者であったアンジェイ・ワイダ監督が、「この映画を作ることが監督としての使命」という想いから両親に捧げられた渾身作である。

 1939年9月、ナチスドイツとソ連の両方から侵攻されたポーランドは、独ソ不可侵条約を締結され降伏する。その際、ソ連側で25万人に及ぶ軍人や民間人が捕虜となり、その後釈放されたのはほんの一部で、未だに行方不明者は多数にのぼるという。そして、1943年、国境に近いソ連領カティン近くの森でポーランド将校らの数千の遺体が埋められているのが発見され、当時の調査ではソ連のKGBの犯行と立証された。
 しかし、第二次大戦後の東西のパワーバランスの影響で、ニュリュンベルク裁判でもこの事件について明らかにされることはなく、戦後ソ連の傘下におかれたポーランドでは口にすることすら禁じられてきたのだ。

 本作は、大戦勃発時、東西から挟み撃ちされるように侵攻されたポーランドの人々が逃げ惑い橋の上でぶつかるシーンから始まる。いかに急な侵攻だったか、そして混乱の中捕虜となった男たちの家族への想いや、夫や息子や兄弟を奪われ、その帰宅を信じて戦乱を生き抜く家族の苦労や悲哀などが、様々な人生が折り重なるようにダイナミックに描かれていく。
 特に、捕虜となった人々が、不安を抱えながらも軍人として毅然とし、仲間や家族を思いやる様子や、真実を声にしようとしてもすぐにかき消されてしまう抑圧された政治状況下での生活など、最後の虐殺シーンに込められた無念さがひしひしと伝わり胸を締め付ける。
 また、夫の帰還を信じて待つ主人公のアンナの姿は、死亡者名簿に名前が間違って記載されていたため夫の死を受け入れられず、いつまでも待ち続けたアンジェイ・ワイダ監督の実の母親がモデルとされる。ワイダ監督でなければ撮れなかった作品といえるだろう。

 今なお戦火の絶えない現代、私達はこうした映画を通じて戦争がもたらす悲劇を数多く見てきた。果たしてそこから何を学び、どう変わればいいのだろうか。どんな言葉を連ねても、人間のあらゆる欲望が暴走するのを食い止める勇気と理性がない限り、この世から戦争は無くならないだろう。せめて、大切な人を思いやる気持ちだけでも確かなものとして、強く生きていきたいものだ。
(河田 真喜子)ページトップへ
 誰がため
『誰がため』 (原題:Flammen & Citronen)
〜戦うことしかできなかった者たちへのレクイエム〜

(2008年 デンマーク・チェコ・ドイツ 2時間16分)
監督:オーレ・クリスチャン・マセン
出演:トゥーレ・リントハート、マッツ・ミケルセン、
    クリスチャン・ベルケル
2010年1月9日(土)〜テアトル梅田、シネ・リーブル神戸、
1月23日(土)〜京都シネマにて公開

公式サイト⇒  http://www.alcine-terran.com/tagatame/
 人魚姫の銅像や世界で一番古い遊園地チボリ公園があるデンマークのコペンハーゲン。王宮を中心に大学や教会や公園が広がり古い建物を活かした街並は童話の世界のように美しく、行き交う人々も平穏で健康的な印象がする。だが、この国にもあまり思い出したくないような歴史があった。それが、第二次世界大戦中の5年間だという。
 第二次世界大戦中の北欧4カ国は複雑な状況下にあった。ソ連に隣接するフィンランドはナチスドイツと同盟を組みソ連と戦い、一方の西の端ノルウェイはナチスドイツと戦ったが、スウェーデンとデンマークは中立を保っていた。ところが、ナチスドイツと不可侵条約を締結しても「保護占領」(イギリスから守るため)という名目でドイツの支配下におかれ、反ファシズム派からなる地下組織が熾烈な抵抗運動を繰り広げることとなる。本作は、戦後英雄として認められた実在の二人の青年の抵抗運動と、その実情や人間性に迫った力作である。
 まだ二十歳前後のフラメンことベント・ファウアスコウ=ヴィーズの純粋な反ファシズム精神は、彼をナチスドイツへの協力者や密告者を容赦なく抹殺する暗殺者へと変貌させる。一方、フラメンより11歳年上のシトロンことヨーン・ホーウン・スミスは、妻子の生活を心配しながらも抵抗運動へ心頭していく心優しき活動家。この二人が、組織の指導者ヴィンターの指示で次々と殺人や破壊活動を実行していくが、次第にナチスからも追い詰められ、本来の目的と離れてしまうような事態となり、一体何のために、誰のために戦っているのか、という疑問が大きくのしかかってくる。
 若くストイックなフラメンが躊躇なく暗殺するシーンは、ゾッとするほどクール。そんなフラメンが、ケティという正体不明の年上の女性にのめり込む辺りは、若気という弱点を露呈させているようでスリルがある。また、ナチスの司令官を暗殺しようとして無関係な市民を殺してしまう辺りの焦燥感は、彼等の活動の意味を問う大きなターニングポイントとなっている。
 彼等を単なる英雄として描くのではなく、人として正義や愛情に迷いを見せながらも戦うことしかできなかたった青年たちを切なく感じさせる辺りは、人間ドラマとしても奥深いものがある。そして、あらゆる事態で判断を迫られた時にとるべき行動とは・・・・・・二人が駆け抜けた時代を通して考えさせられることは多いように思う。
(河田 真喜子)ページトップへ
 ドキュメンタリー 頭脳警察
『ドキュメンタリー 頭脳警察』
〜伝説のロックバンドが、再び〈今〉を撃つ!〜

(2009年 日本 107分+103分+104分=5時間14分)
監督: 瀬々敬久
出演: PANTA、TOSHI、菊池琢己 ( guitar )、中谷宏道 ( bass )、中山努 ( keyboards )、小柳 "CHERRY" 昌法 ( drums ) 他

1月16日(土)から第七芸術劇場、
順次京都みなみ会館、神戸アートビレッジセンター  にて公開

公式サイト⇒ http://www.brain-police-movie.com/
 1970年代、学生運動に身を投じた若者たちから同志的に受け入れられ、熱狂的な支持を得たロックバンド「頭脳警察」。そのボーカリスト、PANTA(パンタ)が解散したバンドを本格的に復活させた2008年までの3年にわたる軌跡を、瀬々敬久監督が追い、ドキュメンタリーにした。PANTA1人を軸にして実に5時間14分に及ぶ3部作が完成するのだから、いかに多面的で、奥深い魅力を持つ人物であるかが想像できるだろう。彼の歩みの背景に日本の現代史の一端も重ねて観ることができる、広がりを持つ作品に仕上がっている。

 6年でバンドを解散し、ソロに転じて一線で活動を続けてきた59歳のロッカー。彼が、再び「頭脳警察」の楽曲に託して現代に突きつけるメッセージは、かつてより一層鮮烈に響き、初めて聴く若い世代の心をもストレートに撃つ。’08年のライブ映像から始まる冒頭で、そのことが強く伝わる。

 ’72年のデビューアルバムで「赤軍兵士の詩」などの楽曲を歌い、レコード会社に発売禁止にされるなど、過激で、挑発的で、強面のイメージが先行した若いころに比べると、年齢を重ねたPANTAは一見、丸くなったように感じる。だが、映画を観ていくうちに、それは違うと気づく。彼が音楽を通じて表現したいことは、昔と少しも変わっていない。むしろ、’70年代という独特な時代がバンドに対して政治色の濃い反体制的なイメージを作り上げ、PANTAという優れたミュージシャンの表現の自由をかえって狭い枠の中に閉じ込めてしまっていたことを、映画はひも解いていく。

  成田空港建設に反対する学生たちによる三里塚・幻野祭でのライブの模様など、「頭脳警察」時代の初期の貴重な映像を交えつつ、自分たちの意に反するイメージにバンドが引っ張られていくことに戸惑いと不安が大きくなり、解散に至る経過が描かれる。
 その後、PANTAは、最愛の母の死を機に、彼女の戦争体験をたどることになる。母は昭和戦争中、従軍看護士として日本軍の病院船「氷川丸」に乗ってシンガポール沖に向かった。激戦地で傷ついた兵隊の手当に奔走し、帰国した母は、どんな思いを抱いて逝ったのか。それを知りたいと当時の関係者を訪ね歩く。ソロ転向後、自身のバンド「PANTA&HAL」で発表した名盤「マラッカ」が、母の体験をモチーフに生まれたことが、楽曲のライブ場面を効果的に折り込みながら語られていく。
 映画はまた、PANTAが元日本赤軍の最高指導者、重信房子を拘置所に面会に訪れて交流を続け、重信と共作した曲を、彼女の長女メイと共にレコーディングする姿も追う。重信に「あなたには今、政治も民族も宗教も超えて、誰の心にも訴える<普遍>を詞にして欲しい」と依頼するPANTA。「重信さんの行いの善悪を問うんじゃない。俺自身があの時代に本気で向かい合えたのか納得していないから、彼女の思いを伝えることにこだわり続けたい」と話す。
 そう、PANTAが歌うのは、自分ではどうすることもできない<流れ>にほんろうされていく人々の思いだ。だから、赤軍も母親も、パレスチナも日本も、彼はずっと同じ目線で見てきたのだ。若いころから変わらない、彼の青臭いまでの純粋さを映し出すことが、瀬々監督の狙いだったように思う。
 PANTAは「頭脳警察」結成時からの盟友、TOSHI(トシ)のパーカッションに乗せて初期の代表曲「銃をとれ」を歌い続ける。彼らがこの曲に込めた思いは今、争いが絶えず混迷を極める世界の人々に向かって響くはずだ。迫力のライブ場面を見ながら、確信した。

(佐々木 よう子)ページトップへ

 エル・カンタンテ
『エル・カンタンテ』
〜伝説のサルサ歌手夫妻の人生を描く人間ドラマ〜

(2006年 アメリカ 1時間54分)
監督:レオン・イチャソ
出演:マーク・アンソニー、ジェニファー・ロペス、ジョン・オルティス、マニー・ペレス、ヴィンセント・ラレスカ
2010年1月16日(土)〜シネ・ヌーヴォにて公開

公式サイト⇒ http://www.artport.co.jp/movie/elcantante
 ビヨンセが製作に関わり出演もした『キャデラック・レコード』(8月15日東京公開で全国順次公開)は、彼女の音楽的ルーツを辿る作品である。でもって本作もまた、シンガーでもあるジェニロペことジェニファー・ロペス(製作・主演)の源流となる、プエルトリコ経由のNYサルサに対して、リスペクトを捧げる作品となった。
 サルサそのものは、ラテン音楽の中で昔から存在していたものだが、それをNYという土地に根付かせて、よりアーバン・スタイルに進化させたのがNYサルサなるものだ。そして、そのNYサルサは大ヒットした。そのプロセスの中で、夫婦の絆や音楽への熱意が描かれるのが、本作の実話をベースにした作品である。ジェニロペはかつてない意気込みでこの映画に臨んだことが、ありありと分かる。『イナフ』(‘02年)など、妻役でかつて主演したことはあるが、これほど演技性を打ち出すような映画には出演しなかった。自らの映画製作会社「ニューヨリカン・プロダクションズ」の製作であることや、実際の夫である歌手マーク・アンソニーとの、夫婦役共演ということもあるかもしれない。しかし、その私生活レベルを遥かに超えた作品となったのが本作だ。
 2002年に妻役のジェニロペが、マスコミからインタビューを受ける形で語るシーンを現在として、1963年以降の過去を振り返る構成であるが、現在はモノクロにし、過去は一部モノクロをフラッシュしてモンタージュする時もあるけれど、カラーで展開する。このスタイルは、暗い現在を示す『ジョニーは戦場へ行った』(‘71年)、過去の明るい気持ちと現在の沈んだ気持ちを対比させた『初恋のきた道』(‘00年)などで披露された手法である。それを本作では、登場人物たちの気分の明暗効果をもくろんで、思いっきり披露してみせる。サルサを含めた音楽映画としての熱演ぶりは必見だが、ファンキー・サウンドに加え、細かい感情表現シーンでは、ピアノやトランペットを静かに流していくのも見逃せない。
 「くたばれ(ファック・ユー)」なんてわめく夫婦ゲンカのシーンを始め、子供へのステージ・ママならぬ、夫でもある歌手のエクトル・ラボーへの、ステージ妻的な設定シーンなどが続く。夫を有名にする妻の本作とは違い、夫妻が共に有名人だった『フリーダ』(‘02年)などを思い出させる夫婦映画としての、さまざまなシークエンスが心をくすぐる映画でもある。実話なのでネタバレがどうのこうのはないのだが、彼らの実話を知っている人たちでもキュンと胸にくるはずだ。
(宮城 正樹)ページトップへ
 サヨナライツカ
『サヨナライツカ』
〜映像を聴き,音楽を観て,愛することを思う〜

(2009年 韓国 2時間14分)
監督・脚本:イ・ジェハン
出演:中山美穂,西山秀俊,石田ゆり子,加藤雅也,マギー

2010年1月23日より新宿バルト9、丸の内TOEI2 他
関西では、梅田ブルク7、なんばパークスシネマ、MOVIX京都、神戸国際会館 他全国ロードショー

公式サイト⇒ http://sayo-itsu.com/
 豊(西島秀俊)は,1975年,婚約者の光子(石田ゆり子)を東京に残し,タイのバンコクに赴任する。そこで,沓子(中山美穂)と出会い,その魅力に溺れていく。熱気に包まれ,非日常的な魅惑の時間が流れていく。だが,やがて東京に戻って光子と結婚する。そして,2000年,再びバンコクを訪れたとき,沓子と再会する。25年という歳月を隔てた2つの時間。その中で織り成される3人の心模様が美しい音楽と映像で丁寧に綴られていく。
 音楽は,オペラ「リゴレット」やバッハが使われ,ボサノヴァやジャズも流れる。監督は,シューベルトやバッハのような微妙な感情を漂わせる音楽を望んだという。ソ・ジェヒョクがこれに応え,映像にマッチした豊かな音楽を生み出した。映像は,悠然として,エキゾチシズムの漂う豊と沓子の情愛の世界を丹念に描く。別れの予感が大きくなるに連れて,豊の葛藤も激しくなる。光子が沓子の前に突然現れたときの緊迫感は相当なものだ。
 3人の心情がスクリーンの上に染み出てくるような映像が続く。中でも沓子の変化が面白い。魔性の女ファムファタルのようなイメージをまとっているが,次第に壮大な夢を抱く好青年・豊に惹かれていく。大勢の男に愛されることから一人の男を愛することへ。この滑らかな変化は,中山美穂の感性によるところが大きいのだろう。一方,石田ゆり子は,どこか“武家の妻”のようだと思ったという光子に扮し,凛とした佇まいを見せてくれる。
 韓国映画の特徴もよく出ている。たとえば,カメラは,沓子との別れの時,豊の周りをぐるぐる回って,不安を増幅させていく。沓子が霞のように去っていく。その後,光子が飛び込むように豊を抱き締める。その唐突感がいい。また,写真とボールが25年の時を繋ぐ小道具として効果的に使われる。光子と沓子が並んで撮った写真は,光子の封印した思いが込められている。ホームランボールは,豊の夢がこもっている。なかなか充実の一本だ。
(河田 充規)ページトップへ
 かいじゅうたちのいるところ

『かいじゅうたちのいるところ』
原題: WHERE THE WILD THINGS ARE
〜思い通りにならないコミュニケーション〜

(2009年 アメリカ 1時間41分)
監督:スパイク・ジョーンズ
出演:マックス・レコーズ,キャサンリン・キーナー,マーク・ラファロ,ローレン・アンブローズ,クリス・クーパー,ジェイムズ・ガンドルフィーニ,キャサリン・オハラ,フォレスト・ウィテカー,ポール・ダノ

(C) 2009 Warner Bros. Entertainment Inc.
2010年1月15日より丸の内ルーブルほか全国にて公開

公式サイト⇒ http://wwws.warnerbros.co.jp/wherethewildthingsare

 主人公マックスは8歳の男の子で,姉や母親が自分に注目してくれないことに不満を募らせていた。姉は弟より同年代の友達を大切にしており,母親は息子ではなく恋人の方を向いている。だが,監督は,マックスがのけ者にされたことで意気消沈する姿ではなく,彼の自分勝手な振る舞いを強調しているようだ。彼が母親に反抗する姿は,駄々をこねて母親を困らせているのではなく,誠に身勝手な感じで,傍若無人という言葉がふさわしい。
 そんなマックスが母親に噛み付いて,家を飛び出す。行き着いた先が「かいじゅうたちのいるところ」だった。彼は,かいじゅうたちの王様になり,全てを自分で支配できる地位を手に入れる。彼の思い通りになる理想の世界のはずだった。現に,彼は自分のやりたいことを実現していく。だが,そんな楽しい時間は決して長く続かなかった。性格や考え方の異なる多様なかいじゅうたちを束ねるのは,強制でもしない限り容易ではないからだ。
 監督は,「マルコヴィッチの穴」(99),「アダプテーション」(02)のスパイク・ジョーンズだ。この前二作から窺われるように,マックスとかいじゅうたちの世界にファンタジックさは感じられない。かいじゅうたちの外見と性格のギャップからユーモアが生み出されることもない。むしろ,かいじゅうたちの重さや息遣いが感じられる。家を壊したり泥の塊を投げ合ったりといったアクション・シーンにも,どこかシリアスさが漂っている。
 もちろん,最初から予想されるとおり,マックスは最後には母親の待っている家に帰ることになる。そのときにカメラが捉えるマックスの表情は,本作を子供の成長物語として安直に受け止めることを断固として拒否するものだ。子供に限らず大人も,他人が自分を理解してくれないと思い込んでしまうことが往々にしてある。が,それを裏返せば,自分が他人を理解していないことになる。マックスはそのことに気付いたような表情を見せる。
(河田 充規)ページトップへ
 
 
HOME /ご利用に当たって