映画監督キム・ギドクは,映画を撮りたくても,危険なシーンを撮るべきかなどと考えてシナリオが書けなくなったという。朝鮮戦争で人を殺したアメリカ兵が心のわだかまりを消そうとする物語を撮りたいそうだ。彼自身,僧侶となって仏像を携え,腰に巻いたロープで石臼を引きずり冬の山道を歩む,「春夏秋冬そして春」の自分の姿に号泣する。アリランは,過ちを避けられない人間の悲哀を見据え,平安を求める魂を歌っているようだ。
田舎の人家から少し離れた場所にある粗末な小屋で一人暮らしをしている男がいる。その日常生活の様子が描かれる。この男は一体何をしているのかという疑問が湧いてくる。そのとき,「レディー・アクション」という掛け声で俳優が演技を始める,とカメラに向かって話し始める。キム・ギドクは今なぜ映画が撮れないのかと自分に問い掛ける。撮りたい映画の話をするうち,ギドクの分身が現れて,なぜ映画を撮らないのかと責め立てる。
キム・ギドクは,1996年から2008年までに15本の映画を撮ったが,それから3年も映画を作れなかった。前作「悲夢」の撮影中に女優が命を落としそうになったという。彼は,自分の分身に責められて居たたまれない面持ちだが,漸く明確な答えは見付からないと語り始める。何の迷いもなく映画を撮り続けてきたが,具体的な死に直面したことで迷いが生じて立ち止まった。そして,自分が歩んできた道を振り返り,新たな死生観が生まれる。
死とは別の世界に続く神秘のドアではなく未来へのドアを閉めることだと考えるようになった。アリランを歌いながら,人生は這い上がっては落ちていくことの繰り返しだと言って泣き出してしまう。それを見た第3のギドクは笑いが止まらない。キム・ギドクが言う,人生を凝縮すると,寂しさと孤独だと。また,さっき泣いたのはドラマチックな演出のための演技だったのかも,と。さらに,太陽に照らされてできた自分の影まで登場する。
人生にとって一番大事なものは何かと影に問われ,サディズムとマゾヒズムと自虐,他人を苦しめ,他人から苦しめられ,自分を苦しめることだと答える。人類の歴史から見れば人生はちっぽけなもので,幸せは全て一瞬に過ぎない。人生はそんなものだと思い至ったとき,「お前のようなクズを記憶する俺を殺してやる」と3発の銃声を響かせ,4発目の銃口を自分に向ける。16作目は,再び映画と共に生きるという,キム・ギドクの宣言だ。